2010年7月14日水曜日

守護天使活動記録

各話タイトルは、こちらからどうぞ。


第1章
見習い守護天使
天使界
師匠と弟子
天使のつとめ
初仕事
実りの時

第2章
旅芸人ユール
土砂崩れの調査
叱責
脱出
キサゴナ遺跡
才能を見抜く目
想い
一歩を踏み出す

第3章
セントシュタイン
王国の危機
仲間たち
桜の里
シュタイン湖
まぼろしの王国
黒薔薇わらべ歌
ルディアノ
新たな出会い

第4章
流行り病
遺跡調査
病魔の呪い
暁光
新たな使命

第5章
果実の行方
迷子
ダーマの塔
進むべき道

実りの時

 星のオーラが3つ集まったし、そろそろ世界樹に捧げに行こうかなぁ、などと考えながらユールが振り返ると、目の前にイザヤールが立っていた。
 最初、師によく似た村人かと思って、まじまじと見入ってしまった。しかし、翼や剃髪などどこを取っても特徴的な彼のそっくりさんが人間界にいるとも考えにくい。
「し、師匠…?あの、えっと…お久しぶり…です?」
 突然の登場に驚き、弟子の語尾が半端に上がってしまっても、イザヤールは特に何も言わなかった。
 聞かなかったことにするらしい。挨拶は全ての基本だと、修行時代に厳しく躾けられたことをユールは思い出した。
「ユールよ。しっかり役目に励んでいるようだな。随分と驚いているようだが、私がこの村に来るのは、もういらぬお世話かな?」
 聞き覚えのある声だ。他人の空似ではなく、ばっちり本人だ。
 いらぬ世話などととんでもない。予想より早かった再会についついはしゃいでしまう。
「またお会いできて嬉しいです!お話したいこともたくさんありますし。あ、師匠、地上でのお仕事は如何ですか?」
 イザヤールはこのウォルロ村がある大陸の上半分を回ってきた所なのだそうだ。天使界へ戻るかと聞かれ、手の中の星のオーラを見つめつつ、ユールは「はい」と答えた。
「そうか。気をつけて帰るのだぞ。私はしばらく下界に留まるとしよう。…んっ!?」
 師の視線を追って、弟子も夜空を見上げた。星々の海を一直線に横切っていく光の帯…馬車の荷台に屋根を付け、それを数台繋げたような形をしており、先頭の煙突からポーッという音と共に星屑を吹き出していた。
「あれは…流れ星?」
「いいや、天使たちが神の国に帰る際に乗ると言われている、天の箱舟だ」
 ユールはこれまで夜空を駆け巡る箱舟の伝承を耳にしたことはあるが、実際に見るのは初めてだった。
「そういえば、昨夜もああして飛んでいましたよ」
「私とてそう何度も見ているわけではないが、箱舟が慌しく飛び回るなどこれまで無かったことだ。何事かあったのだろうか…」
「師匠。先日天使界に帰参した際に、いよいよ女神の果実の実りが近いという話を聞きました。もしかしたら」
 ふむ、と顎に手をやり、しばらく考え込んでいたイザヤールだったが、
「…気が変わった!ユールよ、私も天使界へ戻ることにする」
 言い終えるやいなや飛び立つ師に置いていかれぬよう、ユールも慌てて翼を広げた。
 師弟揃って天使界に戻るのは久しぶりだ。ゲートの前で長老に話があると言う師と別れ、ユールは世界樹へと向かった。
 天使たちの様子がいつもと違って見える。ざわついているというか、何となく落ち着かない空気に包まれている。
 こんな時でも冷静に日々の記録を続けているラフェットも、同じことを感じているようだ。
「間もなく神の国からお迎えが来る…昨日、オムイ様からお言葉があったのよ。あなたの持っているその3つが、最後に捧げられるオーラとなるかも知れないわね」
 天使界の歴史に残る偉業だ。もしそうなったら大々的に記録に残してもらえるのだろうか、とユールはちょっと考えた。
「たおやかで美しく、才能に溢れた若き守護天使が最後のオーラを捧げると…みたいな感じですかね?」
「ユール、かっこいー」
 師の傍らで本を片付けていたアケトが、律儀に合いの手を入れてくれた。だが、
「人間は時に歴史を書き換えるけれど、天使たる私が記録するのは事実のみ。良くも悪くも、ありのままの姿しか残せないわ」
 「可愛い天使」くらいなら書いてあげられるかも? 司書長に思いっきり笑われてしまった。
 オムイは世界樹へ向かったということで不在だったが、長老の間の近くでは、コルズラスとラエルの師弟がこれまたいつも通りに修行に励んでいた。
 師弟並んで瞑想しているのだが、弟子の方は気もそぞろで、もじもじそわそわと全く集中できていなかった。
 前回のように邪魔になっては申し訳ない、とそのまま気付かぬフリで通り抜けようとしたが、ラエルに小声で呼び止められてしまった。
「なあユール。オレにも世界樹が見られるよう、こっそり手引きしてくれないか?」
 師と共に瞑想中だというのに堂々と私語、しかも内容が物騒だ。ユールは無言でラエルの頭をひっぱたいた。
「あのな、オレの案としちゃ、まずユールが見張りのおっさんの気を逸らせて」
「いやそれ無理だから。諦めて瞑想してなさいっ」
「で、その間にオレがこっそり…」
「こらこら!そういう話を師匠である私の目の前でするんじゃない!」
 コルズラスが弟子の頭にゲンコツを食らわせた。ぐりぐりと拳を押しつけている。
「ちぇっ!ユールが話に乗ってくるから、また師匠に怒られちまったよ…」
(乗ってないし!通りかかっただけだし!)
 その思いを視線に込めてギッとラエルを睨みつけるが、痛い痛いと騒ぐ彼はてんで気付かない。
 罰としてラエルに腕立て100回を言い渡した後、コルズラスが渋い顔をしながらユールに向き直った。
 対するユールは、生真面目さでもとっつきにくさでもイザヤールに比肩する彼の、眉間にくっきり刻まれた皺が怖いような、申し訳ないような、微妙な気分に陥っていた。
「うちの弟子は言うこと成すこととにかく軽率でいかん。そなたもあまりこやつの言い出すことを真に受けないでもらいたいな」
 毎度お騒がせしてすみませんと彼女は黙って頭を下げた。彼の表情からも声音からも、弟子の教育の苦労が偲ばれた。
 そのうちコルズラスからイザヤールへ苦情が行くかもしれない。独り立ちしても師に迷惑をかける弟子、というのはかなり恥ずかしいので、苦情はちょっと勘弁してほしいところだ。
 世界樹へ至る外周通路は、いつになく天使たちでごった返していた。上級天使のほとんどが弟子を伴って外へ出てきているようだ。
 今夜は雲が多いせいか余計に夜の闇が深く感じられる。半ばを過ぎた辺り、階段の縁にトルクアムの姿を見かけたユールが挨拶しに行くと、彼はお疲れ、と片手を上げて答えてくれた。
「すごい騒ぎですね、マスター」
「ああ、ちょっと前から変わった流れ星が出てるなーと思ったら、例の長老のお言葉だ。何かが起きるって嫌でも気付くさ」
「そうですね…とても大きな、何かが起きようとしています。天使界の歴史に残るような」
「歴史か。そういえば天使界は今、何もない荒野の上を漂っているそうだ。確か大昔に大きな国が栄えていた場所だったな…。栄枯盛衰、人間の歴史など虚しいものだ」
 縁起が悪いと取ればいいのか、これからが天使界の絶頂期だと考えればいいのか。迷ったユールは黙って話の続きを待った。
「…彼はついに帰らなかったか」
「彼?」
 夜空の星を見つめたまま、トルクアムが言った。まるで星々の一つ一つに答えを求めるかのように。
「大昔にエルギオスという偉大な天使がいてな。彼は地上に降りたきり戻らなかったんだ」
「その方は、星になってしまったのでは?」
「いいや。それはない」
 天使が「死ぬ」と、夜空の星となって永遠に輝き続ける。今なお務めを果たし続ける同胞と人間たちを見守るためだと言われていた。
 残念ながら、と語尾に付きそうな彼の声音に、ますますユールは混乱した。
「まあ、お前もいずれ知ることになる話だ。頭の片隅にでも入れておけ」
 すっかり眉根が寄ってしまっているユールの額をぴしゃりと叩き、トルクアムが笑う。
「ほら、星のオーラを捧げに行くんだろう?時期が時期だから観客が多そうだ。ドジって格好悪いとこ見せるなよ」
「えっ、イヤなこと言わないでくださいよ!」
 おたおたと腰を浮かすユールの手を引いてやりながら、トルクアムが立ち上がった。
「お前の師匠イザヤールも、そのまた師匠も、天使界に名を残す偉大な守護天使だった。師匠たちの名に恥じぬよう、お前も頑張るんだぞ!」
 ばちんと音がしそうな小粋なウインクつき。ユールは不覚にもちょっとぐっときてしまった。
 長老とイザヤールは上にいる、とついでに教えてもらい、急いで階段を駆け上がる。年長者を待たせるわけにはいかない。
 道々すれ違う天使たちから掛けられる期待の声とは裏腹に、彼女は何とも言いがたい胸騒ぎと戦っていた。
 ユールは最後の階段の途中で振り返り、下の様子をうかがってみた。心なしか、天使界の下部を漂う雲が黒く厚くなってきている気がする。
 確実に何かが起きようとしている。しかし拭い去れぬ不安もまた、同じくらい強く感じるのだ。
 胸騒ぎの正体をつかめぬまま、彼女は世界樹の根元へと到着した。
 長老オムイとイザヤールが並んで樹を見上げている。他に見物の天使は見当たらない。
 彼女の気配を察したのか、イザヤールがゆっくりと振り向いた。いつも通りの冷静なその顔に、ユールは少しだけほっとした。
「来たか、ウォルロ村の守護天使ユールよ」
「お待たせしてすみませんでした」
 よいよい構わぬ、とオムイはユールの到着を飛び上がらんばかりに喜んでいる。実際に長老の足は地面からちょっとだけ浮き上がっていた。
「ふぉっふぉっふぉ。あと少しで世界樹が実を結ぶはずじゃ。女神の果実が実る時、神の国への道は開かれ、我ら天使は永遠の救いを得る…」
「そして、その道を開き我らを誘うは、天の箱舟。さあ、ユールよ。星のオーラを捧げるのだ。オムイ様と私の予測が正しければ、いよいよ世界樹が実を結ぶだろう」 
 初めての時と同じように師に促され、ユールは世界樹の根元に立った。
 自分のこの手が、女神の果実を実らせる。誇らしい気持ちと先程から影を落とす不安とで、ユールは複雑な気持ちだった。
 彼女が手にしたオーラを求めるように、樹の幹がざわめいているのが感じられる。いずれにせよ、ここで止めるわけにはいかなかった。
 世界樹に星のオーラを捧げるべく、ウォルロ村の守護天使は迷う心を振り切り、両手を高々と差し上げた。

初仕事

 犬が吠えている。
 よろず屋の裏手をうろうろと嗅ぎ回りながら、わんわんと吠えている。
 ときおり通りかかる村人に怒られたり撫でられたりしても、犬はずっと吠え続けている。
 就任一ヶ月目の新米守護天使であるユールは、見回りのためにウォルロ村上空を旋回していたが、この犬がふと気になって降りてみることにした。
 頭上の光輪の力によって、人間には天使の姿は見えないが、動物たちは姿を見ることができる。舞い降りた彼女に気付いた犬が、わん!と一声吠えて駆け寄ってきた。
 ユールはその薄茶色の毛並みを撫でてやった。もし近くに人間がいたら、犬が何もない中空に向かってじゃれていると思うところだ。
 興奮気味に吠えたり手を舐めたりしていた犬が、ユールの服の飾り布を引っ張り始めた。手加減なしの全力だったので、彼女は思わずよろけてしまう。
 自分の足元と彼女の顔を何度も見比べて、犬がまたわん!と吠えた。
「何か…あるの?」
 ユールは膝をつき、犬が盛んに気にしている辺りを探ってみた。
 柔らかい草の絨毯に埋もれるようにして、銀色の指輪が落ちていた。内側に文字が彫ってある。2人の人間の名前と、今より数十年も前の日付。刻まれた名前に見覚えがあった。
「落とし物を届けようとしてくれてたんだね」
 えらいえらい、とユールがまた頭を撫でると、嬉しそうに犬がわん!と吠えた。
 彼女はひとしきり犬を構ってから、落とし主を探すべく再び空へと舞い上がった。
 指輪の名前の片方は、滝のほとりの一軒家で家族と暮らしている老女のものだった。一昨年に夫を亡くし、それ以来毎日欠かさず教会へお祈りに行っている。
 今の時間なら教会にいるはずだった。ユールは教会の鐘楼に舞い降り、扉をすり抜けて中に入った。
 午後の半端な時間帯とあって、一番前のベンチに小さな老女が一人座っているだけだった。うなだれているので、彼女の顔は見えない。
 時折呟く独り言によれば、彼女は亡き夫の形見の指輪を落としたことで、相当落ち込んでいるようだった。
(早く安心させてあげないと…)
 ユールは老女の足元に指輪を置いた。床板と金属が触れ合う微かな音が、思いの外大きく教会内に響く。
 その音で悄然としていた老女は我に返り、床に「落ちている」指輪に気付いた。たちまち笑顔になる。
 何度も何度もユールの名を呼びながら頭を下げ、感謝の祈りを口にしている。すると、彼女の座っていた辺りに光が集まっていき、小さな球体となった。そのままふよふよと漂っている。
 星のオーラだ。ユールはそれを両手ですくい上げる。彼女の手のひらに吸い込まれるようにして、オーラは消えた。
 ウォルロのような辺境の村では、魔物の襲撃や人間たちの揉め事などは滅多に起こらない。守護天使の仕事は、おおむねこのような感じでのんびり進むのが常だった。
 聖具室で夕飯の献立に悩んでいた神父の耳元で「とりにくのシチュー、とりにくのシチュー…」と囁いて念を送ったりしつつ、ユールは外の見回りに戻った。
 晴れた日のウォルロ村の午後を、人々は思い思いに過ごしていた。ちょっと困っていそうな村人がいればすぐ助けに入れるよう、守護天使は目配り、気配りを欠かさない。
 カウンンターで帳簿を眺めて満足そうに微笑む宿屋の娘と一緒ににっこりし(まだ若い主人だが、経営は順調なようだ)、井戸端会議に興じるご婦人方から村内の最新情報を聞き出し(主に立ち聞き)、天使像について村長の息子が意外な観察眼を披露するのを苦笑いで見守ったり(彼は天使像の変化をうっすらと感じ取っていた)。
 馬小屋で居眠りしていた青年の代わりに厩舎の掃除を済ませて感謝され、もう一つ星のオーラを回収できたのは日没間近だった。
(そういえば、幽霊が出るって噂があったっけ。夜になったら会えるかな?)
 未練を残して死んだ人間たちは、幽霊となってさまよい歩くことがある。そうした死者を放っておくと負の感情を引き寄せ、怪異の原因となる場合があるので、すみやかに昇天させてやらなくてはならない。
 昇天の術式を師から教わっていると言っても、ユールは実際に幽霊の相手をした経験はなかった。
 あまり駄々をこねない幽霊だといいな、と思いながら、彼女は暗くなり始めた村の中を歩き回ることにする。空から幽霊は見えないので、翼を使わず足で歩き回るほうが確実なのだ。
 小川のほとりで、おばさんが積み上げた食器を前にぷりぷり怒っていた。
「ごはんが美味しいのはあたしの料理の腕が良いからさ。ベッドが暖かいのは昼間あたしが布団を干しといたからだよッ。全く、守護天使様じゃなく、ちょっとはあたしにも感謝してほしいもんだね!」
 食器を叩き割らんばかりの勢いで、がしがし洗っている。ユールは洗い終わった食器の山へ、加減して小さく出した風の魔法をかけてお手伝いをした。
 水気を拭っていないのに乾いている食器に、「最近あったかくなってきたから…かねぇ?」とおばさんは首をかしげながら家へと戻っていく。お疲れ様です、と守護天使はその背中を労いを込めて見送った。
 村の奥の橋を渡ると、宿屋の娘の家の前に村長の息子が佇んでいるのが見えた。夜遅くまで仕事をしていた少女を気遣って、家まで送ってきたのだろう。
 寒気がすると言ってぶるっと肩をすくめる少年の背後に、涙目の大男が立っていた。尋常でないほど青白い顔色をしているので、大男の方が寒そうに見えた。
 彼の胸の辺りに、背後の家のドアが透けて見えている。普通の人間なら、体の向こう側が透けて見えたりしないはずだ。
 村長のドラ息子と村では散々な評判の彼だが、天使像の件と言い、ユールは彼の秘められた可能性を感じずにはいられなかった。
「すみませーん。えーと…そこの幽霊さん。ちょっとお話聞かせてもらってもいいですかー?」
 村長の息子が橋を渡ったのを確認してから、ユールは幽霊に話しかけた。
 彼女の声が聞こえた途端、大男の目から涙がぼろぼろ零れ落ちた。
 彼が泣き止むまで宥めながら、ユールはとりあえず話を聞いてやることにする。
「何で皆オレのこと無視するんだろうって思ってた…。オレは一体どうなっちまったんだ?あんたは何でオレのことが見えるんだ?何か羽根が生えてるし、でも魔物っぽくないよなぁ。ちっこいし…」
「魔物ではありません。私は、天使なのですよ」
 ちっこい云々は追求せず、噛んで含めるように告げると、大男の目がまん丸になった。
「天使?あのおとぎ話の…?ってことは、あんたはオレを迎えに来たのか?オレ、死んじゃってるのか?」
「ええ、残念ながら」
「もしかしたらって思ってたけど、ホントなんだな…ははは。あ、そういや傷が治ってらぁ。こないだ、でっかい魔物にぶん殴られて気絶して、近くに村があったから休もうと思ったら、誰もオレに気付いてくれなくて。ホントに辛かったんだ…」
「ええ、大変でしたね…。でももう大丈夫ですよ。私に、全て任せて下さい」
 また涙ぐむ男の腕を優しく叩き、ユールは言った。本当は相手の肩を叩きたい所だが、背が足りないので仕方がない。
 彼の言う「こないだ」は半年前だったのだが、死者は生者の時の流れに疎くなる。彼の中で死してさまよっていた時間は体感的にはそれくらいなのだろう。それでも、周囲の人間皆に無視される辛さは、察するに余りある。
 ありがとうと涙を零しながら昇天していく大男を見上げて、ユールは彼の魂が安らかであるよう祈った。
 大男が立っていた辺りに、おなじみの小さな光が一つ。ユールは本日3つ目の星のオーラを回収した。

2010年7月1日木曜日

天使のつとめ

 ――女神の果実が実る時、神の国への道は開かれ、天使は永遠の救いを得る。
 果実が実れば天使たちは役目から解放され、神の国へ帰れるという、天使界の伝承だ。果実を実らせるために、これまで数多くの天使たちが数え切れないほどの星のオーラを捧げてきた。
 星のオーラを受け入れて神々しいまでに眩く輝く樹を、ユールはただただ見上げることしかできなかった。
 全ての天使たちをその枝葉の内に包み込み、癒し、守っている世界樹の力。あまりに大きく、あまりに深く、ちっぽけな天使であるユールでは、とても全てを見切れない。
 言葉もなく佇んでいる弟子に、イザヤールが声をかけた。
「どうだ、ウォルロ村の守護天使ユールよ。星のオーラを捧げられた世界樹は、実に美しいだろう。人間たちからオーラを受け取り、世界樹に捧げる…これこそが我ら天使のつとめ。お前の今後に期待しているぞ」
「はい、師匠。我が全霊をかけて、ウォルロの守護に尽くします」
「うむ」
 イザヤールが表情をきっと引き締め、弟子の目から視線を逸らさず、重々しく切り出した。
「ところで、ウォルロ村の守護天使ユールよ。ふと思ったのだが、やはりいちいちウォルロ何某と呼ぶのは少々面倒だった。これからは時折そう呼ぶとしよう。それで、よいな?」
 どこまでも生真面目な師の、意外なほど素直な理由に、ユールはたまらず笑顔になった。
 こっそり弟子の呼称を変えても誰も気付かないだろうに。この場合、「こっそり」という部分が師の真面目な性格に引っかかるのだろうが。
「はい、お好きなようにお呼び下さい」
 よろしい、と師が目で頷きを返してきた。弟子が課題を指示通りに完璧にこなした時に見せてくれる顔だ。
「さあ、オムイ様の元へ行き、無事に役目を果たしたことを報告するがよいぞ。私はこれからすぐ地上へ降りる。息災でな」
「あ、師匠!天使界での飛行の許可を頂きたいのですが…」
 言うだけ言ってさっさと歩き出そうとした師を、彼女は慌てて呼び止めた。
 彼も思い切り忘れていたらしく慌てて解除してくれたが、「翼に頼りきり、足腰の鍛錬を怠ってはならぬぞ」としっかり釘を刺してきた。日々是鍛錬が師のモットーなのだ。
「守護天使ユールよ。汝に星々の加護があらんことを」
 大きな手でぽむと弟子の頭を一撫でし、師が祈りを口にした。
「師匠にも、星々の加護がありますように」
 師の瞳をまっすぐに見て、弟子も祈りの言葉を返した。
 先に立って階段を下りていく彼に道を譲る。いつものようにその背を見送る。
 何もかもがいつも通りなので、ユールは何だか笑いそうになった。
 拍子抜けするくらいあっさりした巣立ちに、まだ感情が付いていっていないのだろう。

 翼を使えば、文字通り一飛びに移動ができる。
 ユールは長老に報告を済ませ、トルクアムの店へと急いだ。スペシャルメニュー、スペシャルメニューと呪文のように唱えながら店のドアをくぐると、笑顔の主人自らが出迎えてくれた。
 彼に高い高いをされて天井に頭を打ちそうになり、ユールの笑いが悲鳴に変わる。すまんすまんと笑いながら謝る主人に「手加減してやれよー」とボルタスが気怠げに声をかけた。カウンターに一人腰掛け、背中を丸めて酒をちびちび呷っている。
 野菜シチューのパイ包みや焼きたてもちもちパンなど、ユールの大好物が食卓に並ぶ。ボルタスのおごりでジュースも飲み放題ときて、彼女は旺盛な食欲を見せた。
「ちっこいのに良く食うなぁ」
 とは、カウンターから移動してきて隣に座り、酒を飲んでいるボルタスの言である。
「ユール。人間界はどうだった?」
 空になった皿を片付けながら、トルクアムが尋ねる。
「平和で、あったかくて。あと賑やかでした!」
「賑やか?人間たちの祭でもあったのか?」
「いえ…人間たちがとても一生懸命生きていて。人間はちょっとしたケガや病気ですぐ死んでしまうけれど、何と言うか…守りたいと思いました。私の力でどれだけのことができるか分からないけれど、自分にできる精一杯で、人間たちを守りたいです」
 年若い天使の言葉に、トルクアムがニヤリと笑みを浮かべる。
「いやぁ、人間は結構しぶといぞ?特に女はな」
「お前何やったんだ。天使のくせに」
 ボルタスの呟きに「昔の話さ」と軽く返して、彼はおかわりのパンをユールの皿に載せた。
「さて、新米守護天使はこう言ってるが、先輩として何か一言あるか、ボルタス?」
 話を振られた酔っ払いは腕を組んでしばらく唸っていたが、
「む…俺も最初の頃はそう思ってたさ。でもな。ってか、聞いてくれよ!」
 突然がばっとボルタスに詰め寄られ、パンをかじったままユールは目を見開く。こらこら子供に絡むなと、主人が肩を叩いて酔っ払いを宥めてくれた。
「俺だって魔物を倒したりいろいろ頑張ってるんだぜ。なのにウチの街の連中と来たら、これっぽっちも守護天使さまに感謝してくれねえんだよ。本当に人間たちを見守ってやる必要があるのか、はなはだ疑問だな」
 言い終えると、手にしたコップの中身を一息に飲み干した。
「人間なぞ守ってやる必要はない、か…。いずれそういう時代が来るのかも知れないな」
 トルクアムが感慨深げに呟いた。空になったコップを振っておかわりを催促しながら、据わった目でボルタスが続ける。
「何か暗~い話になっちまったが、俺たち天使は人間には見えない、見えないものは無いのと同じだと、連中は思ってるんだぜ」
「じゃあ、明日から私たちがいなくなったとしても、人間たちは誰も気付かないんでしょうか」
 先輩のコップに酒をついでやりながら、ユールが言った。それにトルクアムが答える。
「それはどうかな。確かに人間たちは我々の姿を見ることができない。にもかかわらず、人間たちの中には天使の存在を信じる者がいる。…どうしてだと思う?」
 彼女が酒瓶を持ったまま考え込んでいたら、酔っ払いに瓶をひったくられてしまった。
「えーと…、姿は見えなくても何となく守られているなぁと感じてくれているからではないでしょうか。ボルタス様の毎日の頑張りだって、感じ取っている人間がいますよ絶対!」
「まあ、そう思わねーとやってられねえよな…」
 じとっとした目で後輩をを見やり、ボルタスが大きくため息をついた。その後輩もつられてため息だ。
 そんな2人に、トルクアムがやれやれといった顔で首を振る。課題を何度も間違えた時、師がちょうどこんな仕草をしていたなぁ、とユールは思い出した。
「おいおい、見守ると守るは違うんだぞ。例えばこのサラダだ。いつもお仕事ご苦労様と、俺がちびトマトを乗っけてやったのに、こちらの酔いどれ守護天使様は愚痴りついでにヘタまで完食なされた」
 空になった皿を指差しながら、トルクアムがしかめっ面をした。
「言われてみれば、何か乗ってた気がするなぁ」
「気付かなかったんですかっ」
 ごにょごにょ言っている守護天使たちの頭を、トルクアムがガッシリ掴んだ。そのまま力を込めてくるので、結構痛い。
「守護天使の仕事は確かにキツイ。まあ、見守る側の俺としては、美味いメシを食って元気に働いてきてくれと、精一杯の思いを込めるだけだな。それが相手に伝わる方が稀なんじゃないのかね」
 伝わっていない見本がほら目の前に、と、彼がサラダの皿をひらひらさせる。
「マスター。あんたの秘めたる思いに気付いてやれず、誠に申し訳ない」
 居住まいを正し、大仰な仕草でボルタスが頭を下げた。
「さあ、今こそオトコのセキニンを果たすべき時です!頑張って下さい、ボルタス様っ」
「待てチビ、何の話だ!」
 おかしな応援を繰り出す後輩と、オタオタ慌てる先輩。どちらも守護天使の姿としてはみっともなく褒められたものではない。
「ははは!イザヤールは弟子を面白おかしく育てたな!」
「本人は至って真面目だったと思うがな…」
 大笑いのトルクアムは、ぐったりしたボルタスとキョトンとするユールを残し、奥へ引っ込んでいった。
「しかし、イザヤールもあれで意外に弟子思いなんだな」
 俯けていた顔を上げ、ボルタスが言った。指でユールのほっぺたをつつきながら。
「お前の初めての世界樹との対面を見守るなんて、相当甘いと思うぞ」
 俺の師は立ち会ったりしなかった、だそうである。
「弟子が離れた寂しさで、今頃一人で泣いてたりしてなぁ」
「いやそんなまさか…っていだだだ!」
 ほっぺたの肉をつままれてぐいーと伸ばされた。よく伸びて面白いのだそうだ。勘弁して欲しい。
「一人といえば、これからアイツはどうするつもりなんだ?」
「何でも、決まった任地を持たないで各地を回るおつもりのようです」
「は~、何だってまたそんな苦労を背負い込むようなマネをするのかねぇ…」
「苦労ではないんだろうさ。本人にとっては」
 奥に下がったトルクアムが出てきた。彼の持つ大皿の上には、こぼれんばかりの特大プリンがふるふる揺れていた。
「それってあの、戻らなかっ」
「ところでボルタス、そろそろセントシュタインに帰った方がいいんじゃないのか?相棒が待ってるぞ。ああ、何だったらユールも一緒に連れて行け。通り道だろう」 
 そうだなと、幾分バツが悪そうにボルタスが答えた。言いかけた言葉を失言と考えているようだった。
 理由を尋ねようとしたユールの前にプリンを差し出し、トルクアムが言った。
「イザヤールの手を離れて、一人で地上に赴くのはさぞ不安だろうな。だが、失敗したところで誰が見ているわけでもないのだ。気にしないでガンガン行くといいぞ」
 自分にできる限りのことをやればいい。カンタンだ。
 巨大なプリンに取り掛かりながら、早くもユールの心は地上での任務へと飛んでいた。

師匠と弟子

 長老の間を辞し、世界樹の元へ向かおうとして、ユールはハタと気付いた。
 この天使界において、見習い天使は世界樹がある高層への立ち入りを含め、何かと行動を制限されている。守護天使就任と共にその禁足は解かれているのかもしれないが、行ってみてダメでしたでは格好がつかない。
「あ、ユールー!」
「アケト!」
 ちょうど図書室の入口から出てきた幼い少女が、ユールの名を呼びながら手を振っている。
 アケトは司書長ラフェットの弟子だ。師匠同士の仲が良いと弟子も仲良しなのは、天使界ではよくあることだった。師匠ぐるみ、弟子ぐるみのお付き合いというやつだ。
 2人で合同修行することも多々あったので、彼女はユールにとっては師に次いで身近な存在だった。
「長老さまとお話ししてきたの?これから世界樹のところへ行くの?」
 外見相応に舌足らずな物言いが可愛らしいアケトは、守護天使就任のこと、星のオーラのことなどを質問攻めにしてくる。
「ユール、世界樹のところに入れるの?見習い天使は一人で入っちゃダメなのよ?」
 今、最も切実な疑問がこれだ。ユールは首をかしげながら、友の問いに答える。
「うーん、どうなんだろう。師匠は何も言っていなかったし、何も言わないってことは問題ないってことだと思うんだけど…」
「うーん、どうなんだろうねー」
 ユールとは逆の方向に、アケトも傾いている。体ごと、斜めに。
「あ!それじゃあ、ご本人に聞いてみたらいいと思うなー」
 一息に姿勢を正して、アケトがユールの手を取ってぶんぶん振る。ユールは驚いて聞き返した。
「師匠がここに来てるの?」
「うん、うちのお師匠さまとお話してるのー」
 今のところは仲良しよ、と付け加えた友人に、ユールは思わず吹き出した。
 その昔、イザヤールとラフェットの喧嘩は天使界名物と言われるくらい頻発していたらしい。喧嘩といっても嫌い合ってするのではなく、人間界で言うところの「どつき漫才」的な意味合いが強いものだったようだ。
 今はお互い性格が丸くなったのか(何しろ500歳を越えなんとする上級天使だ)、ケンカ友達として往時の武勇伝が時折ひょっこり顔を出す程度となっている。
 喧嘩中の師は普段の生真面目さが吹き飛んで大層面白いので、ユールなどはこっそり楽しみにしているくらいである
 友人に手を引かれ、ユールは図書室に入り、本棚の間をすり抜けながら進んでいった。人間界だけでなく天使界で起こった出来事全てを記録し管理している図書室には、天井に届かんばかりに高い本棚が林立し、ぎっしりと本が並べられている。幅広の背表紙には金銀をふんだんに使った重厚な装丁が施されていた。
 体の小さい彼女たちにとっては、隙間無く本が並べられた棚というよりむしろ壁だ。しかし、採光を十分に考慮した室内は暖かな光に包まれていて、不思議と息苦しい感じはしなかった。
 司書長室の前まで来た2人は、中から聞こえてくる話し声に顔を見合わせた。静寂を旨とする図書室において、部屋の外まで漏れるほどの声というのは滅多にあることではない。立ち聞きするつもりはなかったが、声の主と話の内容が気になる。
「驚いたわよ、ユールがもう守護天使になるなんて!あなた良く許したものね」
 思わぬ所で自分の名が出て、ユールは驚いた。その脇腹をアケトがつつく。
「違うのだ、ラフェット。私はまだ早いと反対したのだ。それをオムイ様が…」 
「あはは…そんなことだろうと思ったわ」
「笑い事ではない!あれはまだ未熟だ。人間界で何かあったらどうする!君はエルギオスの悲劇のことを忘れたのか!?」
 いつもの喧嘩と違うみたいね、と小声でアケトが呟き、ユールも頷いた。
 弟子の身を真摯に案じている師の姿に、何やら落ち着かないものを覚える。
「あの方の悲劇はもちろん忘れてないわよ。でもね」
「ウォルロ村の守護天使ユールよ!いつからそこにいた!?」
 言いかけたラフェットの言葉を断ち切り、イザヤールが突然戸口に向かって声を発した。
 気付かれてしまった。厳しい声に思わず身が竦む。アケトなどは涙目になってしまっている。
 部屋の扉がうっすら開いており、その隙間から様子を見ようとするあまり、彼女たちは扉に近づきすぎていたらしい。
「そんな怖い声を出さないの。2人とも、中にいらっしゃい」
 壁一面に作りつけられた本棚を背に、温和な雰囲気の女性天使が座っていた。長い赤毛をゆるく三つ編みにして垂らし、眼鏡をかけている。レンズの奥の瞳はいたずらっぽく輝いていた。相対するイザヤールの仏頂面と反比例するかのように。
「こんにちは、ラフェット様。我が師イザヤールに質問があって参りました」
 ラフェットは鷹揚にユールの挨拶を受け、傍らのアケトにお茶を淹れてくれるよう頼んだ。
「あらあら何かしらね。ちゃんと引継ぎしてないんじゃないの、イザヤール?」
「うるさいぞラフェット。…どうした、何事かあったのか?」
 世界樹がある高層への出入りは、やはり守護天使就任と同時に許可されているとのことだった。
 早速向かおうとしたユールは師に呼び止められた。
「星のオーラを捧げるのは守護天使にとって最も誇らしい一時。それを経験するまでは一人前の天使とは言えないぞ。私も共に行くこととしよう」
「はい、師匠」
 辞去の挨拶をするべく部屋の主人を見ると、ラフェットは笑いを堪えすぎておかしな顔になっていた。
 一体何事かとユールが見守っていると、イザヤールが苦々しい面持ちで友人へ問いかけた。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「ぷ…くくく、あなたには無いけど…。ユール、お祝いを言わせて頂戴。おめでとう!厳しい修行を耐え抜いて、その若さで守護天使となった。あなたの持って生まれた力はそれだけ大きいということよ。頑張ってね」
「はい、ラフェット様!」
 元気良く返事をしたユールに、ラフェットも笑顔を返す。その笑みがだんだんと大きくなっていく。
「何たって、あのイザヤールが自分で選んで弟子を取った子だもの、余程の才能を見込んだのね…わざわざ…立ち会うくらい、ふふふ…」
 最後の方は、笑いにまぎれて良く聞き取れなかった。
 可愛らしくころころ笑うラフェットと、弟子を褒められたのに仏頂面のイザヤール。
 いつも生真面目な師が彼女の前では珍しく感情を露にするのも、いつも穏やかな司書長が彼の前では思わぬ毒舌を発揮するのも、長年培ってきた独特の関係性あってのことなのだろう。少々羨ましく思いながら、ユールは上級天使たちのやり取りを見守っていた。
「笑いすぎだ。顔がドロヌーバのようだぞ」
 女性に向かってドロヌーバはあんまりです!と一瞬喉まで出かかったが、ユールは何とか黙っていた。
「何よ。ゴードンヘッドに言われたくないわね」
 そっくりだ、言い得て妙だと、ユールは司書長のとっさの機転に思わず感心してしまった。
「ゴードッ…いや、邪魔をした。さあ、行くぞ。守護天使ユールよ」
 眉間にひときわ大きな皺を刻み込んだイザヤールは、大股に部屋を出て行った。
「あ、失礼いたします、ラフェット様!」
 執務机にお茶を置きながら、ばいばいと手を振っているアケトにも挨拶して、ユールは師の後を慌てて追いかけた。
「はいはい、行ってらっしゃい」
 ラフェットの明るい笑い声に見送られて、師弟は世界樹の元へ向かった。

 世界樹は天使界の最上部に高々と聳えている。むしろ、世界樹の根をぐるりと囲むように建物が作られている、と言った方が正しいかもしれない。
 天使界は人間界の遥か上空を気ままに漂っている。とても目視できないほどの高みにこのような建造物が浮いているなど、人間たちは夢にも思わないだろう。
 いつの日か人間たちが空を飛ぶ方法を見つけたら天使界のことが知られてしまうのだろうかと、ユールは考えたことがある。彼らの目に天使は見えないとしても、建物は目くらましの魔法か何かで隠さなくてはならないのでは、と。
 師にこの疑問をぶつけてみたところ、弟子の突飛な質問に面食らいながらも、
「そのような事態に陥ったら、この天視界が発見されるのも時間の問題。身を隠すか、人間と交わるか。どうすべきかは、天使たちにもさまざまな考えがあるだろう」
「人間と交わる?私が師匠や皆と接するように、人間とも仲良くするのですか?想像がつきません」
 人間と天使はあらゆる点で違っている。違うからこそ守護者・被守護者の関係が成り立つ。人間が天使の姿を見られない理由もそこにあるのだろう。
「天使と人間は異なる存在であるがゆえに、未知の存在であるがゆえに魅かれ合い、交わることもできる。そういう考え方もあるのだ」
「それは、違うもの同士で仲良くなったら面白いかも知れない、ということでしょうか」
 そういうことなのだろうな、と呟いた師の顔が常になく寂しげで、ユールは何となく遠慮してしまい、それ以上話を続けることができなかった。
 最上部へつながる外周通路は、ほとんどが階段だ。ひたすら上を目指して登ることになる。
 ユールは柵すらないへりとその向こうに広がる雲海に目をやった。そろそろ色づき始めた空とは不釣合いに黒い雲が出ている。
 先を行く師に並びながら、彼女は師に話しかけた。
「師匠、私たちは今どの辺りを漂っているのでしょう?」
「…何故そのようなことを聞く」
 目線だけを寄越し、イザヤールが問い返した。
「天候のせいだけとは思えないほど、下の雲が黒いのが気にかかります」
 とはいえ、上級天使といえども、天使界の位置を正確に把握できるわけではない。断言は出来ないがと前置きして、彼が答えた。
「先刻、我々が帰参した折、シュタイン湖の上空を漂っていたそうだ。風向きや天使界の移動速度を勘案するに…ルディアノ付近にいるのではないか?」
 大昔に滅んだ国の名を耳にして、ユールは何となく首筋が寒くなった。雲の黒さもより一層不気味さを増した気がする。
 こうして想像を膨らませて物事を大きく(時に小さく)してしまうのは、ユールの悪い癖だった。師から「事実に基づいて判断しろ」と幾度も注意を受けてきた。
(後で図書室でルディアノに関する本を読んでみよう)
 ユールのやることリストに、さらに項目が増えた。
 ほどなく、最上部へ続く大階段が目の前に現れた。この先に世界樹があるのだ。ユールは見習い時代に遠くから樹を見たことがあるだけなので、この階段を上がるのも初めてだ。
 師に促され、彼女は緊張の面持ちで一人、世界樹の根元へと向かった。

天使界

 雲を突き抜けて飛び、目の前に壮麗な石造りの建物が見えてくると、ユールは何故だかほっとしたような気分になる。夕暮れのウォルロ村と違い、天使界が漂っている地域はちょうど昼間なので、太陽に照らされた外壁や木々の緑が鮮やかに見える。
 時差ボケする天使というのは聞いた事はないが、あっちが夕方でこっちが真昼というのは、地上に降りて間もないユールにはまだ馴染めない感覚だった。
 世界を半周するくらい長く飛び続けていれば時間の経過にも納得いくのだろうが、地上との行き来は天使の術を用いるのでせいぜい数分程度。そもそも、上級天使でもない限り、一人で長く飛び続けることはできない。
「さあ、地上での出来事をオムイ様に報告して来るがよい。その星のオーラを捧げれば、私からの引継ぎは全て終了ということになる。私は別の用事があるゆえ長老の間へは同行せぬが、くれぐれも失礼のないようにな」
「はい、師匠」
 地上へのゲートの前で師と別れ、ユールは指示通りに長老の間へ向かうことにした。
 天使界の内部では、見習い天使は何かと行動を制限されている。修行の一環として、まだ未熟な見習いたちの保護として、細かいルールが決められているのだ。
 守護天使にならない限り、世界樹の根元に立ち入る機会など滅多にない。「星のオーラを捧げに行く師を見送るのも見習い天使のつとめ」という師の教えに従って、何回か外周で師の帰りを待ったことがあるユールは珍しい部類に入る。
 天使界はとにかく階段が多いが、彼女は師の教えにより、天使界にいる間は緊急時以外の飛行を禁じられている。師が旅立ってしまう前に、修行時代の禁止事項を解いてもらわねば。
 彼女が頭の中でやることリストに項目を書き加えながら歩いていると、目の前に商業区画が見えてきた。天使たちは人間のように貨幣のやり取りを行うわけではないが、食べ物や飲み物、衣服、書物など、一通りの生活雑貨がここで手に入るようになっているのだ。
 行き交う天使たちに挨拶をしつつ、師の使いで何度か立ち寄った雑貨屋を覗いたり、服屋の店頭に並べられた新作のローブに目移りしてみたり、ユールはしっかり寄り道していた。
(守護天使になったし、衣装を新調したいな…)
 ひょっとして、就任とともに新しい装備一式が支給されるのだろうか。あとで確認すべきことがまた一つ増えた。
 商業区画の端にある食堂は、ちょうど人がはけた時間帯なのか準備中のようだった。主人のトルクアムが店の戸口で荷を解いている。隣にいるのは、セントシュタインの守護天使ボルタスだ。
「こんにちは、マスター。ボルタス様」
 ユールの声に2人の男たちが振り向き、相好を崩す。
「お、ユールか。聞いたぞ、ウォルロの守護天使だってな!」
「さっそくオーラを集めてきたようだな」
「いいえ、まだ未熟で…師に見守られながらやっと、という状況です」
 謙遜するな、と2人に豪快に笑われてしまった。
「しかし、イザヤールの弟子が一人立ちか。あれが弟子を取ったと聞いた時は驚いたがな…もう何年前になるんだったか」
 何か子供が2人巣立っていく気分だよ、とトルクアムは泣き真似までしている。
「子供?イザヤールが聞いたら何と言うかな」
 ボルタスが茶化すと、たちまち深刻そうな顔を作ってトルクアムが言い返した。
「ここだけの話にしておいてくれないか、ボルタス。あいつに睨まれると怖いからな」
 トルクアムとボルタスはイザヤールと同世代の天使だ。だがトルクアムの方は天使としては変わり者で、十分すぎる能力がありながら守護天使にはならず、生来の料理好きを生かして天使界の隅で食堂を始めたのだった。
 当時それはそれは大騒ぎだったのだと、以前笑いながら彼が話してくれたことをユールは思い出した。
 トルクアムの作る人間界の食材を微妙にアレンジした料理の数々は天使界で瞬く間に評判となり、上は長老、下は飛行もおぼつかぬ見習い天使まで、幅広い客層を獲得している。
 ユールは、この店の特大プリンが大好物だった。甘い物とはまるで縁が無さそうな師匠が、来店する度に食べているのを見て影響された、とは、誰も知らない秘密なのだが。
「ユール。オーラのこと、長老に報告しに行くんだろう?用事が片付いたらここに寄れ。スペシャルメニューで祝ってやるから。プリン付きでな」
 ばちんと音がしそうなウインクとともに、トルクアムが言った。
 顎鬚といかつい体格のせいで熊みたいな外見の彼だが、意外と様になっている。
「わあ、ありがとうございます!」
「ははは、それじゃ行って来い。オーラを落とすなよ」
 トルクアムとボルタスに見送られ、商業地区を抜けた先にある階段を登る。
 天使界の中層は、外の光を採り入れるために、ところどころに窓が切ってある。その窓の近くで天使たちが瞑想に耽ったり修行をしているのが散見される。
 中層には長老の間の他に図書室が備えられており、賑やかな下層とは打って変わって静寂に包まれているため、修行にうってつけの環境なのだ。
 長老の間に程近い柱の傍に、何やら講義中らしき天使たちがいた。落ち着き払った壮年の男性と、少々やんちゃそうな少年。コルズラスとラエルの師弟だ。
 師の言葉を半分も聞いていなさそうな顔でぼんやり周囲に視線を投げていたラエルが、ユールの姿を認めて駆け寄ってきた。師の咎める声もどこ吹く風だ。
「ユール!お前、守護天使になったんだってな!?すげーよな!」
「ちょっ、ラエル!お師匠様のお話が途中だったんじゃないの?」
「いいのいいの。あとでまた聞くから」
「良いわけないだろうが、このバカ弟子め!」
 追いかけてきた師に首根っこを掴まれたラエルは、ひいいと縮み上がっている。
「コルズラス様。お邪魔してしまったみたいで、すみません」
「いや、そなたのせいではない。全く、我が弟子の集中力の欠如にはほとほと呆れ返る」
 苦虫を噛み潰したような顔と声だが、彼の目には暖かな光が見える。ユールは「手のかかる弟子ほど可愛い」という天使界のことわざを思い出した。
「なあなあ、それ星のオーラだろ?いいなあ、譲ってくれよ」
 ニタニタとラエルが迫ってきた。星のオーラに触ってみたいらしい。
「えーと、それはさすがに…」
「お、いいの?やったぁ!言ってみるもんだなぁ」
「こらっ!星のオーラはおもちゃではないのだぞ。他人に譲っていいものではない!」
 案の定、コルズラスの雷が落ちた。師に叱られて小さくなりながらも、ラエルはブツブツと何かを言っていた。
「チェッ。ユールが話に乗ってくるから、師匠に怒られちまったよ」
(いや、乗ってないし!)
 懲りない友人にため息をついたユールへ、コルズラスが声をかけた。
「ユール。星のオーラがどれほど大事なものか、お前も嫌というほど教え込まれたはずだ。天使界の中であっても不埒な輩がいないとも限らん。ゆめゆめ管理を怠ってはならぬぞ」
「はい、コルズラス様」
 その不埒な輩はあなたの弟子ですと思いつつ、ひとまずおとなしく注意を受け入れておくことにする。
 「さあ長老の間へ」と急かされて、挨拶もそこそこに師弟と別れ、ユールは長老の間へと向かった。
 ひときわ高い祭壇のような御座に、天使界の最長老にして全ての天使たちの頂点に立つ老人がちょこんと座っていた。髪も髭も真っ白で、未だに幼少の見習いに間違えられるユールと同じくらいの体型だが、その身に宿す力の程度を示す翼は、大きく立派だ。
 ユールは彼の前に進み出て、跪いた。
「天使ユール。地上より帰参いたしました」
「おお、よくぞ戻った。イザヤールの弟子ユールよ。守護天使として初めての役目、ご苦労じゃったな」
「恐れ入ります」
 オムイが立ち上がって彼女の方へ歩いてくる。大きな翼が重さを感じさせない動きで、ぱさりと小さく羽ばたいた。
「とはいえ…此度はイザヤールに同行してもらったのだったのう。じゃが、これからはそうではない!どうじゃ、一人でもやっていけそうかな?」
「はい…いえ、正直なところ、不安です」
 素直に心情を吐露した若き天使を咎めるでもなく、オムイは顎鬚を撫でながら、静かに目を閉じた。
「お前は今ようやく己が翼で空を舞い始めたばかり。その小さき体にかかる重圧は計り知れまい。じゃがの、ユールよ。一人立ちするということは、そういうことなのじゃ。お前の師も、地上で今なお人間たちの守護にあたっておる天使たちも、皆通ってきた道なのじゃ」
 オムイの言う通りだ。不安がっていても何も始まらない。ユールはオムイの目を見ながら、しっかりとした声で答えた。
「はい。私の全霊をかけて守護天使の任務を遂行すると誓います」
 オムイが一つ大きく頷いて、笑顔になる。
「では、そんなユールに次の役目を与えるとしよう。地上でお前は星のオーラを手に入れたはず。次にお前が成すべきは、世界樹にそれを捧げることじゃ。樹はやがて育ち、その実を結ぶであろう。さあ、守護天使ユールよ。世界樹の元へ向かうのだ」