2010年6月14日月曜日

見習い守護天使

 天使界の最下層にある「ゲート」。
 一段低くなったフロア中央に星型に仕切られた区画がある。そこは普段白くふわふわした光に覆われているが、光が薄くなっている所から青空が見える。
 師に何度咎められても、ゆらゆらと変化する眺めが好きで、小さな翼を持つ少女は暇さえあればゲートを覗き込んでいた。今も縁に座り込んで、落ちそうなくらい身を乗り出している。
「ウォルロ村の守護天使となるであろう、ユールよ」
「あ…はい、師匠」
「不心得な弟子が今ここから落ちても、私は拾いには行かぬぞ」
 彼女の側にいたゲートの守人は、毎度お馴染みとなった師弟のやり取りに苦笑いだ。
「無許可の見習い天使は、下へ落ちる前にゲートの光に弾かれますのでご安心を。イザヤール殿」
「これはもう、無許可の見習いではないのでな」
「では、とうとうユールが守護天使に?おめでとうございます!」
「いや…まだ完全に職権を移行したわけではない。今のユールはゲートを抜けられるが、自力では戻れぬのだ」
 イザヤールが発した、回りくどい呼びかけの理由がやっと分かった。妙な所で律儀な師がおかしくて、ユールの顔は自然と笑顔になる。
 確かに今ここでうっかり地上へと転落し、今までの修行のしめくくりに師の手を煩わせるのもどうかと思われ、ユールは自分を見下ろす師へと向き直った。頬は緩んだままだ。
 何を笑っているのか、と咎めるように師の眉根が寄ったが、いつもの小言は降ってこなかった。
 見習い天使は居住区以外での単独行動を禁じられている。何かの間違いで幼い天使が下界に落ちぬよう、ゲートには強力な結界が張られているのだ。
 ゲートを抜ける許可が下りたということは、一人で自由に地上を行き来できるということ。
 つまり、守護天使として赴任する最後の準備が整ったということだった。
 支度はできたか、との師の問いに、しっかりと頷く。ユールはこれから守護天使として地上に降り、師の任地であるウォルロ村の守護を担うのだ。
 守護天使となる者は200~300歳前後が大半で、彼女の150歳での就任は、過去に例がないわけではなかったが若すぎると判断されるに充分なものだった。ましてや年齢の割りに体も翼も小さい彼女は、師であるイザヤールと離れて一人でいると、弟子入り前の年少組に間違えられることもしばしばだった。
 守護天使の役目は、人間の生活を見守り、支えること。人間たちの天使への感謝の念が結集した「星のオーラ」を集めることだった。
 イザヤールの後を追ってゲートを抜けると、ユールの目の前は一瞬にして青く染まる。どんどん小さくなる師に遅れぬように飛び続けていると、徐々に陸地らしきものが見えてくる。
 初めは黒、それから白や緑や茶色。地形の見分けが付く頃には、ウォルロ村まであと少し、というところにまで来ていた。
 師が翼を広げて制動をかけ、ユールもそれに倣ってスピードを落とす。ちょうど村全体が見渡せる辺りに彼らは留まっていた。
「ユールよ。これより最後の引継ぎを行う。儀式を終えれば、村の守護は完全にお前に移譲されることとなる。まあ、儀式といっても大仰なものではないが、生半可な覚悟では痛い目を見ることになろう」
「はい、師匠。覚悟はできています」
「よろしい。では、始めるとしよう。儀式のやり方については後で教える」
 そう言って、イザヤールが右手を村に向けてかざし、短い呪文を唱えた。
 すると、村をぐるりと囲むように光の輪が出現した。
「ユールよ、右手をあの輪にかざすのだ」
「はい」
 言われた通り、ユールは光に向けて手をかざした。すると、輪と思われていたものが天使の力で紡がれた文字の連なりであり、一箇所だけ明滅している部分が師の名であることが分かった。
 す、と静かに師が手を下ろした。同時に、明滅していた光の文字がユールの名へと形を変えた。
 驚いて、傍らの師を見上げたが、そのまま続けよと諭されてしまった。
 光の輪から自身の手に流れ込む力は重く、圧倒的な質量を持ってユールを押し潰そうとする。彼女はたまらず手を引っ込めたくなったが、師の許しなしにそんなことは出来ない。我慢して、輪と対峙し続ける。
「輪に向けて、戻れと念じてみよ」
 随分長いこと輪を凝視していた気がするが、実際はわずかな間だったのだろう。
 冷静さを保ったイザヤールの指示に何か心強いものを感じながら、ユールは輪に向けて思い切り強く念を発した。
 光の輪はゆっくりと回りながら、大地に吸い込まれるようにして消えた。重苦しいほどだった圧迫感から解放され、少女は思わずため息をついてしまう。
「重かったであろう。ウォルロ村の守護天使、ユールよ」
 師が訥々と語る。
「あれが、この村の重みなのだ。長きに渡る歳月の中で、この村の人間たちが歩いてきた歴史なのだ」
「ウォルロ村の歴史…。師匠、ラフェット様の管理されている歴史書の記述とは、違うように思いました」
「ラフェットの書物は、我々天使が、天使の目で観察し記したもの。起きた事柄に対する我々と人間の距離感の違いというものが、その差を生み出しているのだろう。さあ、天使像の所へ行くぞ。動けるか?」
「はい、師匠。大丈夫です」
 少々ふらつきながら、ユールは師と共に、天使像の元へと向かった。
 ウォルロ村の天使像は、記憶にあるより小さく見える、というか、明らかに小さくなっていた。
 先程の引継ぎの儀式で、最も顕著な影響を受けていたのが、この天使像だった。
「像がこんなに縮んでしまって、誰か気づく人間はいないのでしょうか」
 儀式のやり方を説明してもらいながら恐る恐る尋ねる弟子に、イザヤールも珍しく言いづらそうに答えた。
「む…。明らかに像の大きさが違うから、お前が心配するのも無理はない。記憶の操作はかなり強力な呪力によるものだが、きっかけ次第で記憶の断片を取り戻してしまう人間もいる。…まあ、その者が以前の天使はユールではなかったと触れ回った所で、それを信じる者がいない中ではどうすることもできんだろう。じき、その者も天使の交代のことを忘れていくはずだ」
 以前の半分くらいの大きさになってしまった天使像は、今はユールの姿を模している。
 台座の名前も、きちんと彼女のものになっている。
「師匠。では、私がこの先成長して、背も翼も大きくなったら…」
「それでも像はこのままだ。だいたい石像なのに背が伸びでもしたら、人間たちが騒ぎ出すではないか」
 弟子の期待を無情にも打ち切った師に、ユールはむっとして言い返す。
「では、前の天使像は、若かりし日の師匠だったんですね。そうと知っていればもっとよく見ておいたのに」
「何か言いたいことがあるのなら聞こうではないか。ウォルロ村の守護天使ユールよ」
「いいえ、何でもありません。何でも」
 今日に限ってなかなか解放してくれない師に焦り、ユールはにっこり笑って誤魔化そうとしたが、付き合いの長い相手には通用しなかった。
「大方、いずれ取る弟子の前で示しがつかんとでも考えているのだろうが、今の時点でその体格なら、数百年経っても変わらんように思うがな」
「うう、ひどいです師匠。今でも体が小さくて苦労しているというのに」
「何がひどいものか。天使の能力に体の大小は関係ないぞ、オムイ様を見習うのだ」
 天使界一高齢の、長老オムイの名を出されては、弟子も引き下がるしかなかった。
 気を取り直して、ユールは教わった手順を再度確認しておくことにする。守護天使として赴任する自分と、任地を持たず各地を巡るイザヤールでは、今後会う機会がほとんど無いだろうから。
「天使ユールよ」
 師の声も聞き納めかと思うと、何ということもない呼びかけが途端に惜しくなってくる。
「我が弟子として100年、よく頑張ったな。私に代わり、この村の守護天使を任せることになった時は少々不安ではあったが…お前の働きにより、これから村人たちも安心して暮らしていくことだろう」
「師匠…今日までありがとうございました。独り立ちしたとはいえ、まだまだ未熟な点も多いかと思います。これからもご指導ご鞭撻をよろしくお願い致します」
「そう謙遜するな。これからはウォルロ村の守護天使ユールと呼ばせてもらうぞ」
 ちょっと長すぎませんかそれ、と言いたいのを堪えつつ、ユールは師と共に再び上空へ飛び立った。
 夕暮れに色づく村の風景は平和と暖かさに満ちていて、災いなどかけらも感じさせない。
 と。杖をついた老人を支えるようにゆっくりと村の外を歩いている少女が目に入った。
 何となく気になって目で追っているのに、師も気づいたようだ。
「あれは…宿屋の娘と祖父だな。散歩の帰りといったところだろう」
「彼らが無事に入口までたどり着くよう、見守ってきます」
 ユールは小さい翼を羽ばたかせ、二人の元へと急いだ。
 村の入口にほど近い茂みに、水色と緑色の魔物が2匹隠れていた。スライムとズッキーニャ。歩いてくる人間たちの様子をチラチラと伺っている。老人と少女は気づいていない。
「魔物です!師匠、このままでは」
「あの人間たちが襲われてしまうだろう…さあ、ウォルロ村の守護天使ユールよ。我らの使命を果たす時だ!」
 天使たちは携えた剣を抜き放ち、魔物たちの元へ急いだ。
 地上に暮らす動物や魔物は、天使の姿を見ることができる。突然現れた天使に、魔物たちは目を丸くしてギャギャギャと騒いでいる。
 とりあえず、人間たちからこちらに目を向けさせることに成功したようだ。
「ここは人里。お前たちの来るところではない!去れ!」
 師の一喝にスライムは身を震わせていたが、ズッキーニャは獲物を諦めるつもりがないようで、手にした棒で殴りかかってきた。
 イザヤールは難なくズッキーニャの攻撃を受け流す。体ごとはじかれたズッキーニャは、仰向けに倒れたところを己の棒で刺し貫かれ、悲鳴を上げて息絶えた。
 ユールは飛び掛ってきたスライムに何度か噛み付かれながらも、銅の剣で叩きのめした。
 守護天使になったのだから、もうちょっと切れ味の良い剣を支給してもらおう。そうユールは思った。
 体格の問題で、彼女は長剣を扱えないけれど。
 魔物を退治した天使たちが一息ついたところで「やれやれ年は取りたくないもんじゃ」という老人ののんびりした呟きが聞こえてきた。
 人間たちが、騒ぎに気づかないまま村へ入るところだった。
「ほら!村に着いたよ、おじいちゃん」
「おお…もう無理かと諦めかけたが、何とか帰ってこれたのう」
「もう、おじいちゃんたら!」
 少女は老人の背を優しくさすりつつ、空を見上げた。
「でも、これもきっと守護天使さまのおかげだよね。道中お守り下さってありがとうございます、守護天使ユールさま」
 少女はそっと目を閉じ、両手を組んで祈りを捧げた。隣の老人もそれに倣う。
「さ、家に帰ろ!」
「おうおう、今日の夕飯は何かのう…」
 家路へと向かう人間たちの後に、小さな光が残されていた。
 触れるとほのかに暖かい青白く光る塊。星のオーラだ。
「いつも思うのですが、星のオーラのこの心地よい暖かさは何なのでしょう。人間たちにありがとうと言われるたびに、同じように私たちの心も温かくなります」
「星のオーラは、人間たちの我らへの感謝の心が結晶となったものだが、この感謝という一方的な行為によって、不思議なことに人間も天使も共に力を得る。星のオーラを集めるために天使は存在する。しかし我らとて木石ではない。それは単純に嬉しいということなのであろう」
「確かに、集めるたびに嬉しくなるものなら、もっと集めたくなりますね」
「そういうことだ。さて、ウォルロ村の守護天使ユールよ。せっかく星のオーラを手にしたのだ。ひとまず天使界へ戻るとしよう」
 律儀に守護天使云々と呼称する師の生真面目さに、ユールは思わず苦笑した。自分も「元ウォルロ村の守護天使である上級天使イザヤールさま」とでも呼んだ方がいいのかと、ちらと考えた。
 考えただけで実行に移すつもりはない。それでは呼称が長いだけで、敬っている感じが全然しない。
 呼称の問題はひとまず棚上げにし、ユールは師の後について天使界へ戻った。