2010年7月1日木曜日

師匠と弟子

 長老の間を辞し、世界樹の元へ向かおうとして、ユールはハタと気付いた。
 この天使界において、見習い天使は世界樹がある高層への立ち入りを含め、何かと行動を制限されている。守護天使就任と共にその禁足は解かれているのかもしれないが、行ってみてダメでしたでは格好がつかない。
「あ、ユールー!」
「アケト!」
 ちょうど図書室の入口から出てきた幼い少女が、ユールの名を呼びながら手を振っている。
 アケトは司書長ラフェットの弟子だ。師匠同士の仲が良いと弟子も仲良しなのは、天使界ではよくあることだった。師匠ぐるみ、弟子ぐるみのお付き合いというやつだ。
 2人で合同修行することも多々あったので、彼女はユールにとっては師に次いで身近な存在だった。
「長老さまとお話ししてきたの?これから世界樹のところへ行くの?」
 外見相応に舌足らずな物言いが可愛らしいアケトは、守護天使就任のこと、星のオーラのことなどを質問攻めにしてくる。
「ユール、世界樹のところに入れるの?見習い天使は一人で入っちゃダメなのよ?」
 今、最も切実な疑問がこれだ。ユールは首をかしげながら、友の問いに答える。
「うーん、どうなんだろう。師匠は何も言っていなかったし、何も言わないってことは問題ないってことだと思うんだけど…」
「うーん、どうなんだろうねー」
 ユールとは逆の方向に、アケトも傾いている。体ごと、斜めに。
「あ!それじゃあ、ご本人に聞いてみたらいいと思うなー」
 一息に姿勢を正して、アケトがユールの手を取ってぶんぶん振る。ユールは驚いて聞き返した。
「師匠がここに来てるの?」
「うん、うちのお師匠さまとお話してるのー」
 今のところは仲良しよ、と付け加えた友人に、ユールは思わず吹き出した。
 その昔、イザヤールとラフェットの喧嘩は天使界名物と言われるくらい頻発していたらしい。喧嘩といっても嫌い合ってするのではなく、人間界で言うところの「どつき漫才」的な意味合いが強いものだったようだ。
 今はお互い性格が丸くなったのか(何しろ500歳を越えなんとする上級天使だ)、ケンカ友達として往時の武勇伝が時折ひょっこり顔を出す程度となっている。
 喧嘩中の師は普段の生真面目さが吹き飛んで大層面白いので、ユールなどはこっそり楽しみにしているくらいである
 友人に手を引かれ、ユールは図書室に入り、本棚の間をすり抜けながら進んでいった。人間界だけでなく天使界で起こった出来事全てを記録し管理している図書室には、天井に届かんばかりに高い本棚が林立し、ぎっしりと本が並べられている。幅広の背表紙には金銀をふんだんに使った重厚な装丁が施されていた。
 体の小さい彼女たちにとっては、隙間無く本が並べられた棚というよりむしろ壁だ。しかし、採光を十分に考慮した室内は暖かな光に包まれていて、不思議と息苦しい感じはしなかった。
 司書長室の前まで来た2人は、中から聞こえてくる話し声に顔を見合わせた。静寂を旨とする図書室において、部屋の外まで漏れるほどの声というのは滅多にあることではない。立ち聞きするつもりはなかったが、声の主と話の内容が気になる。
「驚いたわよ、ユールがもう守護天使になるなんて!あなた良く許したものね」
 思わぬ所で自分の名が出て、ユールは驚いた。その脇腹をアケトがつつく。
「違うのだ、ラフェット。私はまだ早いと反対したのだ。それをオムイ様が…」 
「あはは…そんなことだろうと思ったわ」
「笑い事ではない!あれはまだ未熟だ。人間界で何かあったらどうする!君はエルギオスの悲劇のことを忘れたのか!?」
 いつもの喧嘩と違うみたいね、と小声でアケトが呟き、ユールも頷いた。
 弟子の身を真摯に案じている師の姿に、何やら落ち着かないものを覚える。
「あの方の悲劇はもちろん忘れてないわよ。でもね」
「ウォルロ村の守護天使ユールよ!いつからそこにいた!?」
 言いかけたラフェットの言葉を断ち切り、イザヤールが突然戸口に向かって声を発した。
 気付かれてしまった。厳しい声に思わず身が竦む。アケトなどは涙目になってしまっている。
 部屋の扉がうっすら開いており、その隙間から様子を見ようとするあまり、彼女たちは扉に近づきすぎていたらしい。
「そんな怖い声を出さないの。2人とも、中にいらっしゃい」
 壁一面に作りつけられた本棚を背に、温和な雰囲気の女性天使が座っていた。長い赤毛をゆるく三つ編みにして垂らし、眼鏡をかけている。レンズの奥の瞳はいたずらっぽく輝いていた。相対するイザヤールの仏頂面と反比例するかのように。
「こんにちは、ラフェット様。我が師イザヤールに質問があって参りました」
 ラフェットは鷹揚にユールの挨拶を受け、傍らのアケトにお茶を淹れてくれるよう頼んだ。
「あらあら何かしらね。ちゃんと引継ぎしてないんじゃないの、イザヤール?」
「うるさいぞラフェット。…どうした、何事かあったのか?」
 世界樹がある高層への出入りは、やはり守護天使就任と同時に許可されているとのことだった。
 早速向かおうとしたユールは師に呼び止められた。
「星のオーラを捧げるのは守護天使にとって最も誇らしい一時。それを経験するまでは一人前の天使とは言えないぞ。私も共に行くこととしよう」
「はい、師匠」
 辞去の挨拶をするべく部屋の主人を見ると、ラフェットは笑いを堪えすぎておかしな顔になっていた。
 一体何事かとユールが見守っていると、イザヤールが苦々しい面持ちで友人へ問いかけた。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「ぷ…くくく、あなたには無いけど…。ユール、お祝いを言わせて頂戴。おめでとう!厳しい修行を耐え抜いて、その若さで守護天使となった。あなたの持って生まれた力はそれだけ大きいということよ。頑張ってね」
「はい、ラフェット様!」
 元気良く返事をしたユールに、ラフェットも笑顔を返す。その笑みがだんだんと大きくなっていく。
「何たって、あのイザヤールが自分で選んで弟子を取った子だもの、余程の才能を見込んだのね…わざわざ…立ち会うくらい、ふふふ…」
 最後の方は、笑いにまぎれて良く聞き取れなかった。
 可愛らしくころころ笑うラフェットと、弟子を褒められたのに仏頂面のイザヤール。
 いつも生真面目な師が彼女の前では珍しく感情を露にするのも、いつも穏やかな司書長が彼の前では思わぬ毒舌を発揮するのも、長年培ってきた独特の関係性あってのことなのだろう。少々羨ましく思いながら、ユールは上級天使たちのやり取りを見守っていた。
「笑いすぎだ。顔がドロヌーバのようだぞ」
 女性に向かってドロヌーバはあんまりです!と一瞬喉まで出かかったが、ユールは何とか黙っていた。
「何よ。ゴードンヘッドに言われたくないわね」
 そっくりだ、言い得て妙だと、ユールは司書長のとっさの機転に思わず感心してしまった。
「ゴードッ…いや、邪魔をした。さあ、行くぞ。守護天使ユールよ」
 眉間にひときわ大きな皺を刻み込んだイザヤールは、大股に部屋を出て行った。
「あ、失礼いたします、ラフェット様!」
 執務机にお茶を置きながら、ばいばいと手を振っているアケトにも挨拶して、ユールは師の後を慌てて追いかけた。
「はいはい、行ってらっしゃい」
 ラフェットの明るい笑い声に見送られて、師弟は世界樹の元へ向かった。

 世界樹は天使界の最上部に高々と聳えている。むしろ、世界樹の根をぐるりと囲むように建物が作られている、と言った方が正しいかもしれない。
 天使界は人間界の遥か上空を気ままに漂っている。とても目視できないほどの高みにこのような建造物が浮いているなど、人間たちは夢にも思わないだろう。
 いつの日か人間たちが空を飛ぶ方法を見つけたら天使界のことが知られてしまうのだろうかと、ユールは考えたことがある。彼らの目に天使は見えないとしても、建物は目くらましの魔法か何かで隠さなくてはならないのでは、と。
 師にこの疑問をぶつけてみたところ、弟子の突飛な質問に面食らいながらも、
「そのような事態に陥ったら、この天視界が発見されるのも時間の問題。身を隠すか、人間と交わるか。どうすべきかは、天使たちにもさまざまな考えがあるだろう」
「人間と交わる?私が師匠や皆と接するように、人間とも仲良くするのですか?想像がつきません」
 人間と天使はあらゆる点で違っている。違うからこそ守護者・被守護者の関係が成り立つ。人間が天使の姿を見られない理由もそこにあるのだろう。
「天使と人間は異なる存在であるがゆえに、未知の存在であるがゆえに魅かれ合い、交わることもできる。そういう考え方もあるのだ」
「それは、違うもの同士で仲良くなったら面白いかも知れない、ということでしょうか」
 そういうことなのだろうな、と呟いた師の顔が常になく寂しげで、ユールは何となく遠慮してしまい、それ以上話を続けることができなかった。
 最上部へつながる外周通路は、ほとんどが階段だ。ひたすら上を目指して登ることになる。
 ユールは柵すらないへりとその向こうに広がる雲海に目をやった。そろそろ色づき始めた空とは不釣合いに黒い雲が出ている。
 先を行く師に並びながら、彼女は師に話しかけた。
「師匠、私たちは今どの辺りを漂っているのでしょう?」
「…何故そのようなことを聞く」
 目線だけを寄越し、イザヤールが問い返した。
「天候のせいだけとは思えないほど、下の雲が黒いのが気にかかります」
 とはいえ、上級天使といえども、天使界の位置を正確に把握できるわけではない。断言は出来ないがと前置きして、彼が答えた。
「先刻、我々が帰参した折、シュタイン湖の上空を漂っていたそうだ。風向きや天使界の移動速度を勘案するに…ルディアノ付近にいるのではないか?」
 大昔に滅んだ国の名を耳にして、ユールは何となく首筋が寒くなった。雲の黒さもより一層不気味さを増した気がする。
 こうして想像を膨らませて物事を大きく(時に小さく)してしまうのは、ユールの悪い癖だった。師から「事実に基づいて判断しろ」と幾度も注意を受けてきた。
(後で図書室でルディアノに関する本を読んでみよう)
 ユールのやることリストに、さらに項目が増えた。
 ほどなく、最上部へ続く大階段が目の前に現れた。この先に世界樹があるのだ。ユールは見習い時代に遠くから樹を見たことがあるだけなので、この階段を上がるのも初めてだ。
 師に促され、彼女は緊張の面持ちで一人、世界樹の根元へと向かった。

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