2011年4月13日水曜日

シュタイン湖

 シュタイン湖へ続く道は、何故見落としたのか不思議なほどあっさりと見つかった。
「大分、城の方に戻ってきてしまいましたね」
「てゆーか、この橋渡ったらもう城じゃね?」
 昨日一日は本当に何だったのか。遅ればせながら遠い目になりつつ歩いていたユールだったが、森を抜けた先に広がる湖の風景にたちまち目を輝かせることとなった。
 雲一つない青空。遮るものなく照る太陽が眩しい。涼やかな風が吹き渡る湖面は空よりやや深い色を讃えている。深い森に隠されたシュタイン湖はのどかに平和で、黒騎士はおろか魔物の気配もなかった。
「黒騎士があの姫さまを待ってる場所ってここ?てゆーか黒騎士なんていなくない?呼んどいていないって、どゆコト?どーするユール。もうちょっとここで待っとく?」
「約束の期日は今日だろう?相手が来てないんじゃどうしようもないな」
 サンディに続いてアスラムが口を開いた。どちらに答えたものか、ユールは一瞬戸惑った。
「王に、黒騎士はいませんでしたと報告して済むとは思えないが」
「多少なんかやったフリしなきゃヤバくね?」
 セラパレスが腕を組んで考え込んだ。その周囲をふよふよとサンディが飛び回る。
 ユールは湖を眺め、続いて空を見上げた。太陽は既に高い位置にあり、湖のひんやりした空気に日差しの暖かさが心地よかった。
「もう少しここで黒騎士を待ってみようと思います。ひとまずお昼ごはんにしませんか?」
 湖畔の原っぱで一行は昼食を摂った。その後、手分けして湖を捜索したり、アスラムから組み手の稽古を受けたり、セラパレスとメルフィナが薬草採取に行くのと手伝ったりしていたら夜になったが、一向に黒騎士は現れない。
「てゆーか、黒騎士来ないし!女子との約束ブッチするなんて、ありえないんですケド!」
 とっぷり日の暮れた湖畔で、ユールたちは再び話し合った。サンディは完全にヘソを曲げてしまっている。
「これだけ待っても来ないのでは、仕方ないですね…」
 ユールの言葉に全員が頷いた。青ざめた月明かりの元では、どの顔もどんより疲れて見えた。
「そーそー!王さまには黒騎士なんていなかったって言っとけばいいし…なーんつって、振り返ればヤツがいる、みたいな?」
 サンディの言葉が終わらぬ内に、背後の木立がガサリと音を立てた。おのおの武器を手に振り仰いだ高台には、満月を背に昂然と立つ騎影。風にはためく漆黒の外套。騎士の携えた長槍が月明かりを反射して不穏に輝く。
「マ、マ、マ、マジッすかー!?」
 サンディの叫びに呼応するかのように、黒騎士が馬を駆り湖畔へ降り立った。甲冑の奥の顔は影に隠れて見えない。
「ようやくお出ましか」
 アスラムがやれやれとため息をついた。一行は素早く半円形に散開し、サンディは慌てて近くの木立に逃げ込んだ。
「誰だ…キサマ…?キサマに用はない…姫君はどこだ…」
 黒騎士が低い唸りとともに、言葉を発した。
(古語だ!でも、この言葉を話す人間はもういないはず。この人は一体…もしかして、人ではないのか?)
「何だ?呪文か?」
「いいえ、魔力は感じられないわ」
 天使たるユールは正確に意味を聞き取ったが、耳慣れぬ響きに人間たちは戸惑いを隠せない。
「姫君を出せッ!我が麗しの姫をッ!」
 長槍を掲げて黒騎士が吼えた。仰のいたその顔は灰色の骸骨。うつろな眼窩に炎のような赤が宿った。
「おい!こいつは何を興奮してる!?」
「姫を出せと言ってます!」
 黒騎士がまっすぐに突進してきた。長槍のなぎ払いを避けながら、ユールは叫んだ。
「ここにはいないって言ってやれ!」
「話を聞く状況じゃないでしょう!完全に頭に血が上ってしまっている!」
 黒騎士は一人一人確実に相手を潰していこうと判断したらしい。最初に標的となったユールは、恐ろしい速さで繰り出される稲妻突きをかわすだけで精一杯だ。
 セラパレスがユールにスカラをかけ、彼女が囮になっている隙にアスラムが攻撃を仕掛けた。
 しかし、黒騎士の馬が蹄を振り上げ、うかつに近づけない。主と同じく漆黒の装具を纏った馬は、その巨体に似合わぬ俊敏さで人間たちを翻弄する。
 セラパレスとメルフィナは、前線に立つユールとアスラムの治療に忙しい。なかなか攻撃の糸口がつかめぬまま、しばし小競り合いが続く。
「うわっ!」
「ユール!」
 黒騎士の長槍の一撃を受け止めきれず、ユールの小柄な体が宙を舞った。地面にしたたかに叩きつけられたが、彼女は何とか立ち上がった。セラパレスのスカラがなかったら、大事になっていた所だ。
「メル、援護を頼む」
「ええ」
 ユールの手当てをセラパレスに任せ、アスラムとメルフィナが動いた。
 静かな声音で紡がれた魔法が氷塊を生み、馬の顔面を直撃する。棹立ちになった馬を御すべく黒騎士の意識がユールから離れた所へ、アスラムが飛び膝蹴りを食らわせた。
 流れるように伸びた武闘家の腕が黒騎士の頭部を殴りつけ、その首を締め上げた。黒騎士は彼を振りほどこうともがく。
「この…!じたばたすんなっつの!」
 メルフィナのヒャドが再び炸裂し、馬が乗り手ともども横倒しになった。
 地に落ちた瞬間、黒騎士は拘束する腕が緩んだ隙を逃さず体勢を立て直し、アスラムへ容赦なく五月雨突きを浴びせた。
「アスラムさん!」
 全快したユールが黒騎士に斬りかかる。相手の鎧のつなぎ目、腕の付け根を狙って剣を突き立てた。
 凄まじい叫びを上げた黒騎士に蹴られ、ユールはたまらず剣を手放してしまった。
 セラパレスがホイミを唱えたが、傷が深く完全には癒せない。膝を突くアスラムを支えようと、ユールは手を伸ばした。
「アスラムさん。今、手当てを!」
「ヤツから目を離すなチビ助…っ」
 苦しげながらも力強い叱責が飛ぶ。メラで黒騎士を足止めしているメルフィナを、武器をなくしたユールが魔法で援護する。
 駆けつけたセラパレスの治療により、アスラムが再び立ち上がった。手足の具合を確かめるようにあちこち曲げたり伸ばしたりしている。
「かなり手強い相手だ。長引くとまずいな」
「次で決めるさ。いいとこまで来てる」
 大怪我もものともせず、笑みさえ浮かべる武闘家に深刻さは全くない。やれやれと首を振り、セラパレスはアスラムにスカラをかけた。
「全力で行って来い」
「誰に言ってる?」
 セラパレスの肩を拳で叩き、アスラムはユールとメルフィナに向き直った。。
「2人とも下がってろ。あとは俺がやる」
「いいえ、助太刀いたします」
「状況を考えてものを言え、チビ助」
 アスラムのきつい視線をひるまず受け止め、ユールは答えた。
「お任せを」
 2人の間に佇むメルフィナは、無言で見守るのみだ。
「…いいだろう」
 アスラムが黒騎士に向かっていく。黒騎士はふらつきながらも肩口に刺さった剣を投げ捨て、長槍を構え直した。武闘家の正拳突きが、蹴りが全て槍でガードされてしまう。
 ユールはぐっと眉間に精神を集中させた。
(アスラムさんに、私の力を…!)
 手足を舞うようにひらめかせたユールは、己の力を光へ変え、アスラム目がけて投げつけた。
 昨夜、メルフィナと宿へ戻る途中、彼女はくたびれ果て、今にも倒れそうな若い女性に出会った。
 「応援してくれる、その気持ちだけで私は頑張れると思うんです!」という彼女を力いっぱい励ました所で、天使の秘技を一つ思い出したのだ。
 自らの力を特定の誰かに分け与えるその技は、見習い時代にはついぞ出番がなかったが、ここでこそ役に立つはずだ。
 ユールの投げた光がアスラムの背へすっと吸い込まれた。攻めあぐねていた武闘家の動きが急に機敏になり、一気に形勢が逆転する。勢いが増したアスラムの拳が黒騎士の長槍を弾き飛ばし、甲冑の胸を殴りつけた。仰向けに倒れた黒騎士は完全に意識を飛ばしている。
「やっと大人しくなったか…」
「アスラムさーん!やりましたね!」
 彼に駆け寄ったユールは、髪をぐしゃぐしゃにかき回され、悲鳴を上げた。
「こらチビ。何だよ今のは。バイキルトか?」
「え、えーと、そんな感じです!」
 アスラムの手から逃げ回っていると、
「ちょっとユール!黒騎士動いてる!」
 サンディが叫んだ。見ると、倒れていた黒騎士がよろめきながらも立ち上がろうとしている。
 皆の顔に緊張が走る。サンディは地面に転がる長槍を取られまいと、小さな体で精一杯踏ん張った。そんな彼女の上に、ふと影が落ちた。
「手伝うわ。あなた一人じゃ心配だもの」
「やった!アリガトー!…って、あれ?」
 頭上の影に元気よく返事したサンディが固まる。にっこり笑ったメルフィナが可愛げたっぷりにウィンクをした。
「な…、何でアタシが見えるんデスカ?」
 動作も口調もカクカクしながら、サンディが尋ねた。
「話は後で。今は黒騎士に集中しましょう」
 メルフィナ黒騎士をひたと見据えた。
 起き上がった黒騎士は、その場に膝を突き、蹲った。傷の痛みより嘆きの方が深いのか、黒騎士は力無い声で自問をくり返している。
「何故…何故、姫君は貴様のような者を遣わした…。メリア姫はもう私のことを…。あの時交わした約束は偽りだったというのか…!」
「ユール。彼は今度は何と言っているんだ?」
 苦しんでいるなら楽にしてやった方がいいのか、とセラパレスが槍をひらめかせる。
「メリア姫が私たちをここに寄越して、自分との約束を反故にしたと思っているようです」
「メリア姫?」
 サンディは悲嘆に暮れる黒騎士の姿を何とも言えない目で眺め、ユールに言った。
「ねえユール。この騎士キモくない?メリアって誰?確か、あの姫の名前はフィオーネ…。メリアなんて名前じゃないんですケド」
「それはまことか!?」
「キャーッ!!」
 ガバッと勢い良く立ち上がった黒騎士は丸腰とは言え迫力がある。彼の大声に驚いたサンディは、慌ててユールの後頭部にしがみついた。
「チビ助、通訳!」
「えと、姫の名がメリアではなくフィオーネだと知って驚いてます!」
「何!?何でこの人もアタシが見えんのぉ!?マジ、ビックリしたんんですケドッ!」
(そういえば、サンディが見える見えないの基準って何なんですかねえ)
 騒ぎをよそにユールが呑気に考え込んでいると、黒騎士が彼女に向かって、正確にはその背後に隠れているサンディに向かって問いを重ねた。
「なあ、教えてくれ…。あの城にいたのはメリア姫ではなく別の者だったというのは、本当か?」
「だーかーらー!フィオーネだっつってんじゃん!フィ、オー、ネッ!」
「何てことだ…。あの姫君はメリア姫ではなかったのか…。言われてみれば、彼女はルディアノ王家に代々伝わるあの首飾りをしていなかった…」
 サンディの返答に目に見えて落胆し、黒騎士はがっくりと肩を落とした。
「一体あなたはどういう方なのですか?失礼ながら、既にお亡くなりになられているのでは…」
 ユールが黒騎士に問いかけたが、返答は無い。
「どういうって、どう考えても死んでるだろう。顔がガイコツだぜ」
「ただ、魔物の割には邪悪さが薄い気がするわね」
「我々を襲った理由も姫君がらみという、ごく私的な内容だしな」
 人間たちが口々に囁き合うのを尻目に、ユールは古語で問い直した。すると、ぽつぽつ思いつくままに黒騎士が語り始めた。やはり彼には古語でないと通じないらしい。
「私は深い眠りについていた…。そして、あの大地震と共に何かから解き放たれるように、この見知らぬ土地で目覚めたのだ。しかしその時の私は、自分が何者か分からないほど記憶を失っていた…。そんな折、あの異国の姫を見かけ、自分と…メリア姫のことを思い出したのだ。私の名はレオコーン。そして、メリア姫というのは我が祖国ルディアノ王国の姫。私とメリア姫は永遠の愛を誓い、祖国での婚礼を控えていた仲だった…」
「じゃあ何?ぶっちゃけレオコーンはフィオーネ姫と元カノを間違えちゃったワケ?どんだけ似てたのよ、フィオーネ姫とメリア姫って」
「面目ない。一目見た愛しき姫の姿に全てを忘れ、あのような騒ぎに…。私は自らの過ちを正すため、今一度あの城へ行かねばなるまいな…」
「いやいやいや!アンタ立ってるだけで怖いんだから、また大騒ぎになるって!」
 ユールが人間たちに通訳している横で、サンディとレオコーンの間で話が進んでいた。
「ねえ、ユールも止めてよ。この人が城に行っても、またややこしくなるだけだって」
 サンディの言い分ももっともだ。ユールはレオコーンに語りかけた。
「お気持ちは分かりますが、あなたが城に赴くのは得策ではないと思います。代わりに、私があなたの言葉を城の人々に伝えましょう。もう城には近づかない、と」
 彼女の申し出に、黒騎士は深々と頭を下げ、謝意を示した。そして、少し離れた所で倒れている愛馬の具合を確かめながら言った。
「私はこれからルディアノを探すつもりだ。城では、きっと本当のメリア姫が私の帰りを待っているはず…」
 装具をがちゃがちゃ言わせながら、馬はすんなりと立ち上がった。ユールたちに別れを告げ、颯爽と馬上の人となった黒騎士レオコーンは、深い闇に包まれた森の奥へと消えていった。
 湖畔に静寂が戻る。夜風の冷ややかさに、呆けていた一行がはっと我に帰る。
「つまり何だ。黒騎士は人違いで騒ぎを起こしてたってことか?」
「ルディアノなどという国は聞いたことがない。本当に実在するのか?」
「…その国の手がかりなら、この子が持っているのではなくて?ルディアノの民とごく普通に話せていたのは何故なのかしら」
 3人の視線がユールに集中した。彼女はどぎまぎしながら答えた。
「あー。あれはですね、古語の一種でして。うちのおじいちゃんがよく話していたのを思い出したのです」
 おじいちゃん、で思い浮かべた顔はもちろんオムイ様だ。幼少の見習い天使たちは、彼から直々に講義を受けることもあったので、まるっきり嘘というわけでもない。
 人間たちは、納得したようなしていないような、微妙な顔をしている。
「古語と変な踊りに堪能な旅芸人サマか」
「へ、変な踊りとは失礼な!応援の気持ちの現れです!」
 アスラムが混ぜ返し、ユールがムキになってそれに噛み付いた。
「身振り手振り付きのバイキルトは、結構珍しいんじゃないか?専門家のご意見を是非聞きたいね」
 セラパレスが傍らの魔法使いを見やる。
「ふふ…。そりゃあ普通の術者は普通に詠唱した方が楽だもの」
 ねえ、とメルフィナに目線で同意を求められ、サンディはびくりと硬直した。
 まだ騒いでいるアスラムとユールに、セラパレスが苦笑しながら声を掛けた。
「こらこら2人とも。元気で何よりだが、もう夜も遅い。一度セントシュタインへ戻らないか?」
「それには大いに賛成だが、ここから城まで歩くのか?」
 うんざり顔のアスラムにセラパレスがキメラの翼を差し出すと、彼の表情が一転して明るくなった。
「じゃあ、ひとっ飛びに戻るとするか!」
 ユールは、金の装飾が施された白い翼に興味津々だ。実はそれは装飾ではなくキメラの体組織の一部なのだが。
 天使たる彼女はキメラの翼の効能を知識としては知っていても、実際に使ってみるのはこれが初めてだったのだ。
「どんな感じに飛ぶんですか?痛い?苦しい?」
「そんな物騒なものではないよ。ビュンッって感じだろうか」
 とにかく一瞬だよ、とセラパレスが笑った。
「いや、ギューッって上へ引っ張られる気がするけどな、俺は」
「では、引っ張る力が強すぎて、もげたり千切れたり!?」
「そんな悲しい事故は聞いたことがないわね」
 使ってみるかいとキメラの翼を渡されて、ユールはそれをしっかりと握り締めた。
「責任重大ですね…。それでは一投、行かせていただきます!えいっ!」
 盛大な掛け声と共に、キメラの翼はべしっと地面に叩きつけられた。
 アスラムは腹を抱えて爆笑し、セラパレスとメルフィナは微妙な眼差しでユールを見た。
「それは上に投げるんだよ…」
「ああ!」
 恥ずかしいじゃないですか!とぶつくさ言いながら、ユールが再び投げたキメラの翼。金の装飾がきらめいたその一瞬後、ユールたちはセントシュタインの城門前へと降り立っていた。