2010年8月27日金曜日

キサゴナ遺跡

 いきなり村人に見つかるアクシデントはあったものの上手く誤魔化し、無事に村を抜け出したユールは、村の外を徘徊する魔物たちに煩わされることなく、昼前にはキサゴナ遺跡へたどり着いた。
 遺跡の内部はほのかに明るかった。壁や天井が崩れ、隙間から陽光が差し込んでいる。石畳の床は風に運ばれ根付いたらしい植物でところどころ緑に覆われている。
 入口正面の床には地下水を汲み上げた泉が作られており、壁の薄青い石材とともに静謐な雰囲気を醸し出している。人はおろか、魔物の姿も見えない。
 泉の先には巨大な壁画があった。大きな茶色い塊(角の生えた獣のように見える)、不思議な装飾が施された貫頭衣を身につけた人々、いたるところにちりばめられた六角形の意匠。
 今はもう滅びてしまった太古の民族が残した記録である。絵と共に書かれた文字は古すぎて、天使であるユールにも読むことは出来なかった。
「あれ、扉がない。向こう側から来た人はどうするんだろう…」
 昨夜読んだ本によれば、峠の道が完成し遺跡を封鎖する際に、魔物が沸いて出てこないようウォルロ側の出入口を閉めたらしい。残念ながら開閉の方法までは載っていなかった。
「普通の人間が開け閉めできる仕掛けだから、そんなに難しいものじゃないはずだけど…」
 壁画を撫でたりさすったりしていたユールは、ふと視線を感じて後ろを振り返った。
 人の好さそうなおじさんが、ぽつんと一人で立っていた。彼の背後の景色がうっすらと透けている。幽霊だ。こんな場所に出る割に、彼から邪悪な気配は感じられない。悪い幽霊ではなさそうだ、とユールはひとまず安堵した。
 おじさんの幽霊の口元がパクパクと動いている。ユールは彼の傍へと近づいていった。
「…像の…背中に…」
 像なんてあったっけ、と目をぱちくりさせる彼女を置いて、おじさんの幽霊は泉の横の通路へと歩いて(正確には漂って)行ってしまった。
 細長い回廊の先に、剣を構えた戦士像があった。かなり苔むしているが、何とか原型を留めてはいる。
 おじさんの幽霊は像の背中に回り込み、消えた。背の低いユールは像の台座を踏み台にして、あちこち調べてみた。すると、像の背中の中心に六角形の赤い石が埋め込まれているのを見つけた。
 恐る恐る押してみると、ガコン…とどこかで重たいものが動いたような音がした。急いで壁画の所へ戻ってみると、壁画が半分スライドし、その先へ行けるようになっていた。
 ありがとうございます、と親切な幽霊に礼を言って手を合わせてから、ユールは階段を下りて遺跡の奥へと向かった。
 壁の塗料が淡く発光していたので道中の明かりに困ることはなかった。
 ルイーダらしき女性はまだ見つからない。さらにいくつか階段を下りたが、その度に魔物の数が増えていった。大して手強い相手でもないので、ユールはそれらを軽く追い払いながら先を急ぐ。
 通路の隅に置かれたツボや箱の中には、たまに薬草や武具などが入っていることがある。それを見つけるのが楽しくて、ユールはだんだん宝探しに来ているような気分になってきた。
「守護天使たるもの、落ちているものを漁るなど!」と小言を言う師の顔がちらついたが、気にしないことにする。
 その直後、さかさに振ってみた袋が突然笑い出した。彼女は慌てて手を離したが、笑い袋にしたたかに噛まれて痛い目を見た。
(もしかして、やっぱり師匠が見ているのかな?)
 見てるなら弟子の困窮を何とかして欲しいと思いつつ笑い袋を撃退し、遺跡の奥へと進む。途中で出くわした邪悪な人魂や幽霊を追い払い、とうとうユールは祭壇のようにがらんとした広間にたどり着いた。
 あちこちに天井から崩れ落ちたとおぼしき石くれが積み上がっている。中央の瓦礫の横に人が倒れていた。
 ユールは慌ててその人の元へ駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
 長い髪を一つに結って背に垂らした女性が、意識なく横たわっていた。目立った傷も出血もないので、ほどなく目を覚ますだろう。足が瓦礫の下敷きになっていて見えないのが気がかりだが。
 彼女の耳元で、ユールは大声で呼びかけた。何度かそれをくり返していたら、女性が呻きながらうっすらと目を開けた。
「う…ん?んん?っと…あらビックリ!こんな所で人に会うなんて、珍しいこともあるものね…もしかしてあなた魔物?それにしては小さいわね」
「魔物じゃありません!ところで、足は大丈夫なんですか。瓦礫の下に…」
 目が開いた途端、元気良く喋り出した女性に面食らいながら、ユールは話を続けた。
「折れてないから大丈夫よ。瓦礫に足を挟まれちゃって動けなくなってるだけだから。ああでも助かったわ。ちょっとそこの瓦礫をどけて下さらない?あともう少しで足が動かせそうなのよ。ヤツが来る前に何とかしないと…」
「えーと、この辺ですね…っと」
 ヤツ、というのが気になったが、まずは女性の救出が先だ。ユールが瓦礫に手を掛けた瞬間、ズシンと腹の底に来るような大きな地響きがした。
「来たわ、ヤツよ!」
 女性の警告と共に奥から一頭の猛獣がその巨体を覗かせた。何かを探るように、鼻をひくつかせている。
 壁画に描かれた獣のような茶色い塊が立体化したらちょうどこんな感じだろうかと、ユールは呑気に考えていた。
 獣つながりで、昨夜読んだキサゴナ遺跡の本に暴れん坊の獣の伝承があったことを思い出した。獣の名はブルドーガ。とにかく大きく力の強かったその獣は、全てを踏み潰して破壊の限りを尽くしたのだという。
(あの絵は猛獣注意!という意味だったのかな?)
 今更気付いても手遅れだ。ブルドーガはじりじりとこちらに向かってきている。動けない女性から出来る限り猛獣を引き離さなければならない。ユールは敢えてブルドーガの前に身を躍らせた。
「さあ、私と鬼ごっこしましょう!」
 銅の剣を振って挑発すると、ブルドーガはいきり立ってユールの方へ向かってきた。どすどすどすと土埃を巻き上げながら迫ってくる。予想より速い。
 ブルドーガに追いかけられながら、ユールは広場を走り回り、壁や柱の状態を見ていった。素手ではとてもブルドーガには敵わないので、瓦礫の下敷きにして倒すしかないと判断した。
 脆くなっている壁に彼女自身を囮として猛獣を突進させる。さじ加減を誤れば、ぺしゃんこになるのはこちらの方だというギリギリの作戦だ。
 ブルドーガがひときわ大きく跳躍し、足を踏み鳴らす。地響きと共に崩れた天井がバラバラと降ってきた。ユールは頭を庇って何とかやり過ごす。動けない女性のことが気がかりだが、無事を祈るほか無い。
 猛獣との果てしない追いかけっこに、ユールの息が上がってきた。ブルドーガの方も焦らされて苛立っているのか、突進の勢いが増してきている。そろそろケリをつけないと、ユールも女性もただではすまないだろう。
 ユールは奥の壁の傍で、瓦礫に足を取られた振りをしてうずくまった。チャンスとばかりに突進してきたブルドーガをギリギリまで引きつけ、脇へ飛びのいた。
 ブルドーガが壁に激突した衝撃で近くの柱や天井が崩れ、瓦礫の雨となって次々に降り注ぐ。猛獣の咆哮が響き渡った。
 もうもうと巻き上がった土埃で何も見えない。ユールはブルドーガが突っ込んでいった一角から目を離さず、視界が晴れるのを待った。
 ほどなくして視界が晴れ、様子がよく見えるようになった。瓦礫の山が完全に猛獣の姿を覆い隠していた。石の隙間からちょろりと覗いた尻尾は力なく垂れ下がったままだ。
 しん、と辺りは静まり返っている。どうやらブルドーガを撃退することに成功したようだ。ユールはほっと一息をついた。そして、大事なことを思い出す。
「ちょ、あの、無事ですか女性の方!」
 広間中央の瓦礫の山には誰もいない。さあっと血の気が引いた。そこへ、
「あなた見かけによらず強いのねー!」
 ユールの肩をバンバン叩いたり揺すったりしているのは、瓦礫の下敷きになっていた女性だった。彼女から力いっぱい感謝されて、ユールはフラフラになってしまった。
 ブルドーガが現れる前と比べて、女性はすっかり元気になっている。戦いのどさくさで足が抜けた彼女は、物陰に隠れて難を逃れたようだった。
「さあ、いつまでもこんなとこにいて、また魔物に襲われてもつまらないから、外に出ましょ」
 ユールと女性は連れ立って遺跡の中を歩いた。遅ればせながらの自己紹介で、この女性はやはりセントシュタインのルイーダであることが判明した。
 危険な遺跡に入り込みながらほぼ無傷で数日を過ごし、暴れ回る猛獣をよそにちゃっかり自らの安全を確保しているというこの女性に、ユールはただならぬものを感じた。
「やっぱりボストロール並みにお強かったりするんですかね…」
「ん?ボストロール?」
「い、いえ。独り言です」
 むしろ失言だった、とまでは言わず、ユールはルイーダにわざわざ遺跡を通った理由を尋ねた。
 彼女は、ある人物に会うためにウォルロ村を目指したということだった。
「宿屋をやってるリベルトさん。もう何年も会ってないんだけど」
「リベルト…。もしかして娘さんが1人いらっしゃる方でしょうか?」
「そうそうその人!お元気にしてらっしゃるかしら」
 ユールはウォルロ村の守護天使である。ウォルロで暮らした人間の名は、全て彼女の頭に入っている。ユールの表情が曇った。
「ルイーダさん。リベルトさんですが、2年前に流行り病で亡くなられています」
「ええっ!?リベルトさんはもういないの!?亡くなったって…!」
 にわかには信じがたい事実だったのだろう。愕然としたルイーダがユールの腕を掴む
「何てこと…。じゃあ、彼が亡くなったってことは、ウォルロ村の宿屋は今どうなっているの?」
「娘のリッカさんが1人で切り盛りしています。ウォルロは辺鄙な村ですが、意外にも繁盛しているんですよ」
 ユールの話を聞いたルイーダは、「そうなの…」と一言呟いたきり、何も言わなかった。何やら物思いにふけっている彼女に配慮して、ユールも無言で出口を目指した。
 壁画の仕掛けが開いたままになっていたので念入りに閉じておき、2人はとうとう遺跡の出口へ到着した。
 木漏れ日が優しく降り注ぐ中、ようやく人心地ついた所で、
「それじゃ、お先に失礼するわね!お礼は改めて。アデュー!」
 唖然とするユールに向かって、ルイーダは片手を挙げて眉の辺りで指を2本揃えるという奇妙なしぐさをし、森の中へと駆け出していった。
「え…と、一緒に村まで行けばいいのに…」
 ルイーダにつられて片手を挙げ、しぐさに答えてしまったユールだったが、彼女の方もそろそろ出発しなければウィックとの約束に間に合わなくなる。
(とりあえず、ルイーダさんがお元気そうで何より…なのかな?)
 ユールは、とぼとぼと帰路についた。

脱出

 外に出ると、朝日がやけに眩しかった。
 「まずは、ここからだな!」
 良く晴れた空の下、3人はリッカの家の横にある井戸の前に集まった。この井戸は村で最も深く大きいものだ。水汲みだけでなく、底にできている小さな陸地を物置として活用しているのだ。
「じゃあ、後は任せたぜ!」
「え?」
 ユールと子分に軽く手を上げ、ニードは歩いていってしまった。
「ニードさん!井戸掃除は?ちょっとどこへ行くんです!」
 オロオロするユールとは対照的に、落ち着き払った子分が言った。
「2人でやれば一日で終わるだろうって、さっき言っただろ」
「2人って、この2人ですか!」
 ユールはさすがに腹が立ったが、このままここで待っていてもどうせニードは戻ってこない。
 子分の方はこうしたことに慣れているようで、さっさと井戸の底へ降りていってしまった。彼女も諦めて彼についていくことにする。
 井戸に備え付けられた簡素な縄梯子で底へ下りられるようになっている。ニードの子分がカンテラに明かりを灯すと、ぼんやりと内部の様子が見て取れた。物置といってもツボや樽や箱などが隅に寄せられ、小奇麗に片付いていた。
「見たところ、そんなに散らかってはいないようですね」
「井戸掃除っていっても、今回のは村長がニードさんを懲らしめる意味合いが強いからな。井戸さらいは先週やったばかりだし、中が散らかってて誰かが困ってるわけでもないし」
 当事者の一人とはいえ、この差し迫った状況で形だけのお仕置きに巻き込まれてはたまったものではない。逃げたニードにユールはますます腹立ちを募らせた。
 2人は手近な樽に並んで腰掛けた。カンテラを脇に置き、子分がおもむろに口を開く。
「さっきここに来る途中で昨日の話を聞いたんだが…オレが言うのも変な話だけど、ニードさんを守ってくれてありがとよ。目立ちだがりで考えなしの困った人だけど、オレあの人のこと嫌いじゃねーんだよな」
「ご本人はあなたに面倒を押し付けて逃げちゃいましたけどね」
 憤懣やるかたない思いで、ユールが混ぜ返した。
「これくらい、面倒でもないさ。あんたも昼間は何かテキトーに作業してるっぽく動き回ってればいい。夕方になりゃ、ニードさんも戻ってくる」
 ユールは意を決して樽から降り、彼の前に立った。井戸の底は暗く、カンテラの乏しい明かりでは相手の顔はよく見えなかった。
「…子分さん。我侭を言えた立場でないことは重々承知していますが、私はこんなことをしている場合ではないのです」
「オレの名前は子分じゃなくてウィックだ。まあいいけどよ。…つーか、あれだろ。ルイーダって女のことだろ」
「はい」
「助けに行くのか。あんた一人で」
「私にしか出来ないと思います。ただ昨日の今日でまた私が村を出るのは、問題があると思います。リッカさんにご迷惑とご心配をおかけするのは本意ではありません」
 彼女の話を聞いたウィックはしばし無言だった。やがて、
「日暮れまでにここへ戻って来い。村の外に出るなら、人目のある正門は避けて裏の森からにした方がいいだろう。昨日はそこを通って帰って来たんだったよな。道は分かるな?」
 ユールが大丈夫ですと返事をすると、遠回りになるのは我慢しろ、とウィックが付け加えた。
「もし村の連中に見つかったら、手分けして井戸掃除してるって言っとけ。俺はここで昼寝でもしてるさ。…気をつけろよ」
「はい…はい!ありがとうございます、ウィックさん!」
 ユールは何度も何度も頭を下げてお礼を言った。ウィックに早く行けと急かされるまで。
 彼女が縄梯子を上って地上に出ようとしたら、洗濯に来たらしき奥さんが2人、井戸の前に陣取って立ち話を始めてしまった。
 彼女たちの話題の中心は、行方不明のルイーダのことだった。
「それにしても、女一人でお城からこんなに遠い村まで来ようだなんて、どれだけ大事な用件だったのかしら」
「キサゴナ遺跡を通ったかも知れないんでしょ?中には魔物がウヨウヨいるっていうのに…よっぽど腕に自信があるのねえ」
「きっと、ボストロールみたいにムキムキマッチョな女なんじゃない?」
 ボストロールって。会話の切れ目を探してじりじり待機していたユールは、思わず口の中でツッコミを入れた。
 人間だか魔物だか分からないわと、主婦2人は洗濯そっちのけで笑い転げている。洗濯しないなら帰ってくれないかなと、ユールは声に出して言いたいのを堪えた。
 天使は、いついかなる時でも苛立ちを表に出してはならない。師の教えだ。
「人間だか魔物だかって言えば、リッカさんの所のユールさんも不気味よね?何かぼや~っとしてる子だけど、謎だらけでアヤシイじゃない」
「そうそう!村長の息子さんと一緒に村の外に出て、魔物を蹴散らしたんですって!あの小さい子が!」
 今度は、あらまぁとため息が聞こえてきた。
 まだまだ彼女たちの話は続きそうだと判断したユールは、自分の名前が出たのをきっかけに思い切って表に出ることにした。
 よいしょと井戸から這い上がってきた少女を目にして、女性たちがそれこそ魔物を目の前にしたかのような、けたたましい悲鳴を上げる。
「お騒がせしてすみません。失礼しますよ」
「あ、あらユールさん…。おほほ、いるならいると言って下さいな」
「驚かさないで下さいな本当に…。あなた、こんな所で一体何を?」
 ユールは満面の笑みで、その質問に答えた。
「井戸掃除です」

叱責

 ニードとユールが村へ到着した頃には、もうすっかり日が暮れていた。報告のため、彼らはまっすぐ村長の家へと向かった
「ただいまー!」
 と、勢いよく玄関のドアを開けて駆け込んできたニードを、居間でくつろいでいた村長が冷ややかに迎えた。
 昼間からブラブラと遊び歩いている息子に小言を言うのが日課となって久しい村長だが、その冷ややかさは小言で終わるようなレベルではなかった。
「親父!峠の道は完全にふさがってたけど、お城の兵士たちが土砂の撤去作業を始めてたぜ。復旧までには数日かかるってさ」
「そうか」
「村の連中がこのことを知ったら、きっと安心するぜ。我ながらいいことしたなぁ」
「何を得意げになっておる!2人だけで峠の道まで行くなど危ないだろう、この馬鹿者がっ!!」
 テーブルをダン!と叩いて村長が立ち上がった。
「何怒ってんだよ親父。オレたちが行って見て来なきゃ分かんなかった最新情報だぜ?」
 怒鳴られたニードはキョトンとしている。
 ユールは、村長の怒りの理由の見当がつき、部屋の隅で小さくなっていた。
 運良く大物に出くわさなかったとはいえ、魔物の出る中をたった2人で出かけたのだ。
 兵士による復旧作業についても、道が開通すればおのずと分かること。今すぐ知らねばならない内容でもないのだった。
 見聞きするもの全てが新鮮でついついはしゃいでしまったが、一つ間違えば命に関わる危険な行動だったのだと、彼女は今更ながらに反省した。
 ニードはまだ怒られたことに釈然としていないようだったが、忘れずにもう一つの用件を村長に告げた。
「親父、お城の兵士が言ってたんだけど、ルイーダとかいうねーちゃんがこの村に来る途中で行方不明になってるんだってさ。どうもキサゴナ遺跡を通ったんじゃないかって」
「ちょっと!その話、本当なの!?」
 驚いた一同が振り返ると、リッカが居間に駆け込んでくる所だった。
「リッカ!何でここに…」
 スタスタと部屋を横切ったリッカは、驚きのあまり固まっているニードの前に立った。
「何でって、あんたがユールを村の外に連れ出したりしてるからでしょう!?こんな小さい子を危ない目に遭わせて!」
「リッカから、お前とユールがなかなか戻らないと聞いてな。ここで帰りを待つよう勧めたのだ。…随分と長く待たされたものだが」
 ジロリ、と村長が息子を睨んだ。
「村長、リッカ。ご心配をおかけしてすみませんでした」
 ユールは2人に頭を下げた。寄り道で帰りが遅くなった件については、彼女にも大いに責任がある。
「もう2人とも無茶ばかりして…それより、セントシュタインのルイーダさんが行方不明ってホントなの?」
「そういえば、お前はセントシュタインの生まれだったな。知り合いかね?」
 村長の問いかけに、リッカがうなずく。
「確かルイーダ…だったと思うんですけど、父さんのセントシュタイン時代の知り合いでそんな名前の人がいたはずなんです。もしかして、ルイーダさんは父さんが死んだことを知らなくて、会いに来ようとしてたのかも…」
 あらかた話を聞き、村長は眉根を寄せ、どっかりと椅子に腰掛けた。
「そのルイーダという女性は、まだこの村にたどり着いていない。そうだな、リッカ?」
「はい。大地震の後、お客様は一人もいらしてませんから」
「峠の道は通行止め。ルイーダはキサゴナ遺跡を通ったかも知れない。うむ…。心配なのはもっともだが、探しに行くのは危険すぎるな」
 この場にいる誰もがルイーダの身を案じていたが、現時点で出来ることは何一つない。居間は重い沈黙に包まれた。
「とにかく、峠の道の復旧を待つとしよう。ルイーダもどこかで時間稼ぎをしているのかも知れん」
 村長の決定に、異を唱える者はなかった。
「リッカ。今日のところはユールを連れて帰りなさい。あまり思いつめぬようにな。わしはこれからこのバカ息子をこってり絞ってやるとしよう」
「ええっ!?そりゃねーぜ、親父ぃ!」
 ニードの悲鳴を尻目に、リッカとユールは村長の家を後にした。ユールは彼の受けるお仕置きがあまり酷くないことを女神に祈った。
 家へ戻る途中、ユールはリッカに聞かれるまま、昼間の冒険について話した。
「あなたがニードと村の外に出たって聞いて、ホントに驚いたんだから!でも全然平気そうだね。ユールって私が思ってるよりずっと強かったんだ…」
 ユールは続く言葉を待ったが、リッカはそれ以上何も言わず、2人の間に奇妙な沈黙が流れた。
 発せられない言外の願いは、ユールにも容易に察しがついた。彼女とて行方不明の女性のことは気になっている。
 天使であるユールは夜でも問題なく動ける。リッカにこれ以上心配をかけたくないので、こっそり夜中に村を抜け出すかとも考えた。
 しかし、余所者であるユールは良くも悪くも目立つ存在だ。村人に出歩いているところを見咎められたら、彼女の面倒を見ているリッカにも迷惑がかかるだろう。
 八方塞がりの状況に、ユールはため息をついた。
(何とかして誰にも見つからないように村を出なくてはならないな。翼があれば簡単なのに)
 ユールがふと隣を見ると、リッカが立ち止まって、すっと祈りのしぐさをした。
「今、私たちに出来るのは、彼女の無事を祈ることだけだわ。…守護天使ユールさま、どうかルイーダさんをお救い下さい…」
 目を閉じ、静かに佇むその背中を見守りながら、ユールは祈りに応えられない悔しさに唇を噛んだ。人の子の祈りが発せられたというのに、それを受け止めずして何が守護天使か。天使の力を失った己が歯がゆくてならなかった。
 家で夕食の準備を手伝いつつも、ユールはずっと上の空で、リッカが何か言ってもまるで聞いていないような有様だった。
「今日は遠出をしたから疲れておるのじゃろう」
 などとリッカの祖父が労わってくれたが、村を出る算段をあれこれ考えるのに忙しいユールは曖昧に返事をするだけだった。
 体調を心配され、早々に押し込まれた寝床の中で、ユールはリッカの祖父の本棚から失敬してきた書物をひもといていた。その本には、キサゴナ遺跡に関する伝承の類がかなり詳しくまとめられている。
 天使界に戻れればもっと正確な情報が得られるのだが、今はできる範囲で何とかしていくしかない。
 実際に行ってみないと分からない点はあったが、まだ遺跡が道としての役目を果たしていた頃の地図なども見つけ、事前の予習としては上々の出来だった。
 残る一つの課題、村からの脱出方法についてはさっぱり名案が思い浮かばず、あっという間に夜明けが来てしまった。
 朝からどんよりと疲れた顔で、ユールは朝食の席についた。
「ユール、大丈夫?何か元気がないみたい…まだ昨日の疲れが残ってるのかな?」
「いえ、その、大丈夫ですよ。ちょっと眠くてボーっとしてしまって…」
 食べ終えた皿を片付けながら、ユールがリッカと台所で話していると、玄関の扉をドンドン叩く音がした。
 昨日と同じように、ニードがユールを迎えに来たのだ。今日は子分も連れて来ている。
「ニード、この子をまた危ないことに巻き込むつもりじゃないでしょうね」
 挨拶もそこそこに、リッカがニードを睨む。
「ちげーよ!昨日の罰ってことで、親父から村の井戸掃除をしろって言われたんだよ。村の井戸全部だぜ?っったく面倒くせぇ…。おいユール、共犯なんだからお前もやるんだぞ」
「2人でやれば今日一日で終わるだろう、とニードさんはお考えなのさ」
 共犯という彼の言い分ももっともだ。これも自分の果たすべきつとめ、と自らに言い聞かせ、ユールはしぶしぶ彼らと合流した。

2010年8月6日金曜日

土砂崩れの調査

 翌朝、わざわざリッカの家にまで迎えに来たニードと一緒に、ユールは峠の道へ向かった。
 左手に川、右手に森を見ながら街道を歩く。地面を踏みしめる感触と、吹き抜ける風の心地よさに舞い上がり、ユールは怪我も忘れてどんどん先へ行ってしまい、ニードに呆れられた。
 外をうろつく魔物たちは数こそ多かったが、どれものんびり歩いたり飛んだりしている。こちらから近寄っていかなければほとんど襲い掛かってくることは無かった。
 ただ、ろくに前も見ずに街道を走ったユールが砂袋に蹴つまづいて転び、激怒した砂袋…ドロザラーに追いかけ回された時は少々危なかった。結局、2人がかりでドロザラーを川へ突き落として難を逃れたが、
「地面に落ちているものには気をつけます…」
「道の真ん中で寝てるあいつもどうかと思うがな。ってか、あんまり考え無しに走り回るんじゃねえよ」
 単独行動禁止、とニードに言い渡されたりしつつ、のんびり街道を進んでいった。
 しばらくすると、単調な景色に飽きてきたのか、今度はニードが街道を逸れて藪に立ち入り、モーモンに噛み付かれた。ユールが何とか引き剥がそうとしたが、モーモンは怖い顔で彼の腕に食いついて離さない。
 そこへリリパットの集団が現れ、一斉に矢を射かけてきた。
「街道まで戻って!」
 ユールは手近な石を拾ってリリパットたちに投げつけ、足止めを図った。彼女の声に応じて、モーモンをぶら下げたままニードが走る。
 的が分散して戸惑っているリリパットを、ユールは片っ端から銅の剣で叩きのめしていった。近づいてしまえば彼らは弓を使えない。数は多かったが、ユール一人で何とか全部やっつけることができた。
 街道まで戻ると、木陰でニードが腕をさすりながら待っていた。
「あれ?モーモンはどうしました」
「どっか行っちまったぜ。走ってる間に落っことしたのかもな…イテテ」
「手当てしますから、そのままで」
 ユールは、くっきりと歯型がついたニードの腕に手をかざした。手のひらに暖かな力が集まってくる感覚に、彼女は思わず笑みを浮かべた。
(よかった、魔法は使えるみたい)
 天使による癒しの術が、瞬く間に傷を癒していく。それを目の当たりにしたニードはただただ目を丸くしている。
「お前、ホイミ使えんのか!すげえな!」
 噛まれた方の腕をぶんぶん振って、何ともないことを確かめ、彼は笑顔になった。
「あはは…まあ、旅芸人ですから」
 厳密に言うと、人間の使う呪文とは発動条件が異なる術なのだが、ユールは適当に調子を合わせておくことにした。癒しの効果はどちらも同じである。
「いやぁ、さっきは危なかったな。ホントに魔物がウヨウヨいるぜ」
 少し休憩してから、再び街道を進む。昼前には峠の道の入口に到着した。
 目の前に広がる光景に、ユールは唖然とした。銀色に輝く巨大な物体が木立に突っ込んでいる。
 煙突のついた箱型の乗り物…光を失っているが、どう見ても天の箱舟の先頭部分だった。
「ニードさん!これは」
「おー、木が倒れてるな」
「木じゃなくて、乗り物が!」
「何言ってんだお前。地震で木がバタバタ倒れてるだけだろ?」
 ニードには箱舟が見えていないようだ。彼が人間で自分が天使であることが関係しているのだろうか。
「土砂崩れの現場はもっと奥みたいだな…。おら、さっさと行くぞ!」
 彼はスタスタと歩いていってしまったが、ユールはその場を離れるつもりはなかった。地上に落ちて初めて天使界と関わりのあるものを見つけたのだ。
 ユールは恐る恐る箱舟へと近づいてみた。
「誰か、いませんか…」
 声をかけながらドアを叩いてみたが、応答はない。取っ手を引っ張ってみたが、びくともしなかった。
 中に誰もいないのか。箱舟は壊れてしまっているのか。気になることは山のようにあったが、これ以上ここにいるとニードが戻ってきてしまうだろう。
「また後で来よう…」
 次に来た時、箱舟がいなくなっていることはないだろう。後ろ髪を引かれる思いで、ユールはニードの後を追った。
 緩やかな坂道を歩いていくと、木立に囲まれた広場に出た。
 馬車が数台並んでもなお余るほどの広さがある。旅人たちの休憩所といったところだろうか。
 そのすぐ先で街道が寸断されていた。土砂とともに大小さまざまな岩や木々が重なり合い、人間の背丈を遥かに越える高さまで積み上がっているのだ。
 突き出た岩を足がかりに、ニードが上へ登ろうとしている。しかし、体重を掛けるそばから足場が崩れていくので、どうにもならない。
「くそっ、思った以上にひどい状況だな。これを登って向こう側に行けるかと思ったけど、無理だな」
 目の前の土くれの山を見上げて、2人でため息をついていると、
「おーい!そちらに誰かいるのか!?いるなら返事をしてくれ!」
 向こう側から、若い男の声が聞こえてきた。
「土砂崩れの様子を見に来たウォルロ村の者だ!あんたは誰だ!?」
 ニードが声を張り上げると、
「私はセントシュタインの兵士だ!王命により土砂の撤去を行っている!」
「おう、助かるぜ!街道の復旧はいつ頃になりそうなんだ!?」
 少し間をおいてから、兵士の声が聞こえてきた。土砂崩れの規模が大きいので数日はかかる、ということだった。
「土砂崩れは、お城の兵士たちに任せましょう」
「そうだな。ひとまずこのことを村の皆に知らせよう。お城の兵士さーん!後はよろしく頼んだぜー!」
 ニードとユールが帰ろうとした時、慌てたような兵士の声が聞こえて来た。
「一つ聞かせてくれ!そなたの村に、ルイーダという女性は滞在していないか?」
「いや、いないと思うぜ!ここ最近、村に余所者は来てないからな!…あ、お前がルイーダさんだったりしねえよな?」
 もちろん違います、とユールは首を振った。
「実は、城下の酒場で働いている婦人ルイーダが、大地震の日から行方不明なのだ!ウォルロ村に行くと知り合いに話していたらしい!」
「峠の道を通った可能性が高いってことか。…ん、おい兵士さん!その人キサゴナ遺跡を通ったんじゃないのか!?」
「あの遺跡は途中で天井が崩れ、奥まで行けない状態だそうだ!すまないが、村へ戻ったらルイーダのことを聞いてみてもらえるか!?」
「分かったぜ!…おら、帰るぞユール。その人のこと、親父に聞けば何か分かるかも知れねぇ」
 来た道を戻りながら、ユールはニードにキサゴナ遺跡のことを尋ねてみた。
「峠の道が開通する前は、キサゴナ遺跡を通ってお城と村を行き来していたんですよね?魔物が住み着いて通れなくなったので、百年くらい前に峠の道を切り開いたと」
「よく知ってるな。リッカに聞いたのか?今じゃ遺跡もあちこち脆くなってていつ崩れるかって状態らしい。魔物も出る中、わざわざあそこを通ろうなんて奴はいねえだろうよ」
 大地震で街道が塞がれても諦めず、敢えて危険な道を通ってでもウォルロ村を目指さなくてはならない理由。
 ユールには見当もつかなかったが、よくよくの事情があったのだろう察せられた。
「ニードさん。私、キサゴナ遺跡に行ってみたいです」
 ニードはしばし無言でユールを見下ろしていたが、
「お前、馬鹿だろ」
「何が馬鹿ですか」
「あのな。遺跡には魔物が出る。中は古くて崩れやすくなってる。つまり、とーっても危ないんだ。分かったか?分かったな?分かったら返事しろ返事」
「でも」
「とにかく危険なんだよあそこは!村に帰ったらルイーダさんが来てるかも知れないだろーが」
 ちなみに遺跡はあっちだ、とニードが指差した方向には、鬱蒼と生い茂る森が広がっていた。ひょろひょろと頼りない道が奥へ向かって伸びている。
 この先に遺跡があると聞くと今すぐ出発したくなるのが人情だが、そろそろ腹が減ったとニードが休憩を宣言したので、川べりで昼食を摂ることにした。
 天使であるユールは空腹を滅多に感じないので気付きにくいのだが、もう午後も遅い刻限だった。
 川面を渡るひんやりした風に吹かれながら、草地に座り込んでサンドイッチをかじる。
 ニードの子分が出がけに持たせてくれたものだ。きちんと2人分、しかも水筒に紅茶まで用意してある徹底振りだ。
「あいつ、無駄に器用なんだよなぁ」
「本当にお母さんみたいですよね。あ、このジャムサンド、おいしい!」
「え、どれだよ。オレも食いてぇそれ」
 食事を堪能した後、ユールは昨夜読んだ本の内容をふと思い出し、尋ねた。
「あの、この川の反対側って大王蜘蛛の巣があるんですよね?あっちの森には、薬になる珍しい花が咲いてるんですよね?」
「ああ?何だよ行きてぇのか。花の方は一旦街道を戻らなきゃならねぇからダメだぞ。日暮れまでに村へ帰るんだからな」
「ええー」
「花ならそこにも咲いてるだろ!…まあ、蜘蛛の巣はこっからそう遠くないから、そっちだったら行ってもいいけどな」
「じゃあ、早速行きましょう!」
「あー、地震で潰れてたりしてな、蜘蛛の巣」
「何てことを言うんですか!楽しみにしてるのに!」
 ニードの案内で川を遡ること数刻。ウォルロ村を対岸に見下ろす丘に大きな穴が開いていた。穴の上にはキラキラした糸が複雑な文様を描くように張り巡らされている。
 大王蜘蛛の巣は、地震で潰れたりはしていないようだ。陽光にきらめく巣の美しさにユールが見惚れていると、
「ほれ、おみやげ」
 ニードが巣の糸を数本千切り、くるくると丸めて投げて寄越した。
「うわ。ねっちょりとしてますね…」
「葉っぱか何かで包んで持ってけ。ウォルロの名産・まだらくもいとだ」
「名産!?言われてみれば、おいしそうなとろけ具合ですね」
「それ、食いモンじゃねえから」
「…残念です」
 ユールはニードの真似をして。まだらくもいとを丸めて葉で包んでみた。何個かやっているうちに楽しくなってきたが、あまり取りすぎては巣が壊れてしまう。
「寄り道はこれで終わりだ!もう帰らないとやばいぜ!」
 蜘蛛の巣に夢中なユールをニードが急かす。見ると、空が淡く色づき始めている。
 ユールはおとなしくニードと共に村へ戻ることにした。

旅芸人ユール

 神ははじめに人間界を創り、そのあとに天使を創った。
 天使の長い寿命や、空を飛ぶ翼、頭の光輪は、人間たちよりも優れた存在である証。
 かよわく愚かな人間たちを、守り、導くため、神より与えられたものなのだ。

 見習い時代に何度も読んだ『世界創造』の一節を諳んじて、翼も光輪も無くしてしまった天使はため息をついた。
 動くと体の節々が痛んだが、寝込むほどではない。無理をしなければ大丈夫だろう。
 抱えた籠の中のじゃがいもを一つ握ってみる。ころころした感触は天使界にいた頃に感じていたものと全く同じだった。天使たる彼女にとって、人間界では感じるはずのない感覚だった。これまでは。
 夜空に燦然と光り輝く世界樹、天使たちの喜ぶ顔。突然足元が揺れて立っていられなくなり、彼女は慌てて根っこにしがみついた。荒れ狂う風と禍々しい光にもみくちゃにされ、体が上へと引っ張られた。伸ばされた師匠の手と、届かなかった己の手。それを最後に記憶がふっつりと途切れている。
 大きな滝とその名水で有名なウォルロ村は、数日前に発生した大地震で少なからぬ被害を受けていた。
 村人に大きな怪我がなかったのは不幸中の幸いだったが、教会の鐘が落ちたり、村の入口のアーチが崩れたり、土砂崩れで街道が寸断されたりしているようだ。
 大地震があった日の早朝、ユールは村の滝つぼに落下した所を助けられたのだった。
 かなり重い怪我だったにも関わらず数日で起き上がれるようになった、風変わりな衣裳と風貌と言動の、ちょっとどこかぼんやりしている少女。
 突然の災害で混乱している田舎の村で、怪しまれないわけがない。最初は言葉が通じることにも驚かれたくらいだ。
 守護天使として慣れ親しんだこの村で、皆から奇異の目を向けられて、ユールもさすがに弱っていた。
「お?この前の大地震のどさくさで、村に転がり込んだユールじゃねえか!」
 金髪をつんつん立てた少年がこちらに歩いてくる。村長の息子にして頭痛の種のニードだった。いつもつるんでいる垂れ目の子分も一緒だ。
「お前、こんなとこで何ぼーっとしてやがんだ?」
「じゃがいもを洗ってきたのです」
 まだ人間と普通に言葉を交わすことに慣れておらず、彼女の受け答えはぎこちない。イモだぁ?と盛大に不審な視線が飛んできた。ただのイモですよと籠の中身を見せても、彼らは興味無さそうだった。
「お前、世話になってるリッカにメーワクかけてねえだろうな。ったく、あいつは何でこんな得体の知れない奴の面倒見てるんだ?どっから来たのか言わねえし、着てる服はヘンテコだし、どう考えても怪しいだろ?」
 ですよねぇ、とユールが真顔で同意したら、睨まれてしまった。
「きっとあれっスよ。こいつの名前が守護天使と同じだから、それで気に入ってるんスよ」
「どうせこの村の天使の名前を騙って、タダメシにありつこうって魂胆だろ。白状しやがれチビ」
「白状も何も、これは本名です」
 うるせぇと怒鳴られるかと思ったが、ニードは緩く笑って首を振っただけだった。
「まあ、そんなことはどうでもいい。お前に話があるんだ。リッカに恩返しするチャンスだぜ、もちろん聞くよな?」
「はい、どのようなことでしょう?」
「土砂崩れで峠の道が塞がってるのは知ってるな?人や物の行き来が無くなって、リッカ…いや、村の皆が困ってるんだ。そこでこのニード様は考えた。土砂崩れの現場まで行って何とかしてやろうってな!そうすりゃ親父もオレのこと見直すだろうし、リッカだって大喜びってわけだ」
 だろ?とニードに目線で同意を求められたユールは、こくこくと頷いた。
「ただ、この完璧な計画にも一つだけ問題があってな。大地震の後、村の外はやたらに魔物が出るようになっちまって、危なくってしょうがない。で、まあ、そんなわけで、お前に峠の道まで一緒に来てもらいたいんだよ。一つ頼まれてくんねーかな?」
「ちっこいけど旅芸人なんだろ?旅慣れてるだろうから腕も立つんじゃないかと、ニードさんはお考えなのさ」
 翼と光輪を失っても、これまで積んできた修行の成果までは消えていない。怪我のせいで体調は万全ではないが、そこは伊達に150年生きていない。十分に彼らの言う役割を果たせそうだ。
「分かりました。是非ご一緒させて下さい」
「よっしゃ!そうこなくっちゃ!じゃあさっそく行くか!」
「ちょっと待つっスよ、ニードさん。もうじき日が暮れます。明日にした方がいいっスよ」
「ん…そうだな。じゃあ明日な!ビビッて逃げるなよ!」
 ニードが指をびしっと突きつけてきた。ユールはそれに苦笑いで答えた。
「私はどこにも行きませんよ、大丈夫」
「おお?言うじゃねえか、チビのくせに。道案内はオレがしてやっから、魔物の相手は任せたぜ。あと、このことは村の連中には内緒な?」
 極秘任務ということらしい。承知しましたと答えるユールに、子分が話しかけてきた。
「ニードさんはああ言うけどな、こりゃ危ねえもうダメだってなったら、すぐ村に帰って来るんだぞ。途中で何があるか分かんねえから、薬草とか準備はしっかりして行けよ?薬草はよろず屋に行って買うんだぞ」
「だーっ!そんなこたぁ分かってるっての!お前はユールの母ちゃんか!」
 放っておくとよろず屋の場所まで説明しそうな子分を、ニードがどつく。親分の性格をよく分かった上での的確な助言だとユールは感心した。
(ご忠告、痛み入る…って、師匠じゃあるまいし、固すぎるかなぁこの場合)
 などと、ユールがのんびり返事を考えていたら、一人の少女がこちらに歩いてきた。
「ちょっと2人とも!うちのユールに何の用なの?」
 肩までで切り揃えられた黒い髪と、同じ色の瞳。彼女がユールの面倒を見てくれているリッカだった。
 小柄な体でユールを庇うように立ち、少年たちを睨む。途端にニードが大人しくなった。
「よ、よう…リッカ。別に何もしてねえよ。フツーに挨拶しただけだって。なぁ?」
「…本当に?」
 正直に言っていいのよと、リッカがユールを見る。その隙にニードは子分を連れて走っていってしまった。
「行っちゃいましたねぇ」
「全くもう。昔はニードもあんなじゃなかったんだけどなぁ。ユール。ニードたちに嫌なことを言われたら、ちゃんと言い返すのよ。場合によっては、チョップ3発までは許すわ」
「はい、頑張ります。ところでリッカさん。おイモ、洗い終わりましたよ」
「こら、さんづけは無しよ。リッカでいいから。それよりもユール、出歩いても大丈夫なの?治りかけに無理しちゃダメよ。ひどい怪我で危なかったんだから」
「リッカさ…、リッカのおかげで散歩できるまでになりました。本当にありがとうございます」
「いいのよそんな!さぁ、帰ってお夕飯の準備をしましょう」
「お手伝いします」
 野菜の皮を剥いたり、皿を並べたり、台所で一生懸命リッカの手伝いをしたこと。そして彼女の祖父と3人で囲む食卓。どれもユールにとっては初めての経験だった。
 野菜と格闘した際に指を傷だらけにして、リッカの仕事と心配を増やしてしまったのが反省点だ。
「何故か野菜が手から逃げるんです」
「もう危なくて、ユールに包丁持たせられないわ」
 じゃがいものグラタンをつつきながら、野菜の見かわし率の高さを嘆くユールに、リッカが言った。
「まあ、何事も経験じゃ。どうせヒマなんじゃから、この子に家事を教えてやってはどうかのう」
「ヒマなのも困りものよ、おじいちゃん」
 街道が土砂崩れで塞がれている今、村を訪れる旅人は皆無だ。彼女は毎日宿に出かけているが、客室の掃除と帳簿の整理しかやることがない。
「ほんにのう。以前は滝を見に来たり、ウォルロの名水を目当てに村を訪れる者がおった。そういう客のおかげで、こんな田舎の宿屋でもそれなりに繁盛しておったのじゃよ。だが、この間の地震で峠の道が埋まってしまったからのう。うちの宿屋も今や風前の灯じゃな…」
「こればかりは、私たちが気を揉んでもどうにもならないし…。一日も早く道が復旧するのを待ちましょう。多少の蓄えはあるし、森に食べ物もあるし、無駄遣いしなければきっと乗り切れるはずっ」
 あくまで前向きなリッカだったが、復旧のメドが立たない不安はあるのだろう。
 皆に悟られぬようこっそりため息をついた彼女の姿を見て、明日ニードと峠の道へ行き、何か新しい情報が得られればいいなと、ユールは思った。
 食事が終わると、リッカに「早く寝なさい」とベッドへ追い立てられた。
 宛がわれた一室でぼんやりと夜明けを待つ。ユールは天使なので睡眠の習慣がない。数日で治る怪我といい、翼と光輪を失っても天使の体質は変わらなかったようだ。
 もちろん天使であっても体調を崩したり、疲れを感じることもあるのだが、人間にはありえない治癒能力の高さですぐさま回復してしまうのだ。そもそも守護天使の職務は、昼夜関係なく人間を見守ることにある。
 カーテンを開けると月明かりが眩しいほどだった。今夜は読書でもしてみようと思い、ユールは部屋の本棚から適当に1冊選んで手に取ってみた。
 ウォルロ村の歴史や周辺の地理、生息している魔物のことなどが絵入りで記されている。ところどころ線が引いてあり、余白には「家族連れでも大丈夫」「一人旅にオススメ」など走り書きがされていた。
(宿屋の観光案内のために、勉強してたんだなぁ)
 リッカのものらしき字の他に、別の人物の筆跡も混じっている。宿屋の主人の努力の結晶だ。
 ウォルロ村のお土産ベスト5などは、天使界の記録には載っていない情報で非常に興味深い。
 明日の予習はこれ1冊で大丈夫だろう。ユールは夜明けまで読書に没頭した。