2010年8月6日金曜日

旅芸人ユール

 神ははじめに人間界を創り、そのあとに天使を創った。
 天使の長い寿命や、空を飛ぶ翼、頭の光輪は、人間たちよりも優れた存在である証。
 かよわく愚かな人間たちを、守り、導くため、神より与えられたものなのだ。

 見習い時代に何度も読んだ『世界創造』の一節を諳んじて、翼も光輪も無くしてしまった天使はため息をついた。
 動くと体の節々が痛んだが、寝込むほどではない。無理をしなければ大丈夫だろう。
 抱えた籠の中のじゃがいもを一つ握ってみる。ころころした感触は天使界にいた頃に感じていたものと全く同じだった。天使たる彼女にとって、人間界では感じるはずのない感覚だった。これまでは。
 夜空に燦然と光り輝く世界樹、天使たちの喜ぶ顔。突然足元が揺れて立っていられなくなり、彼女は慌てて根っこにしがみついた。荒れ狂う風と禍々しい光にもみくちゃにされ、体が上へと引っ張られた。伸ばされた師匠の手と、届かなかった己の手。それを最後に記憶がふっつりと途切れている。
 大きな滝とその名水で有名なウォルロ村は、数日前に発生した大地震で少なからぬ被害を受けていた。
 村人に大きな怪我がなかったのは不幸中の幸いだったが、教会の鐘が落ちたり、村の入口のアーチが崩れたり、土砂崩れで街道が寸断されたりしているようだ。
 大地震があった日の早朝、ユールは村の滝つぼに落下した所を助けられたのだった。
 かなり重い怪我だったにも関わらず数日で起き上がれるようになった、風変わりな衣裳と風貌と言動の、ちょっとどこかぼんやりしている少女。
 突然の災害で混乱している田舎の村で、怪しまれないわけがない。最初は言葉が通じることにも驚かれたくらいだ。
 守護天使として慣れ親しんだこの村で、皆から奇異の目を向けられて、ユールもさすがに弱っていた。
「お?この前の大地震のどさくさで、村に転がり込んだユールじゃねえか!」
 金髪をつんつん立てた少年がこちらに歩いてくる。村長の息子にして頭痛の種のニードだった。いつもつるんでいる垂れ目の子分も一緒だ。
「お前、こんなとこで何ぼーっとしてやがんだ?」
「じゃがいもを洗ってきたのです」
 まだ人間と普通に言葉を交わすことに慣れておらず、彼女の受け答えはぎこちない。イモだぁ?と盛大に不審な視線が飛んできた。ただのイモですよと籠の中身を見せても、彼らは興味無さそうだった。
「お前、世話になってるリッカにメーワクかけてねえだろうな。ったく、あいつは何でこんな得体の知れない奴の面倒見てるんだ?どっから来たのか言わねえし、着てる服はヘンテコだし、どう考えても怪しいだろ?」
 ですよねぇ、とユールが真顔で同意したら、睨まれてしまった。
「きっとあれっスよ。こいつの名前が守護天使と同じだから、それで気に入ってるんスよ」
「どうせこの村の天使の名前を騙って、タダメシにありつこうって魂胆だろ。白状しやがれチビ」
「白状も何も、これは本名です」
 うるせぇと怒鳴られるかと思ったが、ニードは緩く笑って首を振っただけだった。
「まあ、そんなことはどうでもいい。お前に話があるんだ。リッカに恩返しするチャンスだぜ、もちろん聞くよな?」
「はい、どのようなことでしょう?」
「土砂崩れで峠の道が塞がってるのは知ってるな?人や物の行き来が無くなって、リッカ…いや、村の皆が困ってるんだ。そこでこのニード様は考えた。土砂崩れの現場まで行って何とかしてやろうってな!そうすりゃ親父もオレのこと見直すだろうし、リッカだって大喜びってわけだ」
 だろ?とニードに目線で同意を求められたユールは、こくこくと頷いた。
「ただ、この完璧な計画にも一つだけ問題があってな。大地震の後、村の外はやたらに魔物が出るようになっちまって、危なくってしょうがない。で、まあ、そんなわけで、お前に峠の道まで一緒に来てもらいたいんだよ。一つ頼まれてくんねーかな?」
「ちっこいけど旅芸人なんだろ?旅慣れてるだろうから腕も立つんじゃないかと、ニードさんはお考えなのさ」
 翼と光輪を失っても、これまで積んできた修行の成果までは消えていない。怪我のせいで体調は万全ではないが、そこは伊達に150年生きていない。十分に彼らの言う役割を果たせそうだ。
「分かりました。是非ご一緒させて下さい」
「よっしゃ!そうこなくっちゃ!じゃあさっそく行くか!」
「ちょっと待つっスよ、ニードさん。もうじき日が暮れます。明日にした方がいいっスよ」
「ん…そうだな。じゃあ明日な!ビビッて逃げるなよ!」
 ニードが指をびしっと突きつけてきた。ユールはそれに苦笑いで答えた。
「私はどこにも行きませんよ、大丈夫」
「おお?言うじゃねえか、チビのくせに。道案内はオレがしてやっから、魔物の相手は任せたぜ。あと、このことは村の連中には内緒な?」
 極秘任務ということらしい。承知しましたと答えるユールに、子分が話しかけてきた。
「ニードさんはああ言うけどな、こりゃ危ねえもうダメだってなったら、すぐ村に帰って来るんだぞ。途中で何があるか分かんねえから、薬草とか準備はしっかりして行けよ?薬草はよろず屋に行って買うんだぞ」
「だーっ!そんなこたぁ分かってるっての!お前はユールの母ちゃんか!」
 放っておくとよろず屋の場所まで説明しそうな子分を、ニードがどつく。親分の性格をよく分かった上での的確な助言だとユールは感心した。
(ご忠告、痛み入る…って、師匠じゃあるまいし、固すぎるかなぁこの場合)
 などと、ユールがのんびり返事を考えていたら、一人の少女がこちらに歩いてきた。
「ちょっと2人とも!うちのユールに何の用なの?」
 肩までで切り揃えられた黒い髪と、同じ色の瞳。彼女がユールの面倒を見てくれているリッカだった。
 小柄な体でユールを庇うように立ち、少年たちを睨む。途端にニードが大人しくなった。
「よ、よう…リッカ。別に何もしてねえよ。フツーに挨拶しただけだって。なぁ?」
「…本当に?」
 正直に言っていいのよと、リッカがユールを見る。その隙にニードは子分を連れて走っていってしまった。
「行っちゃいましたねぇ」
「全くもう。昔はニードもあんなじゃなかったんだけどなぁ。ユール。ニードたちに嫌なことを言われたら、ちゃんと言い返すのよ。場合によっては、チョップ3発までは許すわ」
「はい、頑張ります。ところでリッカさん。おイモ、洗い終わりましたよ」
「こら、さんづけは無しよ。リッカでいいから。それよりもユール、出歩いても大丈夫なの?治りかけに無理しちゃダメよ。ひどい怪我で危なかったんだから」
「リッカさ…、リッカのおかげで散歩できるまでになりました。本当にありがとうございます」
「いいのよそんな!さぁ、帰ってお夕飯の準備をしましょう」
「お手伝いします」
 野菜の皮を剥いたり、皿を並べたり、台所で一生懸命リッカの手伝いをしたこと。そして彼女の祖父と3人で囲む食卓。どれもユールにとっては初めての経験だった。
 野菜と格闘した際に指を傷だらけにして、リッカの仕事と心配を増やしてしまったのが反省点だ。
「何故か野菜が手から逃げるんです」
「もう危なくて、ユールに包丁持たせられないわ」
 じゃがいものグラタンをつつきながら、野菜の見かわし率の高さを嘆くユールに、リッカが言った。
「まあ、何事も経験じゃ。どうせヒマなんじゃから、この子に家事を教えてやってはどうかのう」
「ヒマなのも困りものよ、おじいちゃん」
 街道が土砂崩れで塞がれている今、村を訪れる旅人は皆無だ。彼女は毎日宿に出かけているが、客室の掃除と帳簿の整理しかやることがない。
「ほんにのう。以前は滝を見に来たり、ウォルロの名水を目当てに村を訪れる者がおった。そういう客のおかげで、こんな田舎の宿屋でもそれなりに繁盛しておったのじゃよ。だが、この間の地震で峠の道が埋まってしまったからのう。うちの宿屋も今や風前の灯じゃな…」
「こればかりは、私たちが気を揉んでもどうにもならないし…。一日も早く道が復旧するのを待ちましょう。多少の蓄えはあるし、森に食べ物もあるし、無駄遣いしなければきっと乗り切れるはずっ」
 あくまで前向きなリッカだったが、復旧のメドが立たない不安はあるのだろう。
 皆に悟られぬようこっそりため息をついた彼女の姿を見て、明日ニードと峠の道へ行き、何か新しい情報が得られればいいなと、ユールは思った。
 食事が終わると、リッカに「早く寝なさい」とベッドへ追い立てられた。
 宛がわれた一室でぼんやりと夜明けを待つ。ユールは天使なので睡眠の習慣がない。数日で治る怪我といい、翼と光輪を失っても天使の体質は変わらなかったようだ。
 もちろん天使であっても体調を崩したり、疲れを感じることもあるのだが、人間にはありえない治癒能力の高さですぐさま回復してしまうのだ。そもそも守護天使の職務は、昼夜関係なく人間を見守ることにある。
 カーテンを開けると月明かりが眩しいほどだった。今夜は読書でもしてみようと思い、ユールは部屋の本棚から適当に1冊選んで手に取ってみた。
 ウォルロ村の歴史や周辺の地理、生息している魔物のことなどが絵入りで記されている。ところどころ線が引いてあり、余白には「家族連れでも大丈夫」「一人旅にオススメ」など走り書きがされていた。
(宿屋の観光案内のために、勉強してたんだなぁ)
 リッカのものらしき字の他に、別の人物の筆跡も混じっている。宿屋の主人の努力の結晶だ。
 ウォルロ村のお土産ベスト5などは、天使界の記録には載っていない情報で非常に興味深い。
 明日の予習はこれ1冊で大丈夫だろう。ユールは夜明けまで読書に没頭した。

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