2010年7月1日木曜日

天使のつとめ

 ――女神の果実が実る時、神の国への道は開かれ、天使は永遠の救いを得る。
 果実が実れば天使たちは役目から解放され、神の国へ帰れるという、天使界の伝承だ。果実を実らせるために、これまで数多くの天使たちが数え切れないほどの星のオーラを捧げてきた。
 星のオーラを受け入れて神々しいまでに眩く輝く樹を、ユールはただただ見上げることしかできなかった。
 全ての天使たちをその枝葉の内に包み込み、癒し、守っている世界樹の力。あまりに大きく、あまりに深く、ちっぽけな天使であるユールでは、とても全てを見切れない。
 言葉もなく佇んでいる弟子に、イザヤールが声をかけた。
「どうだ、ウォルロ村の守護天使ユールよ。星のオーラを捧げられた世界樹は、実に美しいだろう。人間たちからオーラを受け取り、世界樹に捧げる…これこそが我ら天使のつとめ。お前の今後に期待しているぞ」
「はい、師匠。我が全霊をかけて、ウォルロの守護に尽くします」
「うむ」
 イザヤールが表情をきっと引き締め、弟子の目から視線を逸らさず、重々しく切り出した。
「ところで、ウォルロ村の守護天使ユールよ。ふと思ったのだが、やはりいちいちウォルロ何某と呼ぶのは少々面倒だった。これからは時折そう呼ぶとしよう。それで、よいな?」
 どこまでも生真面目な師の、意外なほど素直な理由に、ユールはたまらず笑顔になった。
 こっそり弟子の呼称を変えても誰も気付かないだろうに。この場合、「こっそり」という部分が師の真面目な性格に引っかかるのだろうが。
「はい、お好きなようにお呼び下さい」
 よろしい、と師が目で頷きを返してきた。弟子が課題を指示通りに完璧にこなした時に見せてくれる顔だ。
「さあ、オムイ様の元へ行き、無事に役目を果たしたことを報告するがよいぞ。私はこれからすぐ地上へ降りる。息災でな」
「あ、師匠!天使界での飛行の許可を頂きたいのですが…」
 言うだけ言ってさっさと歩き出そうとした師を、彼女は慌てて呼び止めた。
 彼も思い切り忘れていたらしく慌てて解除してくれたが、「翼に頼りきり、足腰の鍛錬を怠ってはならぬぞ」としっかり釘を刺してきた。日々是鍛錬が師のモットーなのだ。
「守護天使ユールよ。汝に星々の加護があらんことを」
 大きな手でぽむと弟子の頭を一撫でし、師が祈りを口にした。
「師匠にも、星々の加護がありますように」
 師の瞳をまっすぐに見て、弟子も祈りの言葉を返した。
 先に立って階段を下りていく彼に道を譲る。いつものようにその背を見送る。
 何もかもがいつも通りなので、ユールは何だか笑いそうになった。
 拍子抜けするくらいあっさりした巣立ちに、まだ感情が付いていっていないのだろう。

 翼を使えば、文字通り一飛びに移動ができる。
 ユールは長老に報告を済ませ、トルクアムの店へと急いだ。スペシャルメニュー、スペシャルメニューと呪文のように唱えながら店のドアをくぐると、笑顔の主人自らが出迎えてくれた。
 彼に高い高いをされて天井に頭を打ちそうになり、ユールの笑いが悲鳴に変わる。すまんすまんと笑いながら謝る主人に「手加減してやれよー」とボルタスが気怠げに声をかけた。カウンターに一人腰掛け、背中を丸めて酒をちびちび呷っている。
 野菜シチューのパイ包みや焼きたてもちもちパンなど、ユールの大好物が食卓に並ぶ。ボルタスのおごりでジュースも飲み放題ときて、彼女は旺盛な食欲を見せた。
「ちっこいのに良く食うなぁ」
 とは、カウンターから移動してきて隣に座り、酒を飲んでいるボルタスの言である。
「ユール。人間界はどうだった?」
 空になった皿を片付けながら、トルクアムが尋ねる。
「平和で、あったかくて。あと賑やかでした!」
「賑やか?人間たちの祭でもあったのか?」
「いえ…人間たちがとても一生懸命生きていて。人間はちょっとしたケガや病気ですぐ死んでしまうけれど、何と言うか…守りたいと思いました。私の力でどれだけのことができるか分からないけれど、自分にできる精一杯で、人間たちを守りたいです」
 年若い天使の言葉に、トルクアムがニヤリと笑みを浮かべる。
「いやぁ、人間は結構しぶといぞ?特に女はな」
「お前何やったんだ。天使のくせに」
 ボルタスの呟きに「昔の話さ」と軽く返して、彼はおかわりのパンをユールの皿に載せた。
「さて、新米守護天使はこう言ってるが、先輩として何か一言あるか、ボルタス?」
 話を振られた酔っ払いは腕を組んでしばらく唸っていたが、
「む…俺も最初の頃はそう思ってたさ。でもな。ってか、聞いてくれよ!」
 突然がばっとボルタスに詰め寄られ、パンをかじったままユールは目を見開く。こらこら子供に絡むなと、主人が肩を叩いて酔っ払いを宥めてくれた。
「俺だって魔物を倒したりいろいろ頑張ってるんだぜ。なのにウチの街の連中と来たら、これっぽっちも守護天使さまに感謝してくれねえんだよ。本当に人間たちを見守ってやる必要があるのか、はなはだ疑問だな」
 言い終えると、手にしたコップの中身を一息に飲み干した。
「人間なぞ守ってやる必要はない、か…。いずれそういう時代が来るのかも知れないな」
 トルクアムが感慨深げに呟いた。空になったコップを振っておかわりを催促しながら、据わった目でボルタスが続ける。
「何か暗~い話になっちまったが、俺たち天使は人間には見えない、見えないものは無いのと同じだと、連中は思ってるんだぜ」
「じゃあ、明日から私たちがいなくなったとしても、人間たちは誰も気付かないんでしょうか」
 先輩のコップに酒をついでやりながら、ユールが言った。それにトルクアムが答える。
「それはどうかな。確かに人間たちは我々の姿を見ることができない。にもかかわらず、人間たちの中には天使の存在を信じる者がいる。…どうしてだと思う?」
 彼女が酒瓶を持ったまま考え込んでいたら、酔っ払いに瓶をひったくられてしまった。
「えーと…、姿は見えなくても何となく守られているなぁと感じてくれているからではないでしょうか。ボルタス様の毎日の頑張りだって、感じ取っている人間がいますよ絶対!」
「まあ、そう思わねーとやってられねえよな…」
 じとっとした目で後輩をを見やり、ボルタスが大きくため息をついた。その後輩もつられてため息だ。
 そんな2人に、トルクアムがやれやれといった顔で首を振る。課題を何度も間違えた時、師がちょうどこんな仕草をしていたなぁ、とユールは思い出した。
「おいおい、見守ると守るは違うんだぞ。例えばこのサラダだ。いつもお仕事ご苦労様と、俺がちびトマトを乗っけてやったのに、こちらの酔いどれ守護天使様は愚痴りついでにヘタまで完食なされた」
 空になった皿を指差しながら、トルクアムがしかめっ面をした。
「言われてみれば、何か乗ってた気がするなぁ」
「気付かなかったんですかっ」
 ごにょごにょ言っている守護天使たちの頭を、トルクアムがガッシリ掴んだ。そのまま力を込めてくるので、結構痛い。
「守護天使の仕事は確かにキツイ。まあ、見守る側の俺としては、美味いメシを食って元気に働いてきてくれと、精一杯の思いを込めるだけだな。それが相手に伝わる方が稀なんじゃないのかね」
 伝わっていない見本がほら目の前に、と、彼がサラダの皿をひらひらさせる。
「マスター。あんたの秘めたる思いに気付いてやれず、誠に申し訳ない」
 居住まいを正し、大仰な仕草でボルタスが頭を下げた。
「さあ、今こそオトコのセキニンを果たすべき時です!頑張って下さい、ボルタス様っ」
「待てチビ、何の話だ!」
 おかしな応援を繰り出す後輩と、オタオタ慌てる先輩。どちらも守護天使の姿としてはみっともなく褒められたものではない。
「ははは!イザヤールは弟子を面白おかしく育てたな!」
「本人は至って真面目だったと思うがな…」
 大笑いのトルクアムは、ぐったりしたボルタスとキョトンとするユールを残し、奥へ引っ込んでいった。
「しかし、イザヤールもあれで意外に弟子思いなんだな」
 俯けていた顔を上げ、ボルタスが言った。指でユールのほっぺたをつつきながら。
「お前の初めての世界樹との対面を見守るなんて、相当甘いと思うぞ」
 俺の師は立ち会ったりしなかった、だそうである。
「弟子が離れた寂しさで、今頃一人で泣いてたりしてなぁ」
「いやそんなまさか…っていだだだ!」
 ほっぺたの肉をつままれてぐいーと伸ばされた。よく伸びて面白いのだそうだ。勘弁して欲しい。
「一人といえば、これからアイツはどうするつもりなんだ?」
「何でも、決まった任地を持たないで各地を回るおつもりのようです」
「は~、何だってまたそんな苦労を背負い込むようなマネをするのかねぇ…」
「苦労ではないんだろうさ。本人にとっては」
 奥に下がったトルクアムが出てきた。彼の持つ大皿の上には、こぼれんばかりの特大プリンがふるふる揺れていた。
「それってあの、戻らなかっ」
「ところでボルタス、そろそろセントシュタインに帰った方がいいんじゃないのか?相棒が待ってるぞ。ああ、何だったらユールも一緒に連れて行け。通り道だろう」 
 そうだなと、幾分バツが悪そうにボルタスが答えた。言いかけた言葉を失言と考えているようだった。
 理由を尋ねようとしたユールの前にプリンを差し出し、トルクアムが言った。
「イザヤールの手を離れて、一人で地上に赴くのはさぞ不安だろうな。だが、失敗したところで誰が見ているわけでもないのだ。気にしないでガンガン行くといいぞ」
 自分にできる限りのことをやればいい。カンタンだ。
 巨大なプリンに取り掛かりながら、早くもユールの心は地上での任務へと飛んでいた。

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