2010年7月1日木曜日

天使界

 雲を突き抜けて飛び、目の前に壮麗な石造りの建物が見えてくると、ユールは何故だかほっとしたような気分になる。夕暮れのウォルロ村と違い、天使界が漂っている地域はちょうど昼間なので、太陽に照らされた外壁や木々の緑が鮮やかに見える。
 時差ボケする天使というのは聞いた事はないが、あっちが夕方でこっちが真昼というのは、地上に降りて間もないユールにはまだ馴染めない感覚だった。
 世界を半周するくらい長く飛び続けていれば時間の経過にも納得いくのだろうが、地上との行き来は天使の術を用いるのでせいぜい数分程度。そもそも、上級天使でもない限り、一人で長く飛び続けることはできない。
「さあ、地上での出来事をオムイ様に報告して来るがよい。その星のオーラを捧げれば、私からの引継ぎは全て終了ということになる。私は別の用事があるゆえ長老の間へは同行せぬが、くれぐれも失礼のないようにな」
「はい、師匠」
 地上へのゲートの前で師と別れ、ユールは指示通りに長老の間へ向かうことにした。
 天使界の内部では、見習い天使は何かと行動を制限されている。修行の一環として、まだ未熟な見習いたちの保護として、細かいルールが決められているのだ。
 守護天使にならない限り、世界樹の根元に立ち入る機会など滅多にない。「星のオーラを捧げに行く師を見送るのも見習い天使のつとめ」という師の教えに従って、何回か外周で師の帰りを待ったことがあるユールは珍しい部類に入る。
 天使界はとにかく階段が多いが、彼女は師の教えにより、天使界にいる間は緊急時以外の飛行を禁じられている。師が旅立ってしまう前に、修行時代の禁止事項を解いてもらわねば。
 彼女が頭の中でやることリストに項目を書き加えながら歩いていると、目の前に商業区画が見えてきた。天使たちは人間のように貨幣のやり取りを行うわけではないが、食べ物や飲み物、衣服、書物など、一通りの生活雑貨がここで手に入るようになっているのだ。
 行き交う天使たちに挨拶をしつつ、師の使いで何度か立ち寄った雑貨屋を覗いたり、服屋の店頭に並べられた新作のローブに目移りしてみたり、ユールはしっかり寄り道していた。
(守護天使になったし、衣装を新調したいな…)
 ひょっとして、就任とともに新しい装備一式が支給されるのだろうか。あとで確認すべきことがまた一つ増えた。
 商業区画の端にある食堂は、ちょうど人がはけた時間帯なのか準備中のようだった。主人のトルクアムが店の戸口で荷を解いている。隣にいるのは、セントシュタインの守護天使ボルタスだ。
「こんにちは、マスター。ボルタス様」
 ユールの声に2人の男たちが振り向き、相好を崩す。
「お、ユールか。聞いたぞ、ウォルロの守護天使だってな!」
「さっそくオーラを集めてきたようだな」
「いいえ、まだ未熟で…師に見守られながらやっと、という状況です」
 謙遜するな、と2人に豪快に笑われてしまった。
「しかし、イザヤールの弟子が一人立ちか。あれが弟子を取ったと聞いた時は驚いたがな…もう何年前になるんだったか」
 何か子供が2人巣立っていく気分だよ、とトルクアムは泣き真似までしている。
「子供?イザヤールが聞いたら何と言うかな」
 ボルタスが茶化すと、たちまち深刻そうな顔を作ってトルクアムが言い返した。
「ここだけの話にしておいてくれないか、ボルタス。あいつに睨まれると怖いからな」
 トルクアムとボルタスはイザヤールと同世代の天使だ。だがトルクアムの方は天使としては変わり者で、十分すぎる能力がありながら守護天使にはならず、生来の料理好きを生かして天使界の隅で食堂を始めたのだった。
 当時それはそれは大騒ぎだったのだと、以前笑いながら彼が話してくれたことをユールは思い出した。
 トルクアムの作る人間界の食材を微妙にアレンジした料理の数々は天使界で瞬く間に評判となり、上は長老、下は飛行もおぼつかぬ見習い天使まで、幅広い客層を獲得している。
 ユールは、この店の特大プリンが大好物だった。甘い物とはまるで縁が無さそうな師匠が、来店する度に食べているのを見て影響された、とは、誰も知らない秘密なのだが。
「ユール。オーラのこと、長老に報告しに行くんだろう?用事が片付いたらここに寄れ。スペシャルメニューで祝ってやるから。プリン付きでな」
 ばちんと音がしそうなウインクとともに、トルクアムが言った。
 顎鬚といかつい体格のせいで熊みたいな外見の彼だが、意外と様になっている。
「わあ、ありがとうございます!」
「ははは、それじゃ行って来い。オーラを落とすなよ」
 トルクアムとボルタスに見送られ、商業地区を抜けた先にある階段を登る。
 天使界の中層は、外の光を採り入れるために、ところどころに窓が切ってある。その窓の近くで天使たちが瞑想に耽ったり修行をしているのが散見される。
 中層には長老の間の他に図書室が備えられており、賑やかな下層とは打って変わって静寂に包まれているため、修行にうってつけの環境なのだ。
 長老の間に程近い柱の傍に、何やら講義中らしき天使たちがいた。落ち着き払った壮年の男性と、少々やんちゃそうな少年。コルズラスとラエルの師弟だ。
 師の言葉を半分も聞いていなさそうな顔でぼんやり周囲に視線を投げていたラエルが、ユールの姿を認めて駆け寄ってきた。師の咎める声もどこ吹く風だ。
「ユール!お前、守護天使になったんだってな!?すげーよな!」
「ちょっ、ラエル!お師匠様のお話が途中だったんじゃないの?」
「いいのいいの。あとでまた聞くから」
「良いわけないだろうが、このバカ弟子め!」
 追いかけてきた師に首根っこを掴まれたラエルは、ひいいと縮み上がっている。
「コルズラス様。お邪魔してしまったみたいで、すみません」
「いや、そなたのせいではない。全く、我が弟子の集中力の欠如にはほとほと呆れ返る」
 苦虫を噛み潰したような顔と声だが、彼の目には暖かな光が見える。ユールは「手のかかる弟子ほど可愛い」という天使界のことわざを思い出した。
「なあなあ、それ星のオーラだろ?いいなあ、譲ってくれよ」
 ニタニタとラエルが迫ってきた。星のオーラに触ってみたいらしい。
「えーと、それはさすがに…」
「お、いいの?やったぁ!言ってみるもんだなぁ」
「こらっ!星のオーラはおもちゃではないのだぞ。他人に譲っていいものではない!」
 案の定、コルズラスの雷が落ちた。師に叱られて小さくなりながらも、ラエルはブツブツと何かを言っていた。
「チェッ。ユールが話に乗ってくるから、師匠に怒られちまったよ」
(いや、乗ってないし!)
 懲りない友人にため息をついたユールへ、コルズラスが声をかけた。
「ユール。星のオーラがどれほど大事なものか、お前も嫌というほど教え込まれたはずだ。天使界の中であっても不埒な輩がいないとも限らん。ゆめゆめ管理を怠ってはならぬぞ」
「はい、コルズラス様」
 その不埒な輩はあなたの弟子ですと思いつつ、ひとまずおとなしく注意を受け入れておくことにする。
 「さあ長老の間へ」と急かされて、挨拶もそこそこに師弟と別れ、ユールは長老の間へと向かった。
 ひときわ高い祭壇のような御座に、天使界の最長老にして全ての天使たちの頂点に立つ老人がちょこんと座っていた。髪も髭も真っ白で、未だに幼少の見習いに間違えられるユールと同じくらいの体型だが、その身に宿す力の程度を示す翼は、大きく立派だ。
 ユールは彼の前に進み出て、跪いた。
「天使ユール。地上より帰参いたしました」
「おお、よくぞ戻った。イザヤールの弟子ユールよ。守護天使として初めての役目、ご苦労じゃったな」
「恐れ入ります」
 オムイが立ち上がって彼女の方へ歩いてくる。大きな翼が重さを感じさせない動きで、ぱさりと小さく羽ばたいた。
「とはいえ…此度はイザヤールに同行してもらったのだったのう。じゃが、これからはそうではない!どうじゃ、一人でもやっていけそうかな?」
「はい…いえ、正直なところ、不安です」
 素直に心情を吐露した若き天使を咎めるでもなく、オムイは顎鬚を撫でながら、静かに目を閉じた。
「お前は今ようやく己が翼で空を舞い始めたばかり。その小さき体にかかる重圧は計り知れまい。じゃがの、ユールよ。一人立ちするということは、そういうことなのじゃ。お前の師も、地上で今なお人間たちの守護にあたっておる天使たちも、皆通ってきた道なのじゃ」
 オムイの言う通りだ。不安がっていても何も始まらない。ユールはオムイの目を見ながら、しっかりとした声で答えた。
「はい。私の全霊をかけて守護天使の任務を遂行すると誓います」
 オムイが一つ大きく頷いて、笑顔になる。
「では、そんなユールに次の役目を与えるとしよう。地上でお前は星のオーラを手に入れたはず。次にお前が成すべきは、世界樹にそれを捧げることじゃ。樹はやがて育ち、その実を結ぶであろう。さあ、守護天使ユールよ。世界樹の元へ向かうのだ」

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