2011年10月25日火曜日

新たな出会い

 セントシュタインを騒がせていた黒騎士の一件は、「旅芸人ユールの勇敢なる働き」により円満解決に至った。
 その勇敢なる旅芸人は、朝の混雑が収まった酒場で、ぐったりとテーブルに伏していた。
 黒騎士騒動のあおりで閉鎖されていた北東の関所が再開し、物や人の行き来が盛んになってきた。この街にも大地震前の人々の暮らしが戻ってきつつある。
 さらに、すっかり街の英雄になってしまった「旅芸人ユール」に会いに、リッカの宿屋を訪れる客が後を絶たない。その応対と近頃とみに忙しくなったリッカの手伝いで、ユールはすっかり疲れきっていた。
「英雄って、私だけじゃないんですが…」
 フィオーネ姫と共にルディアノから戻ったあの日。登城しようと城門まで来たところで、アスラムとメルフィナが「今度こそ堅苦しいのはごめんだ」と行方をくらまし、セラパレスにも「長く留守にした店が心配だから」と置いていかれ、結局ユールはサンディと2人きりで国王に謁見することとなった。
 あれよあれよと彼女は救国の英雄として祭り上げられ、宴につぐ宴で数日帰してもらえなかった。
 初日の宴が終わった後、またしてもフィオーネ姫に拉致されたユールは、あるものを探しに単身ルディアノ城の探索に出かけた。
 本当はフィオーネ自ら出向きたかったようだが、今回の無断外出で父王の厳しい叱責を受けたばかり。しばらくは大人しくしているつもりのようだった。
「ユールさまがエラフィタへ向かわれた後、全てお任せしたのにどうしてもじっとしていられなくて、わたくしもエラフィタに行こうとキメラの翼を使ったのです。けれど、何故かあの広間の扉の前に立っていたのですわ。護衛の者たちも皆驚いていました」
 宴の最終日の午後は久々に晴天に恵まれた。フィオーネ姫は自室のテラスでユールのみを招いて小さなお茶会を開いた。
 姫は彼女がルディアノから持ち帰った品々を愛しげに撫でた。対面に座したユールは、いささか無作法に茶菓子と紅茶をせっせと消費している。サンディなどは宴の料理を食べすぎてベッドから出られずにいるのだが、彼女にとって宴の料理とお菓子は入る所が違うらしい。
「そちらの本はメリア姫の手記のようですが、ボロボロで中身がほとんど読めません。本にはさんだ紙の方は、比較的状態がマシなものです。筆跡からして男性のもの、おそらくレオコーンさんがメリア姫に宛てた手紙かと…」
 ユールはルディアノ城のメリア姫の部屋から日記と手紙を持ち出したのだ。フィオーネ姫は手紙をそっと開いた。
「何と書いてありますの?」
「ええと…。姫のお気持ち、大変嬉しく思います。しかし私は、魔女討伐の任を果たさねばならぬ身ゆえ、どうかそれまでお待ち下さい。私の心は、いつでも姫と共に。…以上です。便箋に黒い薔薇の紋章があしらわれています」
 ほう、と息をつく姫の手から、ユールは本を受け取り、壊さぬようにそっと開いた。
「それと、本のこのページですが…。黒薔薇の騎士よ。私は行きます。遠い異国の地へ。あなたのことを忘れたのではありません。ルディアノの血が絶えぬ限り…私は、あなたを…いつか…」
 ページが破れ、文字がかすれて読めなくなっている本を、ところどころユールは訳した。
「ユールさま。メリア姫の夫君、セントシュタイン9世の時代について、我が国には何一つ記録が残されていないのです」
 伝わっているのは、王家の系図に記された王と妻子の名前のみと聞いて、ユールは驚いた。
「何一つですか?王家だけでなく民の残したであろう記録すら残っていないなんて、そんなことが可能なのでしょうか…」
「覚えていらして?わたくしがレオコーンさまと踊った時に身につけていた首飾りを。あれは、遠い異国より我が国に嫁いできた姫が愛用していたものだと、王家の女性たちの間で伝わっているものなのです」
「メリア姫のお部屋にあった肖像画に、確かに赤い首飾りが描かれていました!」
「ああ!では、やはり…」 
 しばし心を落ち着かせ、手紙を本に挟み込みながら、ゆっくりとフィオーネ姫が話し始めた。
「わたくしの身に流れるこの血が、わたくしをあの場所へ導いたのだと思います。長い年月で故国も歴史も無くなってしまったけれど…この品々は、メリア姫とレオコーンさまが確かに生きていた証なのですね」
 言い終え、静かに涙を流す姫に、ユールは言った。
「人の思いは残るのです。何年かかっても、どんな形になっても、伝えたかった人にいずれ伝わるのですよ」
(伝わるよう手助けするのが守護天使の務め…でしょうか、師匠)
 ユールは紅茶のカップを置き、テラスから城下の風景を眺めた。
 サンディによれば、街中星のオーラで溢れているらしいが、相変わらず彼女はオーラが見えないままだ。
 セントシュタインの天使像も変化はなく、唯一収穫と呼べるのは、峠の道に転がっている天の箱舟がユールの存在に微妙に反応したことくらいだ。
 星のオーラの輝きが天使界からも見えていれば、何らかの変化があってしかるべき、というサンディの言に従い、彼女たちは宴の最中にこっそり城を抜け出したのだ。
「あんなに頑張ったのに成果これだけとかマジ有り得ないんですケド!」
 箱舟からの帰り道。サンディは不遜にも神を疑う発言をくり返して愚痴っていたが、ユールとしては今出来ることをただこなしていくのみだ。
「人間界、なかなか面白いかもしれません」
 楽しげに笑うユールを、不気味なものでも見るような目でサンディが見た。
 数日にわたる城での宴が終わり、久しぶりに宿へ戻った彼女をリッカたちが温かく出迎えてくれたが、
「オツトメご苦労様です英雄殿。ちなみに薬の調合は店長、ラッピングはメルが担当だ」
 というアスラムの手紙つきの胃薬を渡され(本人は魔物討伐で不在)、ユールはむくれながら笑った。
 かように忙しい毎日を過ごすユールに、2つの新たな出会いがあった。
 まず、宿のカウンターの端に腰掛けてじっと動かない女性、ラヴィエル。
 髪も肌も白く、頭上に光輪、背に大きな翼を持ち、風変わりな装束を身につけている。その装飾はどことなく天使界のものを思い出させた。
 そして、彼女の体は青く透けており、宿のカウンターなどという目立つ場所にいるのに人間たちは誰も気づかない。
 地上において人間は天使の姿を見ることはできないが、同じく天使であるユールの目にさえ体が透けて見えるのは、本来ありえぬことだった。
 彼女は地上をさまよう幽霊たちとも違う、異質な気配を醸し出しているのだ。正邪の判別も怪しい存在である。
 ロビーを通るたびに彼女のことが気になっていたユールだったが、ある晩、ようやく2人だけで話す機会を得た。
「こんばんは。はじめまして。ユールと申します」
「私はラヴィエルだ。よろしく」
 ラヴィエルの低い声は穏やかだが、どこか背筋が伸びるような生真面目さもある。
 そして、沈黙が落ちた。まさかいきなり「あなたは天使ですか、それ以外のものですか」とも聞けない。
 ユールの躊躇いを見て取ったラヴィエルがふと口元を綻ばせる。
「安心するといい、私も君と同じ天使だ。私はここで別の世界へと続く扉を管理している。君が望むなら、いつでも扉を開こう」
「あの…今は別の世界より、天使界へ一刻も早く帰りたいのですが」
「そうか。君の方もいろいろあったようだからな」
 ええ本当に、とユールは頷いた。やっと同胞に会えた喜びが湧き上がってくるが、彼女は何とか自身を保ち、続けた。
「ラヴィエル様。もしよろしければ、天使界へ帰参した折に、私のことをオムイ様にお伝え願えませんでしょうか?」
「様とは大仰だな。ラヴィエルで構わない。…ユール、私には扉の管理という役目がある。この地を離れることはできないんだ。力になれず、すまないな」
「いえ、そんな…!この地上で初めて私以外の天使に会えたのです。どんなに嬉しいことか…ラヴィエルさん、またここにお話をしに来てもよろしいですか?別の世界のことも伺いたいですし」
 いつでも、と控えめな笑みと共にラヴィエルが言った。
 その直後、夜勤のリッカに夜更かしを咎められ、話はお開きになったのだが、ユールはそれから毎晩ラヴィエルに会いに行った。
 彼女は天使だと言うこと以外自分のことを話さなかったが、別の世界のことについてはユールが仕組みを飲み込むまで丁寧に説明してくれた。
「ここに3枚の皿がある。それぞれ1年前の世界、現在の世界、1年後の世界としよう」
 ユールが夜食に持ち込んだおやつの皿を指し、ラヴィエルが言った。
「そしてこの赤い飴玉が君だ。君は現在の世界の皿にいて、別の世界へ行くために私の元を訪ねる。しかし、いつでも別の世界へ旅立てるわけではないんだ。この両隣の皿から…別の世界から呼ばれて初めて旅立つことができる」
「でも、私は別の世界に知り合いなどおりませんから、呼ばれようがありませんよ」
「君の方から呼べばいい。1年前、1年後の世界にいる誰かをな。呼びかけに応えてやってきた誰かと共に旅をし、友好を深め、今度は君が別の世界へ呼ばれて出かけて行く、というわけだ」
「普通の人間がホイホイ世界を移動できちゃうってワケ?それって相当ヤバくね?」
 3枚の皿の間でユールに見立てた飴玉を往復させながら、サンディが言った。ユール以外の天使に興味を覚えたと言って同席しているのだ。
「ラヴィエルさんの姿が見えないと、そもそも旅人になれませんから、普通の人間には無理なのでは?」
「じゃー、この人すっごくヒマしてるってコト?」
「サンディ!失礼なことを言わないで下さい、もう!」
 2人のやり取りに、ラヴィエルが苦笑いで首を振った。
「ここでは便宜上3枚の皿ということにしているが、実際はさまざまな時間軸で進む世界が無数に存在しているんだ。それぞれの世界で旅人が現れ、望む世界へ旅立っていく。彼らを導くのが私の務めだ」
 壮大な話に想像が追いつかなくなりながら、ユールがうっとりと言った。
「いつか…私もいつか別の世界へ行ってみたいです」
「まず天使界に戻ってからだね」
 サンディが飴玉のユールをぱくりと頬張りながら言った。
 次に、リッカが物置の整理中に発掘した錬金釜、カマエル。
 どうして釜に名前がついているかというと、本人(本釜?)が自ら名乗ったからである。
 錬金釜は四足で、丸っこい胴体に羽根がついている。愛嬌のある形を気に入ったリッカが「縁起物」としてカウンターに置いたその夜、ロビーにやって来たユールは釜がいびきをかいて居眠りしているのに気づいてしまった。
 幸か不幸か、周囲にはラヴィエルと彼女以外誰もいない。
「お客さーん、こんな所で寝てると風邪を引きますよー」
 ぱんぱんと、ユールが釜の横っ腹を叩いた所、
「…ハッ!ね、寝てません!わたくしは寝てなどおりませんよ!」
 釜が喋った。やや上ずってはいるが十分にダンディな低音で、早口に。
 とにかく人目の無い所へ、と、ユールは釜を抱えて従業員控え室へ駆け込んだ。
 そろそろ日付の変わる刻限である。住み込みの従業員たちは各自で配置についているか自室に引き上げており、人の出入りはほとんど無い。内緒話にはうってつけの場所なのだ。
 無人の控え室で、ユールは釜と向き合った。渋い声に似合わず饒舌な錬金釜のカマエルは、パタパタと蓋と羽根を動かしながら己の身の上を語った。
 アイテムとアイテムを掛け合わせてより優れたアイテムを生み出す奇跡の術・錬金。彼はその術を行うための特別な釜なのだと言う。
 錬金のやり方は簡単で、カマエルの蓋を開け、中にアイテムを入れるだけ。材料の大きさや重さは考えなくてよいそうだ。さすが奇跡の釜である。
 ユールは試しに薬草を3個カマエルの中に入れてみたが、ポンと蓋が開いて薬草が手元に戻ってきてしまった。どうやら錬金失敗らしいのだが、どこがどうダメだったのか、彼は言ってくれない。
(これは、メルフィナさんやセラパレスさんに相談した方がいいかもしれない)
 ユールは彼女を「お嬢様」と呼ぶカマエルと四方山話をしつつ、控え室で夜明けを待った。
「あれ?ユール、錬金釜こっちに持ってきちゃったの?」
 夜が明けきらぬ内に、おはようと控え室に顔を出したリッカが、開口一番ユールに問いかけた。
 さすがに「この釜、喋るし動くんです」とは言えず、ユールは曖昧に笑って誤魔化した。
「ここの図書室でこの釜の使い方が何か分かったっぽくて、いろいろ試していたんです」
「そっか、飾っておくだけじゃ勿体無いもんね!あ、でもここ火気厳禁だから気をつけてね、ユール」
「わ、わたくしも、火あぶりは嫌でございます、お嬢様っ…」
 声を潤ませて訴えるカマエルを撫でながら、ここで煮炊きはしないとユールは約束した。
 今後、アイテムの調合を行うのに、カウンターでは何かと差し障りがある。特に置き場所に拘りは無いらしいリッカの了承を得て、錬金釜のカマエルは従業員控え室の片隅でその力を発揮することとなった。

2011年10月15日土曜日

ルディアノ

ユールたちがエラフィタ北の森に踏み込んで4日が過ぎた。
 森の木々はびっしりと葉を茂らせているが、不思議なことに、葉も幹も自然界にはありえない腐ったような色をしている。
 地表は所々ぬかるみ、水の溜まりやすい窪みなどは、魔物の死骸から出た毒で汚染され、うかつに踏み込めない沼地になっている。
そして、瘴気とも霊気ともつかぬ紫の霧が常に立ち込め、気まぐれに視界を奪う。
エラフィタの村人たちはここを「滅びの森」と呼んで近寄らないため、道を知る者も当然ない。
ユールたちはルディアノがあるとおぼしき北の方角を目指してはいるのだが、日の光すら差さぬ深い森に阻まれて、未だに手がかり一つ掴めぬ有様だった。
「さすが、滅びの森ですね」
倒木をまたいで避けつつ、ユールが言った。
「黒騎士が俺たちと一緒に行ってくれれば、こんなとこを無駄に歩き回らなくて済んだんだがな」
「彼、元地元民ですものね。…現、かしら。まだ」
「いくらレオコーンさんでも、これだけ景色が様変わりしていたら道案内ができたかどうか」
年月の隔たりと記憶喪失が重なった彼の当惑ぶりは察して余りある、とユールは思った。
黒騎士レオコーンは、自分のことががわらべ歌となるほど年月が経過していることにかなり動揺していた。
話もそこそこに故郷を目指して走り去ってしまったのだ。「止める間もなかった」とは、その場にいたユールとアスラムの言である。
「騎馬で通った痕跡でも残っていればと思ったんだが、この地形ではそれも絶望的だ」
セラパレスが足元に目をやり、言った。ブーツは泥と何か不穏な色をしたぬめりでドロドロだ。
「蹄の跡を発見して追ってみたら、マッドオックスのねぐらでしたしね」
「それでも、森の入口付近には人の手で整備された道が残っていたわ。やはりこの先にルディアノがあったと考えて間違いないでしょう」
北へ進む内に、乾いた地面を探すのが難しくなってきた。だんだん地面どころか木立も無くなり、4人は一面ぐずぐずの沼地を行く羽目になってしまった。
足場の悪さもそれなりだが何より臭気が凄まじい。4人は極力沼の縁を辿るようにして、陸地を、道を探して歩き続けた。
「全員どくどくヘドロになるのが先か、ルディアノが見つかるのが先か…」
「その前に、この沼一周しちまうだろ」
果てなく続く沼地に気が遠くなりかけていたユールを、サンディの声が呼び戻した。
「お?じめんー!地面だよユール!」
彼女の言う通り、ちょうど馬一頭が通れるほどの道が黒々とした森の奥へ続いていた。
進んでいくと、やがて苔むして緑の壁となった石垣が現れた。大小さまざまな石垣が点在し、また濃くなってきた霧の中でぼんやりとその姿を浮かび上がらせている。
「これは…」
「どうやら無事に着いたようだな」
沼地を抜けてようやくたどりついたルディアノの地。
奥に進むにつれて石垣だと思っていたものが、元は家具だったり部屋の名残りだということが分かってきた。
「ここは街だったのでしょうか」
「敷地の広さから見て、ルディアノの王宮だったのだろう。しかし、一体どういう壊され方をしたのか。このあたりは壁がごっそり無くなっている」
セラパレスが周囲を見回した。壁はおろかドアも天井も無い。広場か庭園かと勘違いしそうなほど広々とした場所だった。床に転がる家具やタペストリーの残骸が、ここが元は室内だったのだと示すのみ。
横倒しになり扉が半開きになったクローゼットの中には、少々手直しすればまだ着られそうなドレスが残されたままだ。
「ここまで来るようなガッツのある盗賊はいないだろ。ただ、魔物にしちゃあ仕事が丁寧すぎるな」
ドレスを手に取り、ひらひらさせながら、アスラムが言った。
敷地の奥まった所に錬金術師の墓標があった。たった一つの墓標というのが不自然だ、とセラパレスが不審がっていたが、お参りを済ませた4人は黙々とルディアノの探索を続けた。遠い昔、確かにここで人々が暮らしていた痕跡を目にするたび、ユールはたまらない気持ちになった。
ほどなく、彼らは次なる問題に出くわすこととなった。
「このお城。いくら壊れてたって一階平屋建てってコトはないでしょ?もっと何かあるんじゃないの?つーか、黒騎士はドコよ」
サンディに言われ、ユールはハタと我に返った。
王宮の中心部はめちゃめちゃに壊れているが、城壁を兼ねた外縁部の回廊はほぼ無傷で残されている。左右に伸びる回廊の先には楼閣が見えた。
回廊の入口をアスラムが見つけたが、脆そうな見かけに反して扉はびくともしない。
「この扉に強い魔力を感じるわ」
「解けそうか?」
「ダメね。この扉の術式は現代のものとまるで違うもの」
「ルディアノの人々の間で独自に編み出された魔法なのでしょうね」
メルフィナとユールは頷きあった。天使界で一通りの魔法を修めた守護天使であっても、解除の糸口すら掴めなかった。
「じゃあさー、あのいかにも王様の住まいっぽい建物目指してよじ登るってのは?」
「いいですね!サンディ、ひとっ飛びして様子を見てきて下さいよ」
「イヤよ!か弱いアタシに何てコトさせんのよ!…って、痛いんですケド!」
言うだけ言って非協力的なサンディを、ユールは無言でデコピンした。
結局、塀の隙間から王宮の内部へと入ったユールたちは、床にあいた大穴を迂回しつつ進む間、暗がりに身を潜めていた魔物たちに幾度となく襲われた。
外ではついぞ見かけぬ異形のものたち。うかつに魔物に触れてしまうと皮膚が爛れ、ひどい目眩に立っていられなくなってしまう。
死霊の群れを退けた後、アスラムとユールは近くの瓦礫に腰掛け、セラパレスの作った毒消しをもぐもぐしながら休憩していた。先頭に立って敵を蹴散らす彼らは消耗が激しい。
「この穴も魔物の仕業、なのかねえ」
「穴から遠い所は部屋ごと綺麗に残ってるんですものね。本棚もベッドもそのまま」
それから彼らは厨房、兵士の詰め所、図書室を抜け、階段を上がった。
そこは、まっすぐに伸びる薄暗い廊下の中程だった。壁をくりぬいて作られた燭台に、メルフィナがぽつぽつと火を灯していく。
「…静かに。何か聞こえないか?」
セラパレスの言葉に、サンディとユールは同時に首をかしげた。しばらくそのまま待っていると、かすかな気配、あるかなきかの風のようなものが一瞬駆け抜けたのが彼女たちにも分かった。
4人は無言で目を見交わし、足音を忍ばせ、廊下を右に進んだ。つきあたりの階段を下りると、誰かの話し声がはっきりと聞こえてきた。甲高く甘やかな女の声。レオコーンの話す古語と同じ響きだった。
四方を柱に囲まれた部屋は広く、おそらくルディアノ王の謁見の間。柱の隙間から中を覗くと、かつて国王が座していただろう玉座の金、少々色褪せてはいるが部屋中央に堂々と敷かれた絨毯の赤、その中をひらひらと踊る黒い影が見て取れた。
「イシュダル、貴様…!」
搾り出すような苦々しい声。それはレオコーンのものだった。
「貴様の呪いが解け、私は全てを思い出した…。私は貴様を討つべく、このルディアノ城を飛び出し…」
「そして私に破れ、永遠の口づけを交わした…。あなたと私は数百年もの間、闇の世界で2人きり。あなたは私の下僕となった…そうでしょ?レオコーン」
ころころと楽しげに恐ろしげな内容を語る女はイシュダルというらしい。ユールが中の状況を通訳すると、仲間たちの顔に緊張が走った。
再び呪いをかけてやろうと近づいたイシュダルに、激昂したレオコーンが気合とともに飛び掛ったが、激しい雷撃の返り討ちに遭い、彼は倒れこんでしまった。
説明不要の緊急事態に、ユールが通訳をすっ飛ばして号令をかけた。
「レオコーンさんを助けます!」
「…あー、行く前にホイミくれホイミ。限界だ…」
「お前は…っ!何故前もって言わない!?」
「もうちょっと落ち着いてから、と思ってたんだが。思わぬ急展開にこっちもびっくりだ」
「今まで静かだったあなたにびっくりですよ!ああ、アスラムさん、顔が真っ青ですよ、大丈夫ですか!」
「いいから、早く回復なさい」
黒騎士を救うため、ユールたちがどたどたと謁見の間に駆け込むと、今まさに止めを刺そうとしていた女が鋭い声で誰何する。蝙蝠のように肉薄の翼が一つ大きくはばたいた。
青ざめた女の肌は艶かしく、背を流れる髪も凍てつくような紫色をしているが、その身に纏うドレスとカッと見開かれた目は、滴る生き血さながらに赤かった。
色を失ってなお肉感的なイシュダルの唇がニィッと笑みを作った。
「あんたたち、まさかレオコーンを助けようってんじゃないだろうね?ククク…馬鹿ねえ。身の程知らずな子たちだこと。いいわよ、私のとびっきりの呪いをかけてあげる!!」
イシュダルが手をひらめかせ、先程レオコーンを打ち倒したものより大きな雷撃を放った。ユールは怯むことなくその前に身を躍らせた。
「おいチビ!下がれ」
「ユール!」
仲間たちが口々に彼女の名を呼ぶ。
「大丈夫です!…邪悪なる妖女よ、そのような呪いは私には効きませんよ!」
ユールはイシュダルへ右手を突き出した。呪いの雷撃は部屋全体を覆い、人間たちの視界を奪う。
眩いばかりの光の放出が不意に止んだ。ユールの手に吸い込まれるようにして消えてしまったのだ。
イシュダルの美しい顔が怒りに歪む。
「私の呪いが効かないなんて、まさか…。ええい、全員まとめてズタズタに引き裂いてくれるわ!死ねえええッ!」
イシュダルの振り下ろす短剣を、ユールが剣ではじき返した。妖女がよろけた所を狙ってセラパレスが横ざまに槍で薙ぎ払う。
翼を駆使して宙に逃れたイシュダルは急降下してメルフィナを襲う。迎え撃つは紅蓮の火球。メルフィナは的確にメラやヒャドをぶつけ、イシュダルの勢いを削いでいく。
人間たちの攻勢に怯んだ妖女の首筋に、アスラムが手刀を叩き込んだ。ぐらり、と倒れ掛かった所へユールの剣とセラパレスの槍が止めを刺すと、おぞましい叫びが上がった。
「レオコーンさんは無事ですか!?」
「大丈夫。あの魔物の呪いで動きを封じられていただけよ」
断末魔の苦しみに悶え、濁った緑色の体液を口から溢れさせながら、地を這うイシュダルが笑う。
「再び…レオコーンと私だけの世界が蘇るはず…だったのに…。でもね、レオコーン…。数百年の時は、もう、戻すことは、できない…。愛するメリアは、どこにもいない…。絶望にまみれ、永遠にさまよい歩くがいいわ…」
妖女の呪いから解放されたレオコーンが愕然と見つめる中、イシュダルは満足げに笑いながら黒い靄に包まれ消えていった。
「おいユール、通訳…は、なくても大体分かったからいい。何ともやりきれないよな…」
アスラムが口を尖らせそっぽをむいた。他の2人も痛ましげに黒騎士を見つめている。
「ようやくルディアノにたどり着いたというのに…。時の流れと共に王国は滅び、私の帰りを待っていたはずのメリア姫も、もういない。私は…戻って来るのが遅すぎた…」
過ぎ去った年月の重みに打ちひしがれる黒騎士の姿に、誰もかける言葉が見つからない。
「いいえ…、遅くなどありません…」
その時、ユールたちの脇をすり抜け、一人の女性が黒騎士に歩み寄った。ほの白い顔を彩る微笑みはどこまでも優しく穏やかなものだった。赤い石が印象的な首飾りと古風な白いドレスを身に纏い、ゆっくりと歩むその姿。波打つ金の髪に縁取られたその顔はフィオーネ姫そのものだった。
「え…!?姫が何故ここに?」
「姫ってどっちの?」
「え、ど、どっちでしょう?」
天使たるユールにも生者たるフィオーネ姫か、死者たるメリア姫なのか、とっさに判断がつかなかった。
そっと差し出された姫の手を騎士が胸に抱くように受け止め、立ち上がる。
勇ましい鎧姿なのにどこかおどおどとした騎士を優しく見つめ、姫が少しはにかんだ表情を見せる。
そして、どちらからともなく手を取り合い、2人はワルツを踊り始めた。くるり、くるりと回るたびに姫のドレスの白い裳裾がひらめき、騎士の黒い外套が寄り添うように後を追う。
ユールは、先程の城内探索で見つけた本のことを思い出していた。ルディアノでは新郎新婦が踊るダンスが婚礼の華とされていたらしい。本には踊りの際の注意事項から装飾品の数々が紹介されていた。
さぞ綺麗だっただろうと当時に思いを馳せるユールの横で、サンディが出鱈目な振り付けで踊り出し、あまりにくねくねしているので爆笑していたら「ちょーイケてるステップが分からないなんて!」とどつかれたが、
「…どうかこの2人に祝福を。永遠の平安のあらんことを」
ユールは言祝ぎを口にした。守護天使が婚礼を挙げた人間たちに贈る特別な祈り。
見習い時代に彼女の師匠が婚礼を司った際にしたように、低く、長く言葉を紡いでいく。
ふ、と何かに気づいたように姫が足を止めた。向かい合う騎士の体が青く透け始め、光の粒子となって消えていこうとしている。
ユールは姫と騎士の間に立ち、古語で語りかけた。
「レオコーンさん。…よろしいですね?」
「ユール…。そなたのおかげで、私は全ての真実を知ることができた。もう思い残すことはない…感謝する」
ユールに頭を下げた後、レオコーンは姫に語りかけた。
「異国の姫君。あなたがメリア姫でないことは分かっておりました…。しかし、あなたがいなければ、私はあの魔物の意のままに、絶望を抱え、永遠にさまよっていたことでしょう…」
「レオコーンさま…」
最後に姫を包み込むように青い光が強く輝き、そして宙へとかき消えた。
後には、しんとした静寂だけが残された。