2010年11月7日日曜日

一歩を踏み出す

 土砂崩れが取り除かれ、峠の道が開通するまで、それからさらに数日を要した。
 自身の旅支度の他に、宿屋の一切を後任の人物に引き継がねばならないので、リッカはかなり慌しい日々を送っていた。
 たまにリッカの引継ぎを手伝いつつ、ルイーダもウォルロ村での休暇を満喫していた。
 地震の影響もこれで一区切りという安心がそうさせるのか、リッカの旅立ちと宿屋の今後とルイーダの噂で村中が騒がしかった。
「村の人に、あの女はリベルトさんの何なのかしらって言われてちゃってかなり複雑。あの人と私はそんなんじゃないのに」
 リッカの出発を明日に控えた午後、ルイーダは宿屋の食堂でお茶を淹れながら言った。その向かいでクッキーを頬張りながら、ユールは村のご婦人たちの井戸端会議がいかに容赦の無いものか思い返していた。
「私も随分と面白おかしく言われたものですよ」
「確かにネタに事欠かないわよね、あなたは。怪しくないところが無いもの。まあ、他人にいちいち真相を説明する義理はないんだけど」
「でも、馬小屋の男性がルイーダさんに一目惚れって聞きましたよ」
「あら嬉しい。今度挨拶しておくわね」
 その時、台所でリッカとニードが食材の仕入れ方法について何やら言い争いを始めた。
「…大丈夫でしょうか。明日出発なのに」
「ふふ。想いは人を変えるのよ。リッカはまだまだみたいだけど」
「…?」
 意味深に笑うルイーダを不思議そうに見つめながら、ユールはもう一枚クッキーをつまんで口に放り込んだ。
 翌朝。いよいよセントシュタインへ出発という一行を見送るため、ニードやウィック、親しい村人たちがリッカの家の前に集まった。
 しかしニードは名残りを惜しむ人々の輪から外れ、家の裏手でウロウロしている。
「一体何なのアレ」
 サンディがユールの頭をつつきながら尋ねた。
「…さあ」
 天使であるユール以外、サンディの姿を見ることができない。怪しまれないよう、独り言を装いながら彼女は答えた。
「離れ離れになっちゃうけど、元気でね、おじいちゃん」
「お前も慣れない都会暮らしで苦労も多かろうが、くれぐれも身体を壊さぬようにな」
 祖父と孫娘が互いを労わり合い、ひしと抱き合った。そこですかさずルイーダが、老人を安心させるように言った。
「お孫さんのこと心配でしょうけど、私もできるだけサポートしますから、どうかご安心くださいな」
「おおっ、ルイーダさん。よろしくお願いしますぞ!」
 そして、まだ離れた所でウロウロしているニードに、リッカが歩み寄り、声を掛けた。
「ねえ、ニード!ちょっといいかな?」
「な…何だよ?村を出てくヤツがオレに何の用だってんだ?」
「宿屋…ニードが引き継いでくれるんでしょ?勝手な話だけど、私あの宿屋を閉じたくなかったから…ありがとう。感謝してる!」
「親父が働け働けってうるさいからな。別にお前のためじゃねーよ!まあ、オレがやるからにはセントシュタインのなんかよりビッグな宿屋にしてやるけどな!」
「うん、期待してる。でも私だって負けないんだから!」
「おうよ!受けて立ってやんぜ」
 爽やかなエールの交換をユールは微笑ましく見守った。喧嘩交じりの引継ぎで、一時はどうなることかと心配したものだったが。
「あらあら、どさくさにまぎれて手を握ったわね」
 いつの間にかユールの背後に移動していたルイーダがうっそりと呟いた。
「ただの握手では…?」
 何故かわくわくしている様子の彼女と2人並んで立っている所へ、ウィックがバスケットを持ってやって来た。
「ユール、これ。弁当作ったから皆で食え」
「わあ!ありがとうございます!」
 差し出されたバスケットを受け取り、ユールは深々と頭を下げた。
「まさかあのニードさんが真面目に宿屋をやるなんてなぁ。ちょっと信じられないよ。これもリッカに対する想いの成せる技なのかね?…ま、あの人のことだから、すぐに飽きちゃって放り出しちゃうかも知れねーけどさ」
 相変わらず親分のことをよく分かっている発言をするウィックに、ユールは苦笑いで答えた。
「ニードさんには、セントシュタインのリッカを越えるという想いがあるようですから、途中で投げ出したりはしないと思いますよ」
「…はぁ。ま、お前も道中気をつけるんだぞ」
 ウィックに溜息をつかれ、ユールはきょとんとした。隣のルイーダはやれやれと肩をすくめている。
 いつまでも名残りが尽きないが、代表でリッカが村人たちに別れの挨拶をした。
「それじゃ行って来ます!皆ありがとう!」
 こうしてリッカ、ルイーダ、ユール、人間には見えないサンディの4名はセントシュタインを目指して出発した。
 ユールとサンディの目的は峠の道の箱舟だったが、「旅は道連れ」とばかりに途中まで皆で一緒に行くことにしたのだった。
「ユール…あなたにはすっごくお世話になっちゃったね。本当にありがとう。父さんが隠していたトロフィーをどこからか見つけてきちゃうなんて凄いよね。ユールって不思議な子。もしかして本当に天使さまだったりして…」
 すかさず否定しようとしたユールをリッカは笑って押し留め、その手を取った。
「な~んてね。あなたもこれから自分の故郷に帰るんだよね?もし、いつかまたセントシュタインに立ち寄ることがあったら、絶対うちの宿屋に泊まって行ってね!あなたのことずっと覚えてるから!」
 道中、リッカがユールに告げたこの言葉。そこに込められた暖かさに、ユールはちょっと泣きそうになった。
「え、あれ?どうしたんでしょう私」
「オーラ、出てるんですケド~。こちらの天使様にはお見えならないんでしたっけ~?」
 サンディの冷めたツッコミは聞かなかったことにした。
 峠の道で昼食を摂る間、ユールとサンディはこっそり木立の中の箱舟へと向かった。
 このまま天使界に帰ってしまうとルイーダとリッカに心配をかけるので、置き手紙を箱舟の脇に用意しておいた。
「よーし、それじゃ中に入るよ」
 サンディの一言で、バタンと箱舟のドアが開いた。
 内部は暗く、入口からの光でかろうじて様子が分かる状態だった。元々物が少なかったようで、中はさほど散らかってはいなかったが。
「これが天の箱舟の中よ。どう?なかなかイケてんでしょ。でも、できることならもっとカワイクしたいのよねー。まだちょっと地味じゃない?ゴールドの中にきらきらピンクのラインストーンも並べてさ。アタシ色に染めたいワケよ」
 早口で語られた珍妙な箱舟改装案についていけず、ユールはぽかーんと口を開けていた。反応がないことに苛立ったサンディが、噛み付きそうな目で彼女を睨む。
「なによー!さっさと出発しろって言うの?わ、分かったわよ。ええ、やってやりマスよ!!ぶっちゃけアタシも天使界がどうなったのか知りたいっぽいしネ」
 箱舟の最奥には、天井に届かんばかりの巨大な装置が据え付けられていた。それは巨大なオルガンのようで、鍵盤の代わりに大小さまざまなボタンや目盛りが並んでいた。
「それじゃ、いっくよー。す、す、す、スウィッチ・オンヌッ!!」
 ずらりと並んだボタンを適当に(と、ユールには見えた)バシバシ叩きながら、運転士が高らかに出発を宣言した。
 予想された振動は感じられなかった。物音一つしない静寂の中、2人はしばし立ち尽くしていた。
「…あーあ。やっぱダメなんですケド。アタシ的には天使を乗せれば動き出すって思ったのに。何でかなあ。あ!あんた、天使のくせに星のオーラが見えないよネ?それってやばくネ?きっとそのせいなんですケド!だいたいさあ、天使のくせに翼も頭のわっかも失うとかありえなくネ?」
「すいませんね、いろいろとありえない天使で」
 サンディの無茶苦茶な非難と箱舟が起動しなかった落胆も手伝って、ユールは不貞腐れた。
「あれ?もしかして怒った?あんたも怒るんだ?超うける!…とか言ってる場合じゃないか。アタシもあんまりヒマこいてると、神様に怒られるっぽいしネ」
 キャハハと笑ったかと思えば、腕を組んで思案顔。ここでハタと動きを止めたサンディは、今度は大声で叫んだ。
「ああー!!神様!そうよ神様よ!こんなことになってるのに、どうして助けてくれないワケ?おかしいんですケド。もしかしてアンタやアタシや箱舟ちゃんを見つけられないの!?」
「今まで天使界の方で混乱しているから追跡が遅れているのだと思ってましたが、通常、我々天使は光輪の力によって天使界と連絡を取りますから…何というか今の私は音信不通状態なんでしょうね」
 箱舟と運転士の場合はどうなのか。ユールは聞いてみたかったが、サンディは自らの思索に忙しく、それどころではないようだ。
「というわけでユール。アタシらもセントシュタインに向かうわヨ。いっぱい人助けをして星のオーラを出せば、それが目印になってアタシ的には神様に見つけてもらえると思うの。え?なあに?その思いっきり疑ってる顔。超うける!んじゃ、方針も決まったことだし、さあいくヨー!」
 サンディの中で勝手に完結している論理でもって行動することに一抹どころでない不安を覚えたが、自分に他にやれそうなことも思いつかない。ユールは大人しくサンディの案に乗ることにした。
 箱舟の外に出て置き手紙を回収し、ユールはリッカとルイーダの元へ戻った。
 己が天使であるという自信が揺らぎつつある彼女だったが、ひとまず果たすべき義務をこなしていこうと思うことで、先々の不安を考えないようにした。