2010年7月14日水曜日

初仕事

 犬が吠えている。
 よろず屋の裏手をうろうろと嗅ぎ回りながら、わんわんと吠えている。
 ときおり通りかかる村人に怒られたり撫でられたりしても、犬はずっと吠え続けている。
 就任一ヶ月目の新米守護天使であるユールは、見回りのためにウォルロ村上空を旋回していたが、この犬がふと気になって降りてみることにした。
 頭上の光輪の力によって、人間には天使の姿は見えないが、動物たちは姿を見ることができる。舞い降りた彼女に気付いた犬が、わん!と一声吠えて駆け寄ってきた。
 ユールはその薄茶色の毛並みを撫でてやった。もし近くに人間がいたら、犬が何もない中空に向かってじゃれていると思うところだ。
 興奮気味に吠えたり手を舐めたりしていた犬が、ユールの服の飾り布を引っ張り始めた。手加減なしの全力だったので、彼女は思わずよろけてしまう。
 自分の足元と彼女の顔を何度も見比べて、犬がまたわん!と吠えた。
「何か…あるの?」
 ユールは膝をつき、犬が盛んに気にしている辺りを探ってみた。
 柔らかい草の絨毯に埋もれるようにして、銀色の指輪が落ちていた。内側に文字が彫ってある。2人の人間の名前と、今より数十年も前の日付。刻まれた名前に見覚えがあった。
「落とし物を届けようとしてくれてたんだね」
 えらいえらい、とユールがまた頭を撫でると、嬉しそうに犬がわん!と吠えた。
 彼女はひとしきり犬を構ってから、落とし主を探すべく再び空へと舞い上がった。
 指輪の名前の片方は、滝のほとりの一軒家で家族と暮らしている老女のものだった。一昨年に夫を亡くし、それ以来毎日欠かさず教会へお祈りに行っている。
 今の時間なら教会にいるはずだった。ユールは教会の鐘楼に舞い降り、扉をすり抜けて中に入った。
 午後の半端な時間帯とあって、一番前のベンチに小さな老女が一人座っているだけだった。うなだれているので、彼女の顔は見えない。
 時折呟く独り言によれば、彼女は亡き夫の形見の指輪を落としたことで、相当落ち込んでいるようだった。
(早く安心させてあげないと…)
 ユールは老女の足元に指輪を置いた。床板と金属が触れ合う微かな音が、思いの外大きく教会内に響く。
 その音で悄然としていた老女は我に返り、床に「落ちている」指輪に気付いた。たちまち笑顔になる。
 何度も何度もユールの名を呼びながら頭を下げ、感謝の祈りを口にしている。すると、彼女の座っていた辺りに光が集まっていき、小さな球体となった。そのままふよふよと漂っている。
 星のオーラだ。ユールはそれを両手ですくい上げる。彼女の手のひらに吸い込まれるようにして、オーラは消えた。
 ウォルロのような辺境の村では、魔物の襲撃や人間たちの揉め事などは滅多に起こらない。守護天使の仕事は、おおむねこのような感じでのんびり進むのが常だった。
 聖具室で夕飯の献立に悩んでいた神父の耳元で「とりにくのシチュー、とりにくのシチュー…」と囁いて念を送ったりしつつ、ユールは外の見回りに戻った。
 晴れた日のウォルロ村の午後を、人々は思い思いに過ごしていた。ちょっと困っていそうな村人がいればすぐ助けに入れるよう、守護天使は目配り、気配りを欠かさない。
 カウンンターで帳簿を眺めて満足そうに微笑む宿屋の娘と一緒ににっこりし(まだ若い主人だが、経営は順調なようだ)、井戸端会議に興じるご婦人方から村内の最新情報を聞き出し(主に立ち聞き)、天使像について村長の息子が意外な観察眼を披露するのを苦笑いで見守ったり(彼は天使像の変化をうっすらと感じ取っていた)。
 馬小屋で居眠りしていた青年の代わりに厩舎の掃除を済ませて感謝され、もう一つ星のオーラを回収できたのは日没間近だった。
(そういえば、幽霊が出るって噂があったっけ。夜になったら会えるかな?)
 未練を残して死んだ人間たちは、幽霊となってさまよい歩くことがある。そうした死者を放っておくと負の感情を引き寄せ、怪異の原因となる場合があるので、すみやかに昇天させてやらなくてはならない。
 昇天の術式を師から教わっていると言っても、ユールは実際に幽霊の相手をした経験はなかった。
 あまり駄々をこねない幽霊だといいな、と思いながら、彼女は暗くなり始めた村の中を歩き回ることにする。空から幽霊は見えないので、翼を使わず足で歩き回るほうが確実なのだ。
 小川のほとりで、おばさんが積み上げた食器を前にぷりぷり怒っていた。
「ごはんが美味しいのはあたしの料理の腕が良いからさ。ベッドが暖かいのは昼間あたしが布団を干しといたからだよッ。全く、守護天使様じゃなく、ちょっとはあたしにも感謝してほしいもんだね!」
 食器を叩き割らんばかりの勢いで、がしがし洗っている。ユールは洗い終わった食器の山へ、加減して小さく出した風の魔法をかけてお手伝いをした。
 水気を拭っていないのに乾いている食器に、「最近あったかくなってきたから…かねぇ?」とおばさんは首をかしげながら家へと戻っていく。お疲れ様です、と守護天使はその背中を労いを込めて見送った。
 村の奥の橋を渡ると、宿屋の娘の家の前に村長の息子が佇んでいるのが見えた。夜遅くまで仕事をしていた少女を気遣って、家まで送ってきたのだろう。
 寒気がすると言ってぶるっと肩をすくめる少年の背後に、涙目の大男が立っていた。尋常でないほど青白い顔色をしているので、大男の方が寒そうに見えた。
 彼の胸の辺りに、背後の家のドアが透けて見えている。普通の人間なら、体の向こう側が透けて見えたりしないはずだ。
 村長のドラ息子と村では散々な評判の彼だが、天使像の件と言い、ユールは彼の秘められた可能性を感じずにはいられなかった。
「すみませーん。えーと…そこの幽霊さん。ちょっとお話聞かせてもらってもいいですかー?」
 村長の息子が橋を渡ったのを確認してから、ユールは幽霊に話しかけた。
 彼女の声が聞こえた途端、大男の目から涙がぼろぼろ零れ落ちた。
 彼が泣き止むまで宥めながら、ユールはとりあえず話を聞いてやることにする。
「何で皆オレのこと無視するんだろうって思ってた…。オレは一体どうなっちまったんだ?あんたは何でオレのことが見えるんだ?何か羽根が生えてるし、でも魔物っぽくないよなぁ。ちっこいし…」
「魔物ではありません。私は、天使なのですよ」
 ちっこい云々は追求せず、噛んで含めるように告げると、大男の目がまん丸になった。
「天使?あのおとぎ話の…?ってことは、あんたはオレを迎えに来たのか?オレ、死んじゃってるのか?」
「ええ、残念ながら」
「もしかしたらって思ってたけど、ホントなんだな…ははは。あ、そういや傷が治ってらぁ。こないだ、でっかい魔物にぶん殴られて気絶して、近くに村があったから休もうと思ったら、誰もオレに気付いてくれなくて。ホントに辛かったんだ…」
「ええ、大変でしたね…。でももう大丈夫ですよ。私に、全て任せて下さい」
 また涙ぐむ男の腕を優しく叩き、ユールは言った。本当は相手の肩を叩きたい所だが、背が足りないので仕方がない。
 彼の言う「こないだ」は半年前だったのだが、死者は生者の時の流れに疎くなる。彼の中で死してさまよっていた時間は体感的にはそれくらいなのだろう。それでも、周囲の人間皆に無視される辛さは、察するに余りある。
 ありがとうと涙を零しながら昇天していく大男を見上げて、ユールは彼の魂が安らかであるよう祈った。
 大男が立っていた辺りに、おなじみの小さな光が一つ。ユールは本日3つ目の星のオーラを回収した。

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