セントシュタインを騒がせていた黒騎士の一件は、「旅芸人ユールの勇敢なる働き」により円満解決に至った。
その勇敢なる旅芸人は、朝の混雑が収まった酒場で、ぐったりとテーブルに伏していた。
黒騎士騒動のあおりで閉鎖されていた北東の関所が再開し、物や人の行き来が盛んになってきた。この街にも大地震前の人々の暮らしが戻ってきつつある。
さらに、すっかり街の英雄になってしまった「旅芸人ユール」に会いに、リッカの宿屋を訪れる客が後を絶たない。その応対と近頃とみに忙しくなったリッカの手伝いで、ユールはすっかり疲れきっていた。
「英雄って、私だけじゃないんですが…」
フィオーネ姫と共にルディアノから戻ったあの日。登城しようと城門まで来たところで、アスラムとメルフィナが「今度こそ堅苦しいのはごめんだ」と行方をくらまし、セラパレスにも「長く留守にした店が心配だから」と置いていかれ、結局ユールはサンディと2人きりで国王に謁見することとなった。
あれよあれよと彼女は救国の英雄として祭り上げられ、宴につぐ宴で数日帰してもらえなかった。
初日の宴が終わった後、またしてもフィオーネ姫に拉致されたユールは、あるものを探しに単身ルディアノ城の探索に出かけた。
本当はフィオーネ自ら出向きたかったようだが、今回の無断外出で父王の厳しい叱責を受けたばかり。しばらくは大人しくしているつもりのようだった。
「ユールさまがエラフィタへ向かわれた後、全てお任せしたのにどうしてもじっとしていられなくて、わたくしもエラフィタに行こうとキメラの翼を使ったのです。けれど、何故かあの広間の扉の前に立っていたのですわ。護衛の者たちも皆驚いていました」
宴の最終日の午後は久々に晴天に恵まれた。フィオーネ姫は自室のテラスでユールのみを招いて小さなお茶会を開いた。
姫は彼女がルディアノから持ち帰った品々を愛しげに撫でた。対面に座したユールは、いささか無作法に茶菓子と紅茶をせっせと消費している。サンディなどは宴の料理を食べすぎてベッドから出られずにいるのだが、彼女にとって宴の料理とお菓子は入る所が違うらしい。
「そちらの本はメリア姫の手記のようですが、ボロボロで中身がほとんど読めません。本にはさんだ紙の方は、比較的状態がマシなものです。筆跡からして男性のもの、おそらくレオコーンさんがメリア姫に宛てた手紙かと…」
ユールはルディアノ城のメリア姫の部屋から日記と手紙を持ち出したのだ。フィオーネ姫は手紙をそっと開いた。
「何と書いてありますの?」
「ええと…。姫のお気持ち、大変嬉しく思います。しかし私は、魔女討伐の任を果たさねばならぬ身ゆえ、どうかそれまでお待ち下さい。私の心は、いつでも姫と共に。…以上です。便箋に黒い薔薇の紋章があしらわれています」
ほう、と息をつく姫の手から、ユールは本を受け取り、壊さぬようにそっと開いた。
「それと、本のこのページですが…。黒薔薇の騎士よ。私は行きます。遠い異国の地へ。あなたのことを忘れたのではありません。ルディアノの血が絶えぬ限り…私は、あなたを…いつか…」
ページが破れ、文字がかすれて読めなくなっている本を、ところどころユールは訳した。
「ユールさま。メリア姫の夫君、セントシュタイン9世の時代について、我が国には何一つ記録が残されていないのです」
伝わっているのは、王家の系図に記された王と妻子の名前のみと聞いて、ユールは驚いた。
「何一つですか?王家だけでなく民の残したであろう記録すら残っていないなんて、そんなことが可能なのでしょうか…」
「覚えていらして?わたくしがレオコーンさまと踊った時に身につけていた首飾りを。あれは、遠い異国より我が国に嫁いできた姫が愛用していたものだと、王家の女性たちの間で伝わっているものなのです」
「メリア姫のお部屋にあった肖像画に、確かに赤い首飾りが描かれていました!」
「ああ!では、やはり…」
しばし心を落ち着かせ、手紙を本に挟み込みながら、ゆっくりとフィオーネ姫が話し始めた。
「わたくしの身に流れるこの血が、わたくしをあの場所へ導いたのだと思います。長い年月で故国も歴史も無くなってしまったけれど…この品々は、メリア姫とレオコーンさまが確かに生きていた証なのですね」
言い終え、静かに涙を流す姫に、ユールは言った。
「人の思いは残るのです。何年かかっても、どんな形になっても、伝えたかった人にいずれ伝わるのですよ」
(伝わるよう手助けするのが守護天使の務め…でしょうか、師匠)
ユールは紅茶のカップを置き、テラスから城下の風景を眺めた。
サンディによれば、街中星のオーラで溢れているらしいが、相変わらず彼女はオーラが見えないままだ。
セントシュタインの天使像も変化はなく、唯一収穫と呼べるのは、峠の道に転がっている天の箱舟がユールの存在に微妙に反応したことくらいだ。
星のオーラの輝きが天使界からも見えていれば、何らかの変化があってしかるべき、というサンディの言に従い、彼女たちは宴の最中にこっそり城を抜け出したのだ。
「あんなに頑張ったのに成果これだけとかマジ有り得ないんですケド!」
箱舟からの帰り道。サンディは不遜にも神を疑う発言をくり返して愚痴っていたが、ユールとしては今出来ることをただこなしていくのみだ。
「人間界、なかなか面白いかもしれません」
楽しげに笑うユールを、不気味なものでも見るような目でサンディが見た。
数日にわたる城での宴が終わり、久しぶりに宿へ戻った彼女をリッカたちが温かく出迎えてくれたが、
「オツトメご苦労様です英雄殿。ちなみに薬の調合は店長、ラッピングはメルが担当だ」
というアスラムの手紙つきの胃薬を渡され(本人は魔物討伐で不在)、ユールはむくれながら笑った。
かように忙しい毎日を過ごすユールに、2つの新たな出会いがあった。
まず、宿のカウンターの端に腰掛けてじっと動かない女性、ラヴィエル。
髪も肌も白く、頭上に光輪、背に大きな翼を持ち、風変わりな装束を身につけている。その装飾はどことなく天使界のものを思い出させた。
そして、彼女の体は青く透けており、宿のカウンターなどという目立つ場所にいるのに人間たちは誰も気づかない。
地上において人間は天使の姿を見ることはできないが、同じく天使であるユールの目にさえ体が透けて見えるのは、本来ありえぬことだった。
彼女は地上をさまよう幽霊たちとも違う、異質な気配を醸し出しているのだ。正邪の判別も怪しい存在である。
ロビーを通るたびに彼女のことが気になっていたユールだったが、ある晩、ようやく2人だけで話す機会を得た。
「こんばんは。はじめまして。ユールと申します」
「私はラヴィエルだ。よろしく」
ラヴィエルの低い声は穏やかだが、どこか背筋が伸びるような生真面目さもある。
そして、沈黙が落ちた。まさかいきなり「あなたは天使ですか、それ以外のものですか」とも聞けない。
ユールの躊躇いを見て取ったラヴィエルがふと口元を綻ばせる。
「安心するといい、私も君と同じ天使だ。私はここで別の世界へと続く扉を管理している。君が望むなら、いつでも扉を開こう」
「あの…今は別の世界より、天使界へ一刻も早く帰りたいのですが」
「そうか。君の方もいろいろあったようだからな」
ええ本当に、とユールは頷いた。やっと同胞に会えた喜びが湧き上がってくるが、彼女は何とか自身を保ち、続けた。
「ラヴィエル様。もしよろしければ、天使界へ帰参した折に、私のことをオムイ様にお伝え願えませんでしょうか?」
「様とは大仰だな。ラヴィエルで構わない。…ユール、私には扉の管理という役目がある。この地を離れることはできないんだ。力になれず、すまないな」
「いえ、そんな…!この地上で初めて私以外の天使に会えたのです。どんなに嬉しいことか…ラヴィエルさん、またここにお話をしに来てもよろしいですか?別の世界のことも伺いたいですし」
いつでも、と控えめな笑みと共にラヴィエルが言った。
その直後、夜勤のリッカに夜更かしを咎められ、話はお開きになったのだが、ユールはそれから毎晩ラヴィエルに会いに行った。
彼女は天使だと言うこと以外自分のことを話さなかったが、別の世界のことについてはユールが仕組みを飲み込むまで丁寧に説明してくれた。
「ここに3枚の皿がある。それぞれ1年前の世界、現在の世界、1年後の世界としよう」
ユールが夜食に持ち込んだおやつの皿を指し、ラヴィエルが言った。
「そしてこの赤い飴玉が君だ。君は現在の世界の皿にいて、別の世界へ行くために私の元を訪ねる。しかし、いつでも別の世界へ旅立てるわけではないんだ。この両隣の皿から…別の世界から呼ばれて初めて旅立つことができる」
「でも、私は別の世界に知り合いなどおりませんから、呼ばれようがありませんよ」
「君の方から呼べばいい。1年前、1年後の世界にいる誰かをな。呼びかけに応えてやってきた誰かと共に旅をし、友好を深め、今度は君が別の世界へ呼ばれて出かけて行く、というわけだ」
「普通の人間がホイホイ世界を移動できちゃうってワケ?それって相当ヤバくね?」
3枚の皿の間でユールに見立てた飴玉を往復させながら、サンディが言った。ユール以外の天使に興味を覚えたと言って同席しているのだ。
「ラヴィエルさんの姿が見えないと、そもそも旅人になれませんから、普通の人間には無理なのでは?」
「じゃー、この人すっごくヒマしてるってコト?」
「サンディ!失礼なことを言わないで下さい、もう!」
2人のやり取りに、ラヴィエルが苦笑いで首を振った。
「ここでは便宜上3枚の皿ということにしているが、実際はさまざまな時間軸で進む世界が無数に存在しているんだ。それぞれの世界で旅人が現れ、望む世界へ旅立っていく。彼らを導くのが私の務めだ」
壮大な話に想像が追いつかなくなりながら、ユールがうっとりと言った。
「いつか…私もいつか別の世界へ行ってみたいです」
「まず天使界に戻ってからだね」
サンディが飴玉のユールをぱくりと頬張りながら言った。
次に、リッカが物置の整理中に発掘した錬金釜、カマエル。
どうして釜に名前がついているかというと、本人(本釜?)が自ら名乗ったからである。
錬金釜は四足で、丸っこい胴体に羽根がついている。愛嬌のある形を気に入ったリッカが「縁起物」としてカウンターに置いたその夜、ロビーにやって来たユールは釜がいびきをかいて居眠りしているのに気づいてしまった。
幸か不幸か、周囲にはラヴィエルと彼女以外誰もいない。
「お客さーん、こんな所で寝てると風邪を引きますよー」
ぱんぱんと、ユールが釜の横っ腹を叩いた所、
「…ハッ!ね、寝てません!わたくしは寝てなどおりませんよ!」
釜が喋った。やや上ずってはいるが十分にダンディな低音で、早口に。
とにかく人目の無い所へ、と、ユールは釜を抱えて従業員控え室へ駆け込んだ。
そろそろ日付の変わる刻限である。住み込みの従業員たちは各自で配置についているか自室に引き上げており、人の出入りはほとんど無い。内緒話にはうってつけの場所なのだ。
無人の控え室で、ユールは釜と向き合った。渋い声に似合わず饒舌な錬金釜のカマエルは、パタパタと蓋と羽根を動かしながら己の身の上を語った。
アイテムとアイテムを掛け合わせてより優れたアイテムを生み出す奇跡の術・錬金。彼はその術を行うための特別な釜なのだと言う。
錬金のやり方は簡単で、カマエルの蓋を開け、中にアイテムを入れるだけ。材料の大きさや重さは考えなくてよいそうだ。さすが奇跡の釜である。
ユールは試しに薬草を3個カマエルの中に入れてみたが、ポンと蓋が開いて薬草が手元に戻ってきてしまった。どうやら錬金失敗らしいのだが、どこがどうダメだったのか、彼は言ってくれない。
(これは、メルフィナさんやセラパレスさんに相談した方がいいかもしれない)
ユールは彼女を「お嬢様」と呼ぶカマエルと四方山話をしつつ、控え室で夜明けを待った。
「あれ?ユール、錬金釜こっちに持ってきちゃったの?」
夜が明けきらぬ内に、おはようと控え室に顔を出したリッカが、開口一番ユールに問いかけた。
さすがに「この釜、喋るし動くんです」とは言えず、ユールは曖昧に笑って誤魔化した。
「ここの図書室でこの釜の使い方が何か分かったっぽくて、いろいろ試していたんです」
「そっか、飾っておくだけじゃ勿体無いもんね!あ、でもここ火気厳禁だから気をつけてね、ユール」
「わ、わたくしも、火あぶりは嫌でございます、お嬢様っ…」
声を潤ませて訴えるカマエルを撫でながら、ここで煮炊きはしないとユールは約束した。
今後、アイテムの調合を行うのに、カウンターでは何かと差し障りがある。特に置き場所に拘りは無いらしいリッカの了承を得て、錬金釜のカマエルは従業員控え室の片隅でその力を発揮することとなった。
2011年10月15日土曜日
ルディアノ
ユールたちがエラフィタ北の森に踏み込んで4日が過ぎた。
森の木々はびっしりと葉を茂らせているが、不思議なことに、葉も幹も自然界にはありえない腐ったような色をしている。
地表は所々ぬかるみ、水の溜まりやすい窪みなどは、魔物の死骸から出た毒で汚染され、うかつに踏み込めない沼地になっている。
そして、瘴気とも霊気ともつかぬ紫の霧が常に立ち込め、気まぐれに視界を奪う。
エラフィタの村人たちはここを「滅びの森」と呼んで近寄らないため、道を知る者も当然ない。
ユールたちはルディアノがあるとおぼしき北の方角を目指してはいるのだが、日の光すら差さぬ深い森に阻まれて、未だに手がかり一つ掴めぬ有様だった。
「さすが、滅びの森ですね」
倒木をまたいで避けつつ、ユールが言った。
「黒騎士が俺たちと一緒に行ってくれれば、こんなとこを無駄に歩き回らなくて済んだんだがな」
「彼、元地元民ですものね。…現、かしら。まだ」
「いくらレオコーンさんでも、これだけ景色が様変わりしていたら道案内ができたかどうか」
年月の隔たりと記憶喪失が重なった彼の当惑ぶりは察して余りある、とユールは思った。
黒騎士レオコーンは、自分のことががわらべ歌となるほど年月が経過していることにかなり動揺していた。
話もそこそこに故郷を目指して走り去ってしまったのだ。「止める間もなかった」とは、その場にいたユールとアスラムの言である。
「騎馬で通った痕跡でも残っていればと思ったんだが、この地形ではそれも絶望的だ」
セラパレスが足元に目をやり、言った。ブーツは泥と何か不穏な色をしたぬめりでドロドロだ。
「蹄の跡を発見して追ってみたら、マッドオックスのねぐらでしたしね」
「それでも、森の入口付近には人の手で整備された道が残っていたわ。やはりこの先にルディアノがあったと考えて間違いないでしょう」
北へ進む内に、乾いた地面を探すのが難しくなってきた。だんだん地面どころか木立も無くなり、4人は一面ぐずぐずの沼地を行く羽目になってしまった。
足場の悪さもそれなりだが何より臭気が凄まじい。4人は極力沼の縁を辿るようにして、陸地を、道を探して歩き続けた。
「全員どくどくヘドロになるのが先か、ルディアノが見つかるのが先か…」
「その前に、この沼一周しちまうだろ」
果てなく続く沼地に気が遠くなりかけていたユールを、サンディの声が呼び戻した。
「お?じめんー!地面だよユール!」
彼女の言う通り、ちょうど馬一頭が通れるほどの道が黒々とした森の奥へ続いていた。
進んでいくと、やがて苔むして緑の壁となった石垣が現れた。大小さまざまな石垣が点在し、また濃くなってきた霧の中でぼんやりとその姿を浮かび上がらせている。
「これは…」
「どうやら無事に着いたようだな」
沼地を抜けてようやくたどりついたルディアノの地。
奥に進むにつれて石垣だと思っていたものが、元は家具だったり部屋の名残りだということが分かってきた。
「ここは街だったのでしょうか」
「敷地の広さから見て、ルディアノの王宮だったのだろう。しかし、一体どういう壊され方をしたのか。このあたりは壁がごっそり無くなっている」
セラパレスが周囲を見回した。壁はおろかドアも天井も無い。広場か庭園かと勘違いしそうなほど広々とした場所だった。床に転がる家具やタペストリーの残骸が、ここが元は室内だったのだと示すのみ。
横倒しになり扉が半開きになったクローゼットの中には、少々手直しすればまだ着られそうなドレスが残されたままだ。
「ここまで来るようなガッツのある盗賊はいないだろ。ただ、魔物にしちゃあ仕事が丁寧すぎるな」
ドレスを手に取り、ひらひらさせながら、アスラムが言った。
敷地の奥まった所に錬金術師の墓標があった。たった一つの墓標というのが不自然だ、とセラパレスが不審がっていたが、お参りを済ませた4人は黙々とルディアノの探索を続けた。遠い昔、確かにここで人々が暮らしていた痕跡を目にするたび、ユールはたまらない気持ちになった。
ほどなく、彼らは次なる問題に出くわすこととなった。
「このお城。いくら壊れてたって一階平屋建てってコトはないでしょ?もっと何かあるんじゃないの?つーか、黒騎士はドコよ」
サンディに言われ、ユールはハタと我に返った。
王宮の中心部はめちゃめちゃに壊れているが、城壁を兼ねた外縁部の回廊はほぼ無傷で残されている。左右に伸びる回廊の先には楼閣が見えた。
回廊の入口をアスラムが見つけたが、脆そうな見かけに反して扉はびくともしない。
「この扉に強い魔力を感じるわ」
「解けそうか?」
「ダメね。この扉の術式は現代のものとまるで違うもの」
「ルディアノの人々の間で独自に編み出された魔法なのでしょうね」
メルフィナとユールは頷きあった。天使界で一通りの魔法を修めた守護天使であっても、解除の糸口すら掴めなかった。
「じゃあさー、あのいかにも王様の住まいっぽい建物目指してよじ登るってのは?」
「いいですね!サンディ、ひとっ飛びして様子を見てきて下さいよ」
「イヤよ!か弱いアタシに何てコトさせんのよ!…って、痛いんですケド!」
言うだけ言って非協力的なサンディを、ユールは無言でデコピンした。
結局、塀の隙間から王宮の内部へと入ったユールたちは、床にあいた大穴を迂回しつつ進む間、暗がりに身を潜めていた魔物たちに幾度となく襲われた。
外ではついぞ見かけぬ異形のものたち。うかつに魔物に触れてしまうと皮膚が爛れ、ひどい目眩に立っていられなくなってしまう。
死霊の群れを退けた後、アスラムとユールは近くの瓦礫に腰掛け、セラパレスの作った毒消しをもぐもぐしながら休憩していた。先頭に立って敵を蹴散らす彼らは消耗が激しい。
「この穴も魔物の仕業、なのかねえ」
「穴から遠い所は部屋ごと綺麗に残ってるんですものね。本棚もベッドもそのまま」
それから彼らは厨房、兵士の詰め所、図書室を抜け、階段を上がった。
そこは、まっすぐに伸びる薄暗い廊下の中程だった。壁をくりぬいて作られた燭台に、メルフィナがぽつぽつと火を灯していく。
「…静かに。何か聞こえないか?」
セラパレスの言葉に、サンディとユールは同時に首をかしげた。しばらくそのまま待っていると、かすかな気配、あるかなきかの風のようなものが一瞬駆け抜けたのが彼女たちにも分かった。
4人は無言で目を見交わし、足音を忍ばせ、廊下を右に進んだ。つきあたりの階段を下りると、誰かの話し声がはっきりと聞こえてきた。甲高く甘やかな女の声。レオコーンの話す古語と同じ響きだった。
四方を柱に囲まれた部屋は広く、おそらくルディアノ王の謁見の間。柱の隙間から中を覗くと、かつて国王が座していただろう玉座の金、少々色褪せてはいるが部屋中央に堂々と敷かれた絨毯の赤、その中をひらひらと踊る黒い影が見て取れた。
「イシュダル、貴様…!」
搾り出すような苦々しい声。それはレオコーンのものだった。
「貴様の呪いが解け、私は全てを思い出した…。私は貴様を討つべく、このルディアノ城を飛び出し…」
「そして私に破れ、永遠の口づけを交わした…。あなたと私は数百年もの間、闇の世界で2人きり。あなたは私の下僕となった…そうでしょ?レオコーン」
ころころと楽しげに恐ろしげな内容を語る女はイシュダルというらしい。ユールが中の状況を通訳すると、仲間たちの顔に緊張が走った。
再び呪いをかけてやろうと近づいたイシュダルに、激昂したレオコーンが気合とともに飛び掛ったが、激しい雷撃の返り討ちに遭い、彼は倒れこんでしまった。
説明不要の緊急事態に、ユールが通訳をすっ飛ばして号令をかけた。
「レオコーンさんを助けます!」
「…あー、行く前にホイミくれホイミ。限界だ…」
「お前は…っ!何故前もって言わない!?」
「もうちょっと落ち着いてから、と思ってたんだが。思わぬ急展開にこっちもびっくりだ」
「今まで静かだったあなたにびっくりですよ!ああ、アスラムさん、顔が真っ青ですよ、大丈夫ですか!」
「いいから、早く回復なさい」
黒騎士を救うため、ユールたちがどたどたと謁見の間に駆け込むと、今まさに止めを刺そうとしていた女が鋭い声で誰何する。蝙蝠のように肉薄の翼が一つ大きくはばたいた。
青ざめた女の肌は艶かしく、背を流れる髪も凍てつくような紫色をしているが、その身に纏うドレスとカッと見開かれた目は、滴る生き血さながらに赤かった。
色を失ってなお肉感的なイシュダルの唇がニィッと笑みを作った。
「あんたたち、まさかレオコーンを助けようってんじゃないだろうね?ククク…馬鹿ねえ。身の程知らずな子たちだこと。いいわよ、私のとびっきりの呪いをかけてあげる!!」
イシュダルが手をひらめかせ、先程レオコーンを打ち倒したものより大きな雷撃を放った。ユールは怯むことなくその前に身を躍らせた。
「おいチビ!下がれ」
「ユール!」
仲間たちが口々に彼女の名を呼ぶ。
「大丈夫です!…邪悪なる妖女よ、そのような呪いは私には効きませんよ!」
ユールはイシュダルへ右手を突き出した。呪いの雷撃は部屋全体を覆い、人間たちの視界を奪う。
眩いばかりの光の放出が不意に止んだ。ユールの手に吸い込まれるようにして消えてしまったのだ。
イシュダルの美しい顔が怒りに歪む。
「私の呪いが効かないなんて、まさか…。ええい、全員まとめてズタズタに引き裂いてくれるわ!死ねえええッ!」
イシュダルの振り下ろす短剣を、ユールが剣ではじき返した。妖女がよろけた所を狙ってセラパレスが横ざまに槍で薙ぎ払う。
翼を駆使して宙に逃れたイシュダルは急降下してメルフィナを襲う。迎え撃つは紅蓮の火球。メルフィナは的確にメラやヒャドをぶつけ、イシュダルの勢いを削いでいく。
人間たちの攻勢に怯んだ妖女の首筋に、アスラムが手刀を叩き込んだ。ぐらり、と倒れ掛かった所へユールの剣とセラパレスの槍が止めを刺すと、おぞましい叫びが上がった。
「レオコーンさんは無事ですか!?」
「大丈夫。あの魔物の呪いで動きを封じられていただけよ」
断末魔の苦しみに悶え、濁った緑色の体液を口から溢れさせながら、地を這うイシュダルが笑う。
「再び…レオコーンと私だけの世界が蘇るはず…だったのに…。でもね、レオコーン…。数百年の時は、もう、戻すことは、できない…。愛するメリアは、どこにもいない…。絶望にまみれ、永遠にさまよい歩くがいいわ…」
妖女の呪いから解放されたレオコーンが愕然と見つめる中、イシュダルは満足げに笑いながら黒い靄に包まれ消えていった。
「おいユール、通訳…は、なくても大体分かったからいい。何ともやりきれないよな…」
アスラムが口を尖らせそっぽをむいた。他の2人も痛ましげに黒騎士を見つめている。
「ようやくルディアノにたどり着いたというのに…。時の流れと共に王国は滅び、私の帰りを待っていたはずのメリア姫も、もういない。私は…戻って来るのが遅すぎた…」
過ぎ去った年月の重みに打ちひしがれる黒騎士の姿に、誰もかける言葉が見つからない。
「いいえ…、遅くなどありません…」
その時、ユールたちの脇をすり抜け、一人の女性が黒騎士に歩み寄った。ほの白い顔を彩る微笑みはどこまでも優しく穏やかなものだった。赤い石が印象的な首飾りと古風な白いドレスを身に纏い、ゆっくりと歩むその姿。波打つ金の髪に縁取られたその顔はフィオーネ姫そのものだった。
「え…!?姫が何故ここに?」
「姫ってどっちの?」
「え、ど、どっちでしょう?」
天使たるユールにも生者たるフィオーネ姫か、死者たるメリア姫なのか、とっさに判断がつかなかった。
そっと差し出された姫の手を騎士が胸に抱くように受け止め、立ち上がる。
勇ましい鎧姿なのにどこかおどおどとした騎士を優しく見つめ、姫が少しはにかんだ表情を見せる。
そして、どちらからともなく手を取り合い、2人はワルツを踊り始めた。くるり、くるりと回るたびに姫のドレスの白い裳裾がひらめき、騎士の黒い外套が寄り添うように後を追う。
ユールは、先程の城内探索で見つけた本のことを思い出していた。ルディアノでは新郎新婦が踊るダンスが婚礼の華とされていたらしい。本には踊りの際の注意事項から装飾品の数々が紹介されていた。
さぞ綺麗だっただろうと当時に思いを馳せるユールの横で、サンディが出鱈目な振り付けで踊り出し、あまりにくねくねしているので爆笑していたら「ちょーイケてるステップが分からないなんて!」とどつかれたが、
「…どうかこの2人に祝福を。永遠の平安のあらんことを」
ユールは言祝ぎを口にした。守護天使が婚礼を挙げた人間たちに贈る特別な祈り。
見習い時代に彼女の師匠が婚礼を司った際にしたように、低く、長く言葉を紡いでいく。
ふ、と何かに気づいたように姫が足を止めた。向かい合う騎士の体が青く透け始め、光の粒子となって消えていこうとしている。
ユールは姫と騎士の間に立ち、古語で語りかけた。
「レオコーンさん。…よろしいですね?」
「ユール…。そなたのおかげで、私は全ての真実を知ることができた。もう思い残すことはない…感謝する」
ユールに頭を下げた後、レオコーンは姫に語りかけた。
「異国の姫君。あなたがメリア姫でないことは分かっておりました…。しかし、あなたがいなければ、私はあの魔物の意のままに、絶望を抱え、永遠にさまよっていたことでしょう…」
「レオコーンさま…」
最後に姫を包み込むように青い光が強く輝き、そして宙へとかき消えた。
後には、しんとした静寂だけが残された。
森の木々はびっしりと葉を茂らせているが、不思議なことに、葉も幹も自然界にはありえない腐ったような色をしている。
地表は所々ぬかるみ、水の溜まりやすい窪みなどは、魔物の死骸から出た毒で汚染され、うかつに踏み込めない沼地になっている。
そして、瘴気とも霊気ともつかぬ紫の霧が常に立ち込め、気まぐれに視界を奪う。
エラフィタの村人たちはここを「滅びの森」と呼んで近寄らないため、道を知る者も当然ない。
ユールたちはルディアノがあるとおぼしき北の方角を目指してはいるのだが、日の光すら差さぬ深い森に阻まれて、未だに手がかり一つ掴めぬ有様だった。
「さすが、滅びの森ですね」
倒木をまたいで避けつつ、ユールが言った。
「黒騎士が俺たちと一緒に行ってくれれば、こんなとこを無駄に歩き回らなくて済んだんだがな」
「彼、元地元民ですものね。…現、かしら。まだ」
「いくらレオコーンさんでも、これだけ景色が様変わりしていたら道案内ができたかどうか」
年月の隔たりと記憶喪失が重なった彼の当惑ぶりは察して余りある、とユールは思った。
黒騎士レオコーンは、自分のことががわらべ歌となるほど年月が経過していることにかなり動揺していた。
話もそこそこに故郷を目指して走り去ってしまったのだ。「止める間もなかった」とは、その場にいたユールとアスラムの言である。
「騎馬で通った痕跡でも残っていればと思ったんだが、この地形ではそれも絶望的だ」
セラパレスが足元に目をやり、言った。ブーツは泥と何か不穏な色をしたぬめりでドロドロだ。
「蹄の跡を発見して追ってみたら、マッドオックスのねぐらでしたしね」
「それでも、森の入口付近には人の手で整備された道が残っていたわ。やはりこの先にルディアノがあったと考えて間違いないでしょう」
北へ進む内に、乾いた地面を探すのが難しくなってきた。だんだん地面どころか木立も無くなり、4人は一面ぐずぐずの沼地を行く羽目になってしまった。
足場の悪さもそれなりだが何より臭気が凄まじい。4人は極力沼の縁を辿るようにして、陸地を、道を探して歩き続けた。
「全員どくどくヘドロになるのが先か、ルディアノが見つかるのが先か…」
「その前に、この沼一周しちまうだろ」
果てなく続く沼地に気が遠くなりかけていたユールを、サンディの声が呼び戻した。
「お?じめんー!地面だよユール!」
彼女の言う通り、ちょうど馬一頭が通れるほどの道が黒々とした森の奥へ続いていた。
進んでいくと、やがて苔むして緑の壁となった石垣が現れた。大小さまざまな石垣が点在し、また濃くなってきた霧の中でぼんやりとその姿を浮かび上がらせている。
「これは…」
「どうやら無事に着いたようだな」
沼地を抜けてようやくたどりついたルディアノの地。
奥に進むにつれて石垣だと思っていたものが、元は家具だったり部屋の名残りだということが分かってきた。
「ここは街だったのでしょうか」
「敷地の広さから見て、ルディアノの王宮だったのだろう。しかし、一体どういう壊され方をしたのか。このあたりは壁がごっそり無くなっている」
セラパレスが周囲を見回した。壁はおろかドアも天井も無い。広場か庭園かと勘違いしそうなほど広々とした場所だった。床に転がる家具やタペストリーの残骸が、ここが元は室内だったのだと示すのみ。
横倒しになり扉が半開きになったクローゼットの中には、少々手直しすればまだ着られそうなドレスが残されたままだ。
「ここまで来るようなガッツのある盗賊はいないだろ。ただ、魔物にしちゃあ仕事が丁寧すぎるな」
ドレスを手に取り、ひらひらさせながら、アスラムが言った。
敷地の奥まった所に錬金術師の墓標があった。たった一つの墓標というのが不自然だ、とセラパレスが不審がっていたが、お参りを済ませた4人は黙々とルディアノの探索を続けた。遠い昔、確かにここで人々が暮らしていた痕跡を目にするたび、ユールはたまらない気持ちになった。
ほどなく、彼らは次なる問題に出くわすこととなった。
「このお城。いくら壊れてたって一階平屋建てってコトはないでしょ?もっと何かあるんじゃないの?つーか、黒騎士はドコよ」
サンディに言われ、ユールはハタと我に返った。
王宮の中心部はめちゃめちゃに壊れているが、城壁を兼ねた外縁部の回廊はほぼ無傷で残されている。左右に伸びる回廊の先には楼閣が見えた。
回廊の入口をアスラムが見つけたが、脆そうな見かけに反して扉はびくともしない。
「この扉に強い魔力を感じるわ」
「解けそうか?」
「ダメね。この扉の術式は現代のものとまるで違うもの」
「ルディアノの人々の間で独自に編み出された魔法なのでしょうね」
メルフィナとユールは頷きあった。天使界で一通りの魔法を修めた守護天使であっても、解除の糸口すら掴めなかった。
「じゃあさー、あのいかにも王様の住まいっぽい建物目指してよじ登るってのは?」
「いいですね!サンディ、ひとっ飛びして様子を見てきて下さいよ」
「イヤよ!か弱いアタシに何てコトさせんのよ!…って、痛いんですケド!」
言うだけ言って非協力的なサンディを、ユールは無言でデコピンした。
結局、塀の隙間から王宮の内部へと入ったユールたちは、床にあいた大穴を迂回しつつ進む間、暗がりに身を潜めていた魔物たちに幾度となく襲われた。
外ではついぞ見かけぬ異形のものたち。うかつに魔物に触れてしまうと皮膚が爛れ、ひどい目眩に立っていられなくなってしまう。
死霊の群れを退けた後、アスラムとユールは近くの瓦礫に腰掛け、セラパレスの作った毒消しをもぐもぐしながら休憩していた。先頭に立って敵を蹴散らす彼らは消耗が激しい。
「この穴も魔物の仕業、なのかねえ」
「穴から遠い所は部屋ごと綺麗に残ってるんですものね。本棚もベッドもそのまま」
それから彼らは厨房、兵士の詰め所、図書室を抜け、階段を上がった。
そこは、まっすぐに伸びる薄暗い廊下の中程だった。壁をくりぬいて作られた燭台に、メルフィナがぽつぽつと火を灯していく。
「…静かに。何か聞こえないか?」
セラパレスの言葉に、サンディとユールは同時に首をかしげた。しばらくそのまま待っていると、かすかな気配、あるかなきかの風のようなものが一瞬駆け抜けたのが彼女たちにも分かった。
4人は無言で目を見交わし、足音を忍ばせ、廊下を右に進んだ。つきあたりの階段を下りると、誰かの話し声がはっきりと聞こえてきた。甲高く甘やかな女の声。レオコーンの話す古語と同じ響きだった。
四方を柱に囲まれた部屋は広く、おそらくルディアノ王の謁見の間。柱の隙間から中を覗くと、かつて国王が座していただろう玉座の金、少々色褪せてはいるが部屋中央に堂々と敷かれた絨毯の赤、その中をひらひらと踊る黒い影が見て取れた。
「イシュダル、貴様…!」
搾り出すような苦々しい声。それはレオコーンのものだった。
「貴様の呪いが解け、私は全てを思い出した…。私は貴様を討つべく、このルディアノ城を飛び出し…」
「そして私に破れ、永遠の口づけを交わした…。あなたと私は数百年もの間、闇の世界で2人きり。あなたは私の下僕となった…そうでしょ?レオコーン」
ころころと楽しげに恐ろしげな内容を語る女はイシュダルというらしい。ユールが中の状況を通訳すると、仲間たちの顔に緊張が走った。
再び呪いをかけてやろうと近づいたイシュダルに、激昂したレオコーンが気合とともに飛び掛ったが、激しい雷撃の返り討ちに遭い、彼は倒れこんでしまった。
説明不要の緊急事態に、ユールが通訳をすっ飛ばして号令をかけた。
「レオコーンさんを助けます!」
「…あー、行く前にホイミくれホイミ。限界だ…」
「お前は…っ!何故前もって言わない!?」
「もうちょっと落ち着いてから、と思ってたんだが。思わぬ急展開にこっちもびっくりだ」
「今まで静かだったあなたにびっくりですよ!ああ、アスラムさん、顔が真っ青ですよ、大丈夫ですか!」
「いいから、早く回復なさい」
黒騎士を救うため、ユールたちがどたどたと謁見の間に駆け込むと、今まさに止めを刺そうとしていた女が鋭い声で誰何する。蝙蝠のように肉薄の翼が一つ大きくはばたいた。
青ざめた女の肌は艶かしく、背を流れる髪も凍てつくような紫色をしているが、その身に纏うドレスとカッと見開かれた目は、滴る生き血さながらに赤かった。
色を失ってなお肉感的なイシュダルの唇がニィッと笑みを作った。
「あんたたち、まさかレオコーンを助けようってんじゃないだろうね?ククク…馬鹿ねえ。身の程知らずな子たちだこと。いいわよ、私のとびっきりの呪いをかけてあげる!!」
イシュダルが手をひらめかせ、先程レオコーンを打ち倒したものより大きな雷撃を放った。ユールは怯むことなくその前に身を躍らせた。
「おいチビ!下がれ」
「ユール!」
仲間たちが口々に彼女の名を呼ぶ。
「大丈夫です!…邪悪なる妖女よ、そのような呪いは私には効きませんよ!」
ユールはイシュダルへ右手を突き出した。呪いの雷撃は部屋全体を覆い、人間たちの視界を奪う。
眩いばかりの光の放出が不意に止んだ。ユールの手に吸い込まれるようにして消えてしまったのだ。
イシュダルの美しい顔が怒りに歪む。
「私の呪いが効かないなんて、まさか…。ええい、全員まとめてズタズタに引き裂いてくれるわ!死ねえええッ!」
イシュダルの振り下ろす短剣を、ユールが剣ではじき返した。妖女がよろけた所を狙ってセラパレスが横ざまに槍で薙ぎ払う。
翼を駆使して宙に逃れたイシュダルは急降下してメルフィナを襲う。迎え撃つは紅蓮の火球。メルフィナは的確にメラやヒャドをぶつけ、イシュダルの勢いを削いでいく。
人間たちの攻勢に怯んだ妖女の首筋に、アスラムが手刀を叩き込んだ。ぐらり、と倒れ掛かった所へユールの剣とセラパレスの槍が止めを刺すと、おぞましい叫びが上がった。
「レオコーンさんは無事ですか!?」
「大丈夫。あの魔物の呪いで動きを封じられていただけよ」
断末魔の苦しみに悶え、濁った緑色の体液を口から溢れさせながら、地を這うイシュダルが笑う。
「再び…レオコーンと私だけの世界が蘇るはず…だったのに…。でもね、レオコーン…。数百年の時は、もう、戻すことは、できない…。愛するメリアは、どこにもいない…。絶望にまみれ、永遠にさまよい歩くがいいわ…」
妖女の呪いから解放されたレオコーンが愕然と見つめる中、イシュダルは満足げに笑いながら黒い靄に包まれ消えていった。
「おいユール、通訳…は、なくても大体分かったからいい。何ともやりきれないよな…」
アスラムが口を尖らせそっぽをむいた。他の2人も痛ましげに黒騎士を見つめている。
「ようやくルディアノにたどり着いたというのに…。時の流れと共に王国は滅び、私の帰りを待っていたはずのメリア姫も、もういない。私は…戻って来るのが遅すぎた…」
過ぎ去った年月の重みに打ちひしがれる黒騎士の姿に、誰もかける言葉が見つからない。
「いいえ…、遅くなどありません…」
その時、ユールたちの脇をすり抜け、一人の女性が黒騎士に歩み寄った。ほの白い顔を彩る微笑みはどこまでも優しく穏やかなものだった。赤い石が印象的な首飾りと古風な白いドレスを身に纏い、ゆっくりと歩むその姿。波打つ金の髪に縁取られたその顔はフィオーネ姫そのものだった。
「え…!?姫が何故ここに?」
「姫ってどっちの?」
「え、ど、どっちでしょう?」
天使たるユールにも生者たるフィオーネ姫か、死者たるメリア姫なのか、とっさに判断がつかなかった。
そっと差し出された姫の手を騎士が胸に抱くように受け止め、立ち上がる。
勇ましい鎧姿なのにどこかおどおどとした騎士を優しく見つめ、姫が少しはにかんだ表情を見せる。
そして、どちらからともなく手を取り合い、2人はワルツを踊り始めた。くるり、くるりと回るたびに姫のドレスの白い裳裾がひらめき、騎士の黒い外套が寄り添うように後を追う。
ユールは、先程の城内探索で見つけた本のことを思い出していた。ルディアノでは新郎新婦が踊るダンスが婚礼の華とされていたらしい。本には踊りの際の注意事項から装飾品の数々が紹介されていた。
さぞ綺麗だっただろうと当時に思いを馳せるユールの横で、サンディが出鱈目な振り付けで踊り出し、あまりにくねくねしているので爆笑していたら「ちょーイケてるステップが分からないなんて!」とどつかれたが、
「…どうかこの2人に祝福を。永遠の平安のあらんことを」
ユールは言祝ぎを口にした。守護天使が婚礼を挙げた人間たちに贈る特別な祈り。
見習い時代に彼女の師匠が婚礼を司った際にしたように、低く、長く言葉を紡いでいく。
ふ、と何かに気づいたように姫が足を止めた。向かい合う騎士の体が青く透け始め、光の粒子となって消えていこうとしている。
ユールは姫と騎士の間に立ち、古語で語りかけた。
「レオコーンさん。…よろしいですね?」
「ユール…。そなたのおかげで、私は全ての真実を知ることができた。もう思い残すことはない…感謝する」
ユールに頭を下げた後、レオコーンは姫に語りかけた。
「異国の姫君。あなたがメリア姫でないことは分かっておりました…。しかし、あなたがいなければ、私はあの魔物の意のままに、絶望を抱え、永遠にさまよっていたことでしょう…」
「レオコーンさま…」
最後に姫を包み込むように青い光が強く輝き、そして宙へとかき消えた。
後には、しんとした静寂だけが残された。
2011年6月17日金曜日
黒薔薇わらべ歌
ルイーダの酒場は、宿屋の食堂を兼ねている。
宿自体にも食堂はあるのだが、少ない宿泊客と配膳を行う従業員との兼ね合いで、そういうことになった。
現に今も、昼夜を問わず酒場に出入りする冒険者と地元民が席の大半を占めており、宿の客は片手で足りるほどだ。
もっと宿泊客が多かった時分には、階上の大ホールが連日満員になるほどだったと言う。
(そのうちまた、大ホールに人がひしめくようになるでしょうが…)
リッカにかかればそれも時間の問題だと、ユールは全く心配していなかった。
朝の酒場は忙しい。夜通し酒を飲んだ酔っ払いが、これから仕事に向かう人々が、さまざまに料理を注文してくる。
店内を切り盛りしているのはジェームズだ。常連客の「いつものやつ」というあいまいな内容でも難なくこなしている。
今日も早起き…というか寝ていないユールは、朝食の配膳を手伝って厨房と酒場を行ったり来たりしていた。
「はい、いつもの4つ!お待たせしましたー!トマトの人は?」
「おう、オレオレ」
「ハムはオレのだ!」
「いや、オレだよ!お前いつもチーズだろっ」
鍛冶職人4人組にそれぞれ具の違うサンドイッチと飲み物を差し出して、別のテーブルでは食べ終わった食器を回収して、また新しい料理を持って飛び出していく。
「これは赤いチョッキの人のいつもの。こっちは白ヒゲのじいさんのいつもの。で、そっちがブロンドのお嬢さんのいつもの。はい、よろしく」
「え、全部いつもの!?」
「ははは、一回しか言わないよ。どんどん忘れちゃうからね」
ジェームズの鬼のような指示は、最初は呪文のようだった。見習い時代に鍛えた記憶力と瞬発力でどうにかついていけているが、油断するとたちまちどこかで何かが混ざりそうになる。
サンディは酒場のカウンターの端に陣取って、いろいろつまみ食いに忙しい。
「食べてないで手伝って下さいよ!」
「アタシ、そんな重いの運べないしぃ~。ま、せいぜい頑張りたまえっ」
ユールが小声で抗議しても、どこ吹く風だ。
数刻後、戦場のようだった朝の混雑が収まり、ユールはよろよろと宿のロビーに這い出た。そこで、ちょうど入口から入ってきたセラパレスに呼び止められた。彼は大きな袋を抱えている。
「あ、セラパレスさん!おはようございます」
「おはよう。…何だか随分疲れているね。昨夜よく眠れなかったのかい?」
「いえ、ロングドレスの青ヒゲにトーストを…じゃなかった、宿の朝ごはんの手伝いをしてきたんです」
「ははは、お疲れ様。…実はエラフィタへ発つ前に、城への配達を済ませておきたくてね。構わなければ君たちだけで先に行っててくれないか」
「いや、待ちますよ。まだ誰も起きてきてませんし、むしろその配達お手伝いします!」
カウンターにいるリッカにアスラムたちへの言伝を頼み、ユールとサンディはセラパレスと共に城へと向かった。
今日のセントシュタインは薄曇りで、やや風が冷たい。雨にならなければ良いが、と彼女は気遣わしげに空を見上げた。
以前、黒騎士討伐の志願者を募っていた立て札は、既に内容が書き換えられていた。
(我が国を脅かした謎の黒騎士を、ユールという勇敢な旅芸人が見事打ち負かした!しかし、謎の黒騎士は未だこの辺りをうろついている模様。国民一同、注意を怠るべからず。やっぱりこうなっちゃいますかね…)
「黒騎士がまだうろついてんなら、打ち負かしたことにならなくね?コラ旅芸人仕事しろー、みたいな?」
「うっ…仕事はきちんとやったじゃないですか」
立て札を見てどんよりしているユールを気遣って、セラパレスが声を掛けた
「まあ、黒騎士の脅威が去ったのは事実なのだから。気にすることはないよ」
「…そうですね。ありがとうございます。あ、そういえば、マニーさんは無事に隙間から出られたんでしょうか」
城の医務室で配達の荷を開封しながら聞いてみた所、昨夜から今朝にかけてマニーという大男は来ていないとのことだった。
「もしかしてまだ挟まったままなのでは!?」
「厨房の物置でしょう?そんな状態だったら、朝食の支度の時に誰かが気づいてますよ」
大男の身を案じて青ざめるユールを医務官のバートンが宥めた。
側のベッドで包帯を替えてもらっていた兵士長が、ユールに気づいて話しかけてきた。
「む、おぬしは確か黒騎士を倒しに向かった者だな?何とも信じがたいことだが…おぬしのどこにそんな力があるというのだ」
「いえ、私一人ではとても敵わない相手でした。仲間がいなかったらどうなっていたことか」
「はっはっは、そう謙遜するな。幼いながらもあっぱれな旅人だ!これで陛下も枕を高くして眠れるというものよ!」
そんな時に兵士長たる自分が不在では情けない、とベッドから降りようとする彼を総出で押し留めた。まだまだ安静が必要な身だ。
「あれ、お隣の方。顔色がお悪いようですが、大丈夫ですか?」
兵士長の隣に横たわっているのは、先日、上司の胸を暑苦しい眼差しで凝視していた若い兵士だ。
「…ボクには兵士長の傷が日に日に癒えていくのが分かる…。この幸せもあと僅かなのです」
(ああ、また変な方向に思いつめちゃって…)
うつろな目で返事をされ、ユールがセラパレスに助けを求める。彼は苦笑いで首を振った。
「こーゆーの、外野が下手につつかない方がいいのよネ」
横でサンディがうんうんと頷いている。疎いなりにも何となくその辺の事情が察せられ、ユールは無言でその場を離れた。
城での用事を済ませたユールたちが宿屋に戻ると、カウンターの前でアスラムとメルフィナが待っていた。
「あんたら、早起きだな」
「君は寝すぎだ」
「…手厳しいねぇ」
アスラムがあくびをかみ殺した。
「あ、姐さん、オハヨー」
「おはよう。あなたも早起きね」
「なんつーか、付き合いってヤツ?」
「ちょっ!ちょっと待って下さい姐さんって。昨夜あんなに悶々としてたのに、順応力ありすぎですよサンディ」
ごく自然に会話しているサンディとメルフィナについていけず、ユールは眩暈を覚えた。
「何よー、天使的にはアリなんでショ?」
「新しいお友達と仲良くできて嬉しいわ」
うふふと笑い合う彼女たちに何も言えなくなってしまう。
「いや、大変喜ばしいことなんですけどね。まだちょっと納得が…」
「おーい、ユール。そろそろエラフィタ行こうぜ」
混乱気味のユールに、アスラムが声を掛けた。
「あ、そうですね!えーと皆さん準備はよろしいですか?キメラの翼投げますよ?」
「ここじゃなくて外に出てからにしてくれ。天井に頭をぶつけたくないんでね」
肩をすくめる武闘家に、魔法使いがにこりと微笑んだ。
「衝撃で目が覚めるんじゃないかしら」
軽口を叩きあいながら宿屋の外に出た4人は、キメラの翼でエラフィタへ飛んだ。
都会の喧騒から一転、のどかな空気と土の匂いの中、エラフィタへ降り立つ。相変わらずの曇り空ながら、風も何となく暖かいような気がする。
狭い村なので、フィオーネ姫のばあやはすぐに見つかった。ご神木を回り込んだ先に小さな民家があり、そこで夫とのんびり2人暮らしをしているということだった。
ユールがコンコンとドアを叩くと、小さなおばあさんが2人、にこにこしながら出迎えてくれた。
「あの、すみません。昔お城に勤めていたという方がこちらにいると伺いまして…」
ユールの問いかけに2人は顔を見合わせた。結った髪も顔も手も丸いおばあさんが、ころころ笑いながら言った。
「それはソナちゃんね」
隣で、結った髪も顔も手もすらりと細いおばあさんが、ソナでございますとお辞儀をした。
「見たところ旅人さんのようですが、一体どんなご用件ですかな?」
「あなたが小さい頃のフィオーネ姫様に歌ってさしあげていたというわらべ歌のことが気になりまして。是非お聞かせいただければと」
「彼女は旅芸人なので、この地方に伝わる古謡に興味があるようです」
セラパレスが言った。2人はそっくり同じように目を丸くして、ユールを見た。
「まあまあ、小さいのに勉強熱心だねぇ」
立ち話も何ですからと室内に招かれ、4人は居間のテーブルに腰掛けた。木製の家具とクッションが何とも素朴な雰囲気を醸し出している。
「それじゃクロエちゃん。合いの手をお願いしてもいいかの?」
「黒薔薇わらべ歌だね?お安いご用さ。それじゃあ、行くよ…。よい、よい、よいっとな」
向かい合わせに腰掛けたソナとクロエは、ぱんぱんと手を打ち鳴らし、ゆっくりと歌い始めた。
闇に潜んだ魔物を狩りに
黒薔薇の騎士立ち上がる
見事魔物を討ち滅ぼせば
白百合姫と結ばれる
騎士の帰りを待ちかねて
城中みんなで宴の準備
「あ、ソーレ。それから騎士様どうなった?」
クロエが節回しも軽やかに、合いの手を入れる。
北ゆく鳥よ 伝えておくれ
ルディアノで待つ白百合姫に
黒薔薇散ったと伝えておくれ
北ゆく鳥よ 伝えておくれ
黒薔薇散ったと伝えておくれ
わらべ歌にしては、どこか陰のある旋律が妙に耳に残る。
「黒薔薇、散った…?」
「北行く鳥、というのも気になるわね」
「はて、皆さん大丈夫ですかのう?」
歌を聴いた全員が何やら深刻そうな顔をしているので、ソナとクロエに心配されてしまった。
「魔物を倒すべく城を出た騎士と、その帰りを待つ姫様のお話が、わらべ歌の元になっているのよ。結局、騎士は帰らず、2人は永遠に結ばれなかったんだけど、切ない話よね。…それにしても、ソナちゃんと2人でわらべ歌を歌ったのなんて何年ぶりかしら」
うふふと嬉しそうに笑い合う彼女たちに、ユールは問いかけた。
「歌に出てくる騎士や姫について、何かご存知ではないですか?騎士の名前とか、どこに住んでたとか」
「ソナさん、ルディアノってのはこの近くのことなのかい?」
「それがよく分からなくてねえ。歌に出てくる鳥と同じように、北に向かってみてはいかが?」
ルディアノに関する手がかりを得たユールたちだったが、ソナたちの心づくしの歓待についつい長居をしてしまい、結局家を出たのはもうじき日が暮れようという頃合いだった。
「若い人たちがたくさんいるからって、婆さんたち、すごい張り切りようだったな」
「ルディアノの謎が解決したら、お土産を持ってご挨拶に来ましょうね」
「では皆さん。手がかりも得ましたし、今夜はここで宿を取り、明日から北の探索をすることにしましょう」
宿の部屋に荷物を置いた後は自由行動。メルフィナとセラパレスは買い物がてら教会の図書室へ調べ物に行き、ユールとアスラムは村の外へと向かっていた。
「木こりのトムが戻らない」と宿の女将が心配そうにしていたので、散策も兼ねてちょっと探しに出てみることにしたのだった。
いつの間にか雲が晴れ、ご神木も家々も見事な茜色へと染め上げられている。もう間もなく日没。夜の闇に包まれるまで、残された時間は少ない。
ユールたちが天使像の前を通り過ぎようとした時、前方がにわかに騒がしくなった。遠くから男の悲鳴が聞こえてくる。
「何だ?」
村に駆け込んできたのは、小太りの若者だった。背後に黒く大きな影が迫る。長槍こそ携えていないが、若者を追いかけて馬を走らせるその姿は忘れようが無い。
「レオコーンさん!?」
ユールは助けてくれとわめきながら抱きついてきた若者を支え、眼前に立つ黒騎士を見上げた。
黒騎士もこちらに気付いたようだ。ゆっくりと馬を進めてくる。
「そなた、何故ここに…?」
彼の話す古語を呪いか何かと勘違いしたのか、若者が竦み上がった。
「こいつ…魔物の下僕なんだろ!?オラ、森の中でこいつのことを探してる女の魔物に出会っただ!真っ赤な目を光らせながら、我が下僕、黒い騎士を見なかったかってよ!」
ユールが若者の言葉を通訳すると、黒騎士は憤然と吐き捨てた。
「この私が魔物の下僕だと…?何をバカなことを…!」
「落ち着いて下さい、この人がますます怯えてしまいます」
2人のやり取りを他所に、アスラムが若者へ声を掛けた。
「あんたがトムだな。とりあえず話は分かったから、今のうちに戻った方がいい。後はこっちに任せろ」
「オラ、ウソついてねえだ!森の中であの黒騎士を探してる女のバケモノに会ったんだよ!そんな騎士知らんっちゅうたら、北の空へ飛んでいっちまっただ!おねげえだ、信じてけろ!」
「分かったから。ほら、さっさと行け」
こけつまろびつ逃げていくトムを見送ってから、アスラムはため息をついた。
「全く人騒がせな騎士さまだな。行く先々で騒ぎを起こしやがって」
ユールがそのまま彼の言葉を通訳してしまい、黒騎士が苛立たしげに鼻を鳴らした。
宿自体にも食堂はあるのだが、少ない宿泊客と配膳を行う従業員との兼ね合いで、そういうことになった。
現に今も、昼夜を問わず酒場に出入りする冒険者と地元民が席の大半を占めており、宿の客は片手で足りるほどだ。
もっと宿泊客が多かった時分には、階上の大ホールが連日満員になるほどだったと言う。
(そのうちまた、大ホールに人がひしめくようになるでしょうが…)
リッカにかかればそれも時間の問題だと、ユールは全く心配していなかった。
朝の酒場は忙しい。夜通し酒を飲んだ酔っ払いが、これから仕事に向かう人々が、さまざまに料理を注文してくる。
店内を切り盛りしているのはジェームズだ。常連客の「いつものやつ」というあいまいな内容でも難なくこなしている。
今日も早起き…というか寝ていないユールは、朝食の配膳を手伝って厨房と酒場を行ったり来たりしていた。
「はい、いつもの4つ!お待たせしましたー!トマトの人は?」
「おう、オレオレ」
「ハムはオレのだ!」
「いや、オレだよ!お前いつもチーズだろっ」
鍛冶職人4人組にそれぞれ具の違うサンドイッチと飲み物を差し出して、別のテーブルでは食べ終わった食器を回収して、また新しい料理を持って飛び出していく。
「これは赤いチョッキの人のいつもの。こっちは白ヒゲのじいさんのいつもの。で、そっちがブロンドのお嬢さんのいつもの。はい、よろしく」
「え、全部いつもの!?」
「ははは、一回しか言わないよ。どんどん忘れちゃうからね」
ジェームズの鬼のような指示は、最初は呪文のようだった。見習い時代に鍛えた記憶力と瞬発力でどうにかついていけているが、油断するとたちまちどこかで何かが混ざりそうになる。
サンディは酒場のカウンターの端に陣取って、いろいろつまみ食いに忙しい。
「食べてないで手伝って下さいよ!」
「アタシ、そんな重いの運べないしぃ~。ま、せいぜい頑張りたまえっ」
ユールが小声で抗議しても、どこ吹く風だ。
数刻後、戦場のようだった朝の混雑が収まり、ユールはよろよろと宿のロビーに這い出た。そこで、ちょうど入口から入ってきたセラパレスに呼び止められた。彼は大きな袋を抱えている。
「あ、セラパレスさん!おはようございます」
「おはよう。…何だか随分疲れているね。昨夜よく眠れなかったのかい?」
「いえ、ロングドレスの青ヒゲにトーストを…じゃなかった、宿の朝ごはんの手伝いをしてきたんです」
「ははは、お疲れ様。…実はエラフィタへ発つ前に、城への配達を済ませておきたくてね。構わなければ君たちだけで先に行っててくれないか」
「いや、待ちますよ。まだ誰も起きてきてませんし、むしろその配達お手伝いします!」
カウンターにいるリッカにアスラムたちへの言伝を頼み、ユールとサンディはセラパレスと共に城へと向かった。
今日のセントシュタインは薄曇りで、やや風が冷たい。雨にならなければ良いが、と彼女は気遣わしげに空を見上げた。
以前、黒騎士討伐の志願者を募っていた立て札は、既に内容が書き換えられていた。
(我が国を脅かした謎の黒騎士を、ユールという勇敢な旅芸人が見事打ち負かした!しかし、謎の黒騎士は未だこの辺りをうろついている模様。国民一同、注意を怠るべからず。やっぱりこうなっちゃいますかね…)
「黒騎士がまだうろついてんなら、打ち負かしたことにならなくね?コラ旅芸人仕事しろー、みたいな?」
「うっ…仕事はきちんとやったじゃないですか」
立て札を見てどんよりしているユールを気遣って、セラパレスが声を掛けた
「まあ、黒騎士の脅威が去ったのは事実なのだから。気にすることはないよ」
「…そうですね。ありがとうございます。あ、そういえば、マニーさんは無事に隙間から出られたんでしょうか」
城の医務室で配達の荷を開封しながら聞いてみた所、昨夜から今朝にかけてマニーという大男は来ていないとのことだった。
「もしかしてまだ挟まったままなのでは!?」
「厨房の物置でしょう?そんな状態だったら、朝食の支度の時に誰かが気づいてますよ」
大男の身を案じて青ざめるユールを医務官のバートンが宥めた。
側のベッドで包帯を替えてもらっていた兵士長が、ユールに気づいて話しかけてきた。
「む、おぬしは確か黒騎士を倒しに向かった者だな?何とも信じがたいことだが…おぬしのどこにそんな力があるというのだ」
「いえ、私一人ではとても敵わない相手でした。仲間がいなかったらどうなっていたことか」
「はっはっは、そう謙遜するな。幼いながらもあっぱれな旅人だ!これで陛下も枕を高くして眠れるというものよ!」
そんな時に兵士長たる自分が不在では情けない、とベッドから降りようとする彼を総出で押し留めた。まだまだ安静が必要な身だ。
「あれ、お隣の方。顔色がお悪いようですが、大丈夫ですか?」
兵士長の隣に横たわっているのは、先日、上司の胸を暑苦しい眼差しで凝視していた若い兵士だ。
「…ボクには兵士長の傷が日に日に癒えていくのが分かる…。この幸せもあと僅かなのです」
(ああ、また変な方向に思いつめちゃって…)
うつろな目で返事をされ、ユールがセラパレスに助けを求める。彼は苦笑いで首を振った。
「こーゆーの、外野が下手につつかない方がいいのよネ」
横でサンディがうんうんと頷いている。疎いなりにも何となくその辺の事情が察せられ、ユールは無言でその場を離れた。
城での用事を済ませたユールたちが宿屋に戻ると、カウンターの前でアスラムとメルフィナが待っていた。
「あんたら、早起きだな」
「君は寝すぎだ」
「…手厳しいねぇ」
アスラムがあくびをかみ殺した。
「あ、姐さん、オハヨー」
「おはよう。あなたも早起きね」
「なんつーか、付き合いってヤツ?」
「ちょっ!ちょっと待って下さい姐さんって。昨夜あんなに悶々としてたのに、順応力ありすぎですよサンディ」
ごく自然に会話しているサンディとメルフィナについていけず、ユールは眩暈を覚えた。
「何よー、天使的にはアリなんでショ?」
「新しいお友達と仲良くできて嬉しいわ」
うふふと笑い合う彼女たちに何も言えなくなってしまう。
「いや、大変喜ばしいことなんですけどね。まだちょっと納得が…」
「おーい、ユール。そろそろエラフィタ行こうぜ」
混乱気味のユールに、アスラムが声を掛けた。
「あ、そうですね!えーと皆さん準備はよろしいですか?キメラの翼投げますよ?」
「ここじゃなくて外に出てからにしてくれ。天井に頭をぶつけたくないんでね」
肩をすくめる武闘家に、魔法使いがにこりと微笑んだ。
「衝撃で目が覚めるんじゃないかしら」
軽口を叩きあいながら宿屋の外に出た4人は、キメラの翼でエラフィタへ飛んだ。
都会の喧騒から一転、のどかな空気と土の匂いの中、エラフィタへ降り立つ。相変わらずの曇り空ながら、風も何となく暖かいような気がする。
狭い村なので、フィオーネ姫のばあやはすぐに見つかった。ご神木を回り込んだ先に小さな民家があり、そこで夫とのんびり2人暮らしをしているということだった。
ユールがコンコンとドアを叩くと、小さなおばあさんが2人、にこにこしながら出迎えてくれた。
「あの、すみません。昔お城に勤めていたという方がこちらにいると伺いまして…」
ユールの問いかけに2人は顔を見合わせた。結った髪も顔も手も丸いおばあさんが、ころころ笑いながら言った。
「それはソナちゃんね」
隣で、結った髪も顔も手もすらりと細いおばあさんが、ソナでございますとお辞儀をした。
「見たところ旅人さんのようですが、一体どんなご用件ですかな?」
「あなたが小さい頃のフィオーネ姫様に歌ってさしあげていたというわらべ歌のことが気になりまして。是非お聞かせいただければと」
「彼女は旅芸人なので、この地方に伝わる古謡に興味があるようです」
セラパレスが言った。2人はそっくり同じように目を丸くして、ユールを見た。
「まあまあ、小さいのに勉強熱心だねぇ」
立ち話も何ですからと室内に招かれ、4人は居間のテーブルに腰掛けた。木製の家具とクッションが何とも素朴な雰囲気を醸し出している。
「それじゃクロエちゃん。合いの手をお願いしてもいいかの?」
「黒薔薇わらべ歌だね?お安いご用さ。それじゃあ、行くよ…。よい、よい、よいっとな」
向かい合わせに腰掛けたソナとクロエは、ぱんぱんと手を打ち鳴らし、ゆっくりと歌い始めた。
闇に潜んだ魔物を狩りに
黒薔薇の騎士立ち上がる
見事魔物を討ち滅ぼせば
白百合姫と結ばれる
騎士の帰りを待ちかねて
城中みんなで宴の準備
「あ、ソーレ。それから騎士様どうなった?」
クロエが節回しも軽やかに、合いの手を入れる。
北ゆく鳥よ 伝えておくれ
ルディアノで待つ白百合姫に
黒薔薇散ったと伝えておくれ
北ゆく鳥よ 伝えておくれ
黒薔薇散ったと伝えておくれ
わらべ歌にしては、どこか陰のある旋律が妙に耳に残る。
「黒薔薇、散った…?」
「北行く鳥、というのも気になるわね」
「はて、皆さん大丈夫ですかのう?」
歌を聴いた全員が何やら深刻そうな顔をしているので、ソナとクロエに心配されてしまった。
「魔物を倒すべく城を出た騎士と、その帰りを待つ姫様のお話が、わらべ歌の元になっているのよ。結局、騎士は帰らず、2人は永遠に結ばれなかったんだけど、切ない話よね。…それにしても、ソナちゃんと2人でわらべ歌を歌ったのなんて何年ぶりかしら」
うふふと嬉しそうに笑い合う彼女たちに、ユールは問いかけた。
「歌に出てくる騎士や姫について、何かご存知ではないですか?騎士の名前とか、どこに住んでたとか」
「ソナさん、ルディアノってのはこの近くのことなのかい?」
「それがよく分からなくてねえ。歌に出てくる鳥と同じように、北に向かってみてはいかが?」
ルディアノに関する手がかりを得たユールたちだったが、ソナたちの心づくしの歓待についつい長居をしてしまい、結局家を出たのはもうじき日が暮れようという頃合いだった。
「若い人たちがたくさんいるからって、婆さんたち、すごい張り切りようだったな」
「ルディアノの謎が解決したら、お土産を持ってご挨拶に来ましょうね」
「では皆さん。手がかりも得ましたし、今夜はここで宿を取り、明日から北の探索をすることにしましょう」
宿の部屋に荷物を置いた後は自由行動。メルフィナとセラパレスは買い物がてら教会の図書室へ調べ物に行き、ユールとアスラムは村の外へと向かっていた。
「木こりのトムが戻らない」と宿の女将が心配そうにしていたので、散策も兼ねてちょっと探しに出てみることにしたのだった。
いつの間にか雲が晴れ、ご神木も家々も見事な茜色へと染め上げられている。もう間もなく日没。夜の闇に包まれるまで、残された時間は少ない。
ユールたちが天使像の前を通り過ぎようとした時、前方がにわかに騒がしくなった。遠くから男の悲鳴が聞こえてくる。
「何だ?」
村に駆け込んできたのは、小太りの若者だった。背後に黒く大きな影が迫る。長槍こそ携えていないが、若者を追いかけて馬を走らせるその姿は忘れようが無い。
「レオコーンさん!?」
ユールは助けてくれとわめきながら抱きついてきた若者を支え、眼前に立つ黒騎士を見上げた。
黒騎士もこちらに気付いたようだ。ゆっくりと馬を進めてくる。
「そなた、何故ここに…?」
彼の話す古語を呪いか何かと勘違いしたのか、若者が竦み上がった。
「こいつ…魔物の下僕なんだろ!?オラ、森の中でこいつのことを探してる女の魔物に出会っただ!真っ赤な目を光らせながら、我が下僕、黒い騎士を見なかったかってよ!」
ユールが若者の言葉を通訳すると、黒騎士は憤然と吐き捨てた。
「この私が魔物の下僕だと…?何をバカなことを…!」
「落ち着いて下さい、この人がますます怯えてしまいます」
2人のやり取りを他所に、アスラムが若者へ声を掛けた。
「あんたがトムだな。とりあえず話は分かったから、今のうちに戻った方がいい。後はこっちに任せろ」
「オラ、ウソついてねえだ!森の中であの黒騎士を探してる女のバケモノに会ったんだよ!そんな騎士知らんっちゅうたら、北の空へ飛んでいっちまっただ!おねげえだ、信じてけろ!」
「分かったから。ほら、さっさと行け」
こけつまろびつ逃げていくトムを見送ってから、アスラムはため息をついた。
「全く人騒がせな騎士さまだな。行く先々で騒ぎを起こしやがって」
ユールがそのまま彼の言葉を通訳してしまい、黒騎士が苛立たしげに鼻を鳴らした。
2011年5月7日土曜日
まぼろしの王国
夜の城はあちこちが漆黒の闇に沈んでいて、大層不気味だった。
それでも謁見の間には蝋燭がふんだんに灯されていて、昼のような明るさを保っていた。
ユールたちは明日報告に向かおうと思っていたのだが、城門前には「ユールが戻り次第、城へ連れて参れ」という王命を受けた兵士が待ち構えており、深夜にも関わらず登城することとなったのだ。
「おお、ユール!待ちわびたぞ!さあ早くこちらへっ!」
満面の笑みを浮かべてユールたちを手招いた国王の顔が、報告を聞くなり激しい怒りで歪んだ。
「何?黒騎士は記憶を無くし、フィオーネのことを婚約者と見間違えていただけだっただと?奴はルディアノという国を探しているため、もうこの城には近付かないというのか。…おぬしはその言葉をそっくり信じて帰ってきたのか!そんなもの、口から出任せに決まっておろう!」
「…だーから、嫌だったのに」
小さく、アスラムがぼやいた。堅苦しいのは御免だと同行を渋っていたのだ。
「お父さま!何故そこまで黒騎士のことを悪く言うのです?」
ふん、と王は腹立ちも露に鼻を鳴らし、娘の問いに答えた。
「ルディアノという国など聞いたことがない。奴は出鱈目を言っておるのだ!よいかユール。黒騎士はフィオーネを狙って再びこの城にやってくる腹づもりよ。奴の息の根を止めるまでは、おぬしへの褒美もお預けじゃ!」
(褒美などどうでもいいんですが)
ユールはそう言いたいのを堪え、黙って叱責を聞いていた。姫が大きな瞳を潤ませながら、父王に縋る。
「何故、信じてあげられないのです…?あの騎士は本当に国に帰れず、困っているかもしれないのに…」
「フィオーネ。全てはお前を想ってのことだ。聞き分けなさ…あっ、これ!」
父親の頑迷さに耐えられず、フィオーネは辞去の挨拶もせずに走り去っていってしまった。
娘の態度に釈然としないものを覚えながらも、王はユールに再び黒騎士抹殺を厳命した。
謁見の間から退出するや、各人の口から次々に愚痴がこぼれ出る。
「聞く耳持たぬって感じでしたね」
「嫌だねえ、お偉いさんってのは。事実を認めずに痛い目見てから、また大騒ぎすればいいさ」
「娘が心配なのは分かるが…程度問題だ」
「黒騎士をどうするか考えるのは明日にして、今日はもう休みましょう」
階段を下りる3人に続こうとしたユールを何者かがむんずと掴み、柱の影へ引っ張り込んだ。
「キャー!ちょっとユール!どうしたの!?」
「む…!むー!むー!」
サンディの悲鳴に答えたくとも、口を塞がれているので声が出せない。
動作は荒々しかったが、彼女を抱え込む腕は柔らかかった。何やら甘い、花のような香りもする。
「ユールさま…!」
(フィオーネ姫!?)
「ちょっ!姫じゃん!」
サンディの叫びが推測を裏付けてくれた。ユールの口に手を当てたまま、フィオーネ姫はユールへと向き直り、言った。
「私、お話ししたいことがあるのです。人に聞かれると差し障りがありますので、私の部屋までいらして下さい。ルディアノ王国の、ことですわ…」
「むー、むむー?」
ユールは3人が降りていった階段を指差した後、その指をまっすぐ上へ一本立てた。
「ええ、お一人で」
拉致同然に連れ込まれたフィオーネ姫の自室は、明かりを全て落としており、大きな窓から差し込む月明かりでお互いの顔が判別できるといった有様だった。
「密会、逢引き、不道徳ってカンジー」
「何でそうなるんですかっ」
サンディの不謹慎な発言を嗜め、ユールは姫が話し出すのを待った。
「お呼びたてして申し訳ありません。この話を父に聞かれると、また反対されるだけですから…。実は私、ルディアノ王国のことを耳にしたことがあるのです」
「マジで!?」
サンディが叫び、ユールが目を丸くする。こんなに身近にルディアノの手がかりがあるとは、と驚きを禁じえない。
「昔、私のばあやが歌ってくれたわらべ歌の中に、ルディアノという国の名前が出てきたのです。もしかしたらその歌が何か手がかりになるかもしれません!城でのつとめを終えた後、ばあやは故郷エラフィタへ戻り、今も元気に暮らしています」
「エラフィタなら、昨日行ってきましたよ」
「まあ、それは何よりですわ!」
ぱっとユールの手を取り、己が両手で押し抱くようにして、フィオーネが言った。
「あの黒騎士は父の言うような悪い人ではありません。そんな気がしてならないのです。ユールさま…。どうかあの方の、レオコーンさまのお力になってあげて下さい…」
「はい!お任せ下さい、姫様」
この返事を聞いて、固く張りつめていた姫の表情がほころび、笑顔になった。
ユールも姫と同じく、愛しの姫を真摯に想う黒騎士の姿に嘘はないように思うのだ。
その後、姫の侍女に出口まで送ってもらったユールは、無事に皆と合流できた。深夜で人目を憚ったこともあり、城の厨房から裏口へ抜ける手筈になっていたのだった。
「どこに行ってたんだ?いきなり消えたから驚いたぞ」
「後でご説明しま…うえええっ?」
アスラムと話していたユールが、素っ頓狂な声を上げた。
厨房の外には立派な作りの井戸があり、そこから大柄な男が生えていたのだ。
井戸に潜る途中なのか、井戸から出ようとしている最中なのか、その体勢からは判断が難しい。
「こんな夜中にどうしたんだ、あんたら」
それはお互い様だと思いながら、ユールは彼に尋ねた。
「何故、井戸に、あなたは…!」
それには答えず、よいしょと井戸から這い上がってきた彼は、てらてらと濡れて光っていた。隆々とした筋肉の凹凸が濡れて一層際立っている。
「こないだの地震のせいだと思うんだが、そこの物置にひび割れができててな。塞ぐ時にちょっと奥を覗いてみたんだ」
「ああ、隙間の向こうって妙に気になりますよね」
「そうだろう。で、向こう側に部屋っぽいものが見えたんだ。気になるだろう?どんな部屋か」
「ええ、すっごく気になりますね」
「で、何とかひび割れを通り抜けようと、俺は全身にいろいろな物を塗ってみた。油、塗り薬、井戸のコケ、どくどくヘドロ…しかしどれも駄目だった。ぬめぬめが足りないんだ」
「はあ、ぬめぬめが」
ユールと大男がぬめぬめ言い合っている間、他の3人とサンディは遠巻きにそれを眺めていた。
「ぬめりの問題なのかしら。彼、随分大きいわよ」
「彼が抜けられるようなひび割れは、もう穴なんじゃないのか」
「あのー、どなたか。他のぬめぬめに心当たりのある方は…」
何とか彼の力になれないか、と思ったユールが、無邪気に一同に問いかける。
「いや…。悪いが、ぬめぬめには縁遠い人生を送っててね」
「あ!スライム何匹かすり潰して塗ったらいいんじゃね?生きてる奴じゃないと潤いが出ないケド」
「生きたままのスライムを!?そんな残酷な!」
サンディの恐ろしい提案を、ユールは即座に却下した。傍目には一人でひらめいて断念しているように見えただろう。
「そうよ、スライム」
ぽむ、とメルフィナが手を打った。彼女は衣服の隠しを探り、小瓶を一つ取り出した。透き通った青い液体が入っている。
「スライムゼリーか!」
一同が、おおーっと拍手をする。満更でもなさそうにメルフィナがにっこりと笑った。
「で、そのひび割れは何処なのかしら?」
マニーと名乗った大男に案内され、ユールたちは物置へと入った。中は、マニーの用意した蝋燭でほのかに明るかった。
「ほら、そこのひび割れから風がヒューッと来るだろう?奥に何かがあるはずなんだ」
スライムゼリーを全身に塗りたくりながら、マニーが説明した。筋骨隆々とした大男が惜しげもなく裸体を晒し、ぬめぬめとテカリを増していく様は、かなり目のやり場に困る光景だ。
ユールたちは彼の支度がが終わるまで、穴を開ける勢いでひび割れを凝視していた。
「よし、準備完了だ。入ってみるぞ」
むっ、ふんっ、と息を抜きながら、マニーは僅かな隙間に慎重に体を入れていく。ズリズリと順調に行っているかに見えたが、何かがつかえているのか、ある一点でどうしても進まなくなってしまった。
「やっぱりデカすぎたんだよ、あんた」
「いっそひび割れの周りを壊して穴を広げるってのは、ナシ?どーせ修理するんだし」
「マニーさん。大丈夫ですか?」
半端にひび割れに体を入れた体を押し込んだマニーは無言だ。微動だにしない。
「…抜けない」
ぽつりと彼が呟いた。
「おいおい、勘弁してくれよ!」
「引っ張り出しましょう!今助けますからね!」
「うっ…。ぬるぬると掴みづらい…」
スライムゼリーのぬめりは伊達ではない。マニーを引っ張り出そうと掴む端からツルツルと滑ってしまう。
「これでは埒が明かない。誰か呼んで来ましょう!」
「止めとけ。深夜に何やってんだと思われるだろ」
「何って何ですか。探検ですよ、隙間の向こうのロマンですよっ」
「いや、皆。心配かけてすまないな。俺なら大丈夫だ。自力で何とかしてみせるさ。…とりあえず、スライムゼリーありがとな」
騒ぐ一同に、マニーは静かに声を掛けた。抜けなくなった本人が一番落ち着いている、というのも妙な話だ。
今度はぬめぬめしていない時に会いしましょうと約束し、ユールたちは物置を後にした。
城を出て、宿へ向かう帰り道。ユールはフィオーネ姫から聞いた話を皆に伝えた。
「わらべ歌…。おとぎ話は史実を元にしたものも多いから、かなり有益な情報でしょう」
「…それに、ルディアノは確かにこの近くにあるのです。城が残っていたとは知りませんでしたが」
「何だって!?」
天使界で学んだ知識がここで生きるとは、と感慨深くなりながら、ユールは語った。
「ルディアノは、常に瘴気に覆われ、暗雲が立ち込める不毛の大地。とても人が住める状況ではありません」
待ってくれ、とセラパレスが片手を挙げて皆の注意を引いた。
「具体的にはどの辺りにあるんだ。セントシュタインの国土には、そんな荒野は無かったはずだが」
「そこまでは…。シュタイン湖よりもっと奥、北の方角としか分からないのです。実は私も人伝に聞いた話と、地図でしか見たことがないので…。この辺りの詳しい地図を見せていただければ、それらしい場所が特定できるかもしれません」
「シュタイン湖の北には、エラフィタ村があるわね」
メルフィナの指摘に、アスラムも頷いた。
「実際にその辺りに行ってみないことには何とも言えない、か。とにかく明日はエラフィタだな。そうと決まれば、さっさと宿に戻って休もうぜ」
「あ、そういえば夕飯がまだでしたね!」
「今から食事をすると、眠れなくなりそうね」
ユールたちは酒場でごく簡単な夕食を済ませた。その際に宿にある地図を見せてもらったが、やはりルディアノらしき場所はどこにも書かれていなかった。
セラパレスは自宅へ戻り、残る3人もそれぞれの部屋へ戻っていった。
夕食後からサンディの姿が見えない。おそらく遊び歩いているのだろうと見当をつけ、ユールが部屋で着替えていると、ぽかぽかとドアを叩く音がした。
「あれ。どこに行っていたのですか?」
「…あの魔法使いの部屋」
腕も翼も脱力しきったサンディが、よろよろと部屋へ入ってきた。
「珍しいですね。でも、お邪魔だったのでは?」
「あの人、アタシがばっちり見えてるらしくて。その理由を聞き出してやろうと思って、突撃したのよ」
「やっぱりサンディが見えるんですね!すごいな…ここだけの話、メルフィナさんは私の正体もしっかり正確に把握しているようですよ」
「何ソレ!?一体何者なのよ、あの人は!」
サンディはベッドにうつぶせになり、じたばた手足を振り回している。
「それで、見えてる理由は何だったんですか?」
「…体質だって。でもそれってありえなくね?ただの人間がだよ!?ワケが分からないんですケド!」
「もう謎の体質ということにしておけば良いのでは?姿が見えて声も聞こえているとなれば、この先何かと便利でしょうし」
「…そっか。女子だけの秘密ってワケね。うーん、悪くないかも知れないけれど、それって、それでいいのかな?」
「天使的には、アリだと思います」
あっさりと言い放ったユールに、サンディが食ってかかった。
「アリなんだ!?さっきだって人間に不用意にルディアノの情報バラすし!守護天使としてどーなの?」
「私は問題ないと判断しました。…さて、あなたはまだ寝なくて大丈夫なんですか?翌朝辛くても知りませんよ」
「寝たいのは山々だけど、あのぬめぬめ男が夢に出そうでイヤ!」
勝手にしなさい、と、ユールはサンディを放っておくことにした。
それでも謁見の間には蝋燭がふんだんに灯されていて、昼のような明るさを保っていた。
ユールたちは明日報告に向かおうと思っていたのだが、城門前には「ユールが戻り次第、城へ連れて参れ」という王命を受けた兵士が待ち構えており、深夜にも関わらず登城することとなったのだ。
「おお、ユール!待ちわびたぞ!さあ早くこちらへっ!」
満面の笑みを浮かべてユールたちを手招いた国王の顔が、報告を聞くなり激しい怒りで歪んだ。
「何?黒騎士は記憶を無くし、フィオーネのことを婚約者と見間違えていただけだっただと?奴はルディアノという国を探しているため、もうこの城には近付かないというのか。…おぬしはその言葉をそっくり信じて帰ってきたのか!そんなもの、口から出任せに決まっておろう!」
「…だーから、嫌だったのに」
小さく、アスラムがぼやいた。堅苦しいのは御免だと同行を渋っていたのだ。
「お父さま!何故そこまで黒騎士のことを悪く言うのです?」
ふん、と王は腹立ちも露に鼻を鳴らし、娘の問いに答えた。
「ルディアノという国など聞いたことがない。奴は出鱈目を言っておるのだ!よいかユール。黒騎士はフィオーネを狙って再びこの城にやってくる腹づもりよ。奴の息の根を止めるまでは、おぬしへの褒美もお預けじゃ!」
(褒美などどうでもいいんですが)
ユールはそう言いたいのを堪え、黙って叱責を聞いていた。姫が大きな瞳を潤ませながら、父王に縋る。
「何故、信じてあげられないのです…?あの騎士は本当に国に帰れず、困っているかもしれないのに…」
「フィオーネ。全てはお前を想ってのことだ。聞き分けなさ…あっ、これ!」
父親の頑迷さに耐えられず、フィオーネは辞去の挨拶もせずに走り去っていってしまった。
娘の態度に釈然としないものを覚えながらも、王はユールに再び黒騎士抹殺を厳命した。
謁見の間から退出するや、各人の口から次々に愚痴がこぼれ出る。
「聞く耳持たぬって感じでしたね」
「嫌だねえ、お偉いさんってのは。事実を認めずに痛い目見てから、また大騒ぎすればいいさ」
「娘が心配なのは分かるが…程度問題だ」
「黒騎士をどうするか考えるのは明日にして、今日はもう休みましょう」
階段を下りる3人に続こうとしたユールを何者かがむんずと掴み、柱の影へ引っ張り込んだ。
「キャー!ちょっとユール!どうしたの!?」
「む…!むー!むー!」
サンディの悲鳴に答えたくとも、口を塞がれているので声が出せない。
動作は荒々しかったが、彼女を抱え込む腕は柔らかかった。何やら甘い、花のような香りもする。
「ユールさま…!」
(フィオーネ姫!?)
「ちょっ!姫じゃん!」
サンディの叫びが推測を裏付けてくれた。ユールの口に手を当てたまま、フィオーネ姫はユールへと向き直り、言った。
「私、お話ししたいことがあるのです。人に聞かれると差し障りがありますので、私の部屋までいらして下さい。ルディアノ王国の、ことですわ…」
「むー、むむー?」
ユールは3人が降りていった階段を指差した後、その指をまっすぐ上へ一本立てた。
「ええ、お一人で」
拉致同然に連れ込まれたフィオーネ姫の自室は、明かりを全て落としており、大きな窓から差し込む月明かりでお互いの顔が判別できるといった有様だった。
「密会、逢引き、不道徳ってカンジー」
「何でそうなるんですかっ」
サンディの不謹慎な発言を嗜め、ユールは姫が話し出すのを待った。
「お呼びたてして申し訳ありません。この話を父に聞かれると、また反対されるだけですから…。実は私、ルディアノ王国のことを耳にしたことがあるのです」
「マジで!?」
サンディが叫び、ユールが目を丸くする。こんなに身近にルディアノの手がかりがあるとは、と驚きを禁じえない。
「昔、私のばあやが歌ってくれたわらべ歌の中に、ルディアノという国の名前が出てきたのです。もしかしたらその歌が何か手がかりになるかもしれません!城でのつとめを終えた後、ばあやは故郷エラフィタへ戻り、今も元気に暮らしています」
「エラフィタなら、昨日行ってきましたよ」
「まあ、それは何よりですわ!」
ぱっとユールの手を取り、己が両手で押し抱くようにして、フィオーネが言った。
「あの黒騎士は父の言うような悪い人ではありません。そんな気がしてならないのです。ユールさま…。どうかあの方の、レオコーンさまのお力になってあげて下さい…」
「はい!お任せ下さい、姫様」
この返事を聞いて、固く張りつめていた姫の表情がほころび、笑顔になった。
ユールも姫と同じく、愛しの姫を真摯に想う黒騎士の姿に嘘はないように思うのだ。
その後、姫の侍女に出口まで送ってもらったユールは、無事に皆と合流できた。深夜で人目を憚ったこともあり、城の厨房から裏口へ抜ける手筈になっていたのだった。
「どこに行ってたんだ?いきなり消えたから驚いたぞ」
「後でご説明しま…うえええっ?」
アスラムと話していたユールが、素っ頓狂な声を上げた。
厨房の外には立派な作りの井戸があり、そこから大柄な男が生えていたのだ。
井戸に潜る途中なのか、井戸から出ようとしている最中なのか、その体勢からは判断が難しい。
「こんな夜中にどうしたんだ、あんたら」
それはお互い様だと思いながら、ユールは彼に尋ねた。
「何故、井戸に、あなたは…!」
それには答えず、よいしょと井戸から這い上がってきた彼は、てらてらと濡れて光っていた。隆々とした筋肉の凹凸が濡れて一層際立っている。
「こないだの地震のせいだと思うんだが、そこの物置にひび割れができててな。塞ぐ時にちょっと奥を覗いてみたんだ」
「ああ、隙間の向こうって妙に気になりますよね」
「そうだろう。で、向こう側に部屋っぽいものが見えたんだ。気になるだろう?どんな部屋か」
「ええ、すっごく気になりますね」
「で、何とかひび割れを通り抜けようと、俺は全身にいろいろな物を塗ってみた。油、塗り薬、井戸のコケ、どくどくヘドロ…しかしどれも駄目だった。ぬめぬめが足りないんだ」
「はあ、ぬめぬめが」
ユールと大男がぬめぬめ言い合っている間、他の3人とサンディは遠巻きにそれを眺めていた。
「ぬめりの問題なのかしら。彼、随分大きいわよ」
「彼が抜けられるようなひび割れは、もう穴なんじゃないのか」
「あのー、どなたか。他のぬめぬめに心当たりのある方は…」
何とか彼の力になれないか、と思ったユールが、無邪気に一同に問いかける。
「いや…。悪いが、ぬめぬめには縁遠い人生を送っててね」
「あ!スライム何匹かすり潰して塗ったらいいんじゃね?生きてる奴じゃないと潤いが出ないケド」
「生きたままのスライムを!?そんな残酷な!」
サンディの恐ろしい提案を、ユールは即座に却下した。傍目には一人でひらめいて断念しているように見えただろう。
「そうよ、スライム」
ぽむ、とメルフィナが手を打った。彼女は衣服の隠しを探り、小瓶を一つ取り出した。透き通った青い液体が入っている。
「スライムゼリーか!」
一同が、おおーっと拍手をする。満更でもなさそうにメルフィナがにっこりと笑った。
「で、そのひび割れは何処なのかしら?」
マニーと名乗った大男に案内され、ユールたちは物置へと入った。中は、マニーの用意した蝋燭でほのかに明るかった。
「ほら、そこのひび割れから風がヒューッと来るだろう?奥に何かがあるはずなんだ」
スライムゼリーを全身に塗りたくりながら、マニーが説明した。筋骨隆々とした大男が惜しげもなく裸体を晒し、ぬめぬめとテカリを増していく様は、かなり目のやり場に困る光景だ。
ユールたちは彼の支度がが終わるまで、穴を開ける勢いでひび割れを凝視していた。
「よし、準備完了だ。入ってみるぞ」
むっ、ふんっ、と息を抜きながら、マニーは僅かな隙間に慎重に体を入れていく。ズリズリと順調に行っているかに見えたが、何かがつかえているのか、ある一点でどうしても進まなくなってしまった。
「やっぱりデカすぎたんだよ、あんた」
「いっそひび割れの周りを壊して穴を広げるってのは、ナシ?どーせ修理するんだし」
「マニーさん。大丈夫ですか?」
半端にひび割れに体を入れた体を押し込んだマニーは無言だ。微動だにしない。
「…抜けない」
ぽつりと彼が呟いた。
「おいおい、勘弁してくれよ!」
「引っ張り出しましょう!今助けますからね!」
「うっ…。ぬるぬると掴みづらい…」
スライムゼリーのぬめりは伊達ではない。マニーを引っ張り出そうと掴む端からツルツルと滑ってしまう。
「これでは埒が明かない。誰か呼んで来ましょう!」
「止めとけ。深夜に何やってんだと思われるだろ」
「何って何ですか。探検ですよ、隙間の向こうのロマンですよっ」
「いや、皆。心配かけてすまないな。俺なら大丈夫だ。自力で何とかしてみせるさ。…とりあえず、スライムゼリーありがとな」
騒ぐ一同に、マニーは静かに声を掛けた。抜けなくなった本人が一番落ち着いている、というのも妙な話だ。
今度はぬめぬめしていない時に会いしましょうと約束し、ユールたちは物置を後にした。
城を出て、宿へ向かう帰り道。ユールはフィオーネ姫から聞いた話を皆に伝えた。
「わらべ歌…。おとぎ話は史実を元にしたものも多いから、かなり有益な情報でしょう」
「…それに、ルディアノは確かにこの近くにあるのです。城が残っていたとは知りませんでしたが」
「何だって!?」
天使界で学んだ知識がここで生きるとは、と感慨深くなりながら、ユールは語った。
「ルディアノは、常に瘴気に覆われ、暗雲が立ち込める不毛の大地。とても人が住める状況ではありません」
待ってくれ、とセラパレスが片手を挙げて皆の注意を引いた。
「具体的にはどの辺りにあるんだ。セントシュタインの国土には、そんな荒野は無かったはずだが」
「そこまでは…。シュタイン湖よりもっと奥、北の方角としか分からないのです。実は私も人伝に聞いた話と、地図でしか見たことがないので…。この辺りの詳しい地図を見せていただければ、それらしい場所が特定できるかもしれません」
「シュタイン湖の北には、エラフィタ村があるわね」
メルフィナの指摘に、アスラムも頷いた。
「実際にその辺りに行ってみないことには何とも言えない、か。とにかく明日はエラフィタだな。そうと決まれば、さっさと宿に戻って休もうぜ」
「あ、そういえば夕飯がまだでしたね!」
「今から食事をすると、眠れなくなりそうね」
ユールたちは酒場でごく簡単な夕食を済ませた。その際に宿にある地図を見せてもらったが、やはりルディアノらしき場所はどこにも書かれていなかった。
セラパレスは自宅へ戻り、残る3人もそれぞれの部屋へ戻っていった。
夕食後からサンディの姿が見えない。おそらく遊び歩いているのだろうと見当をつけ、ユールが部屋で着替えていると、ぽかぽかとドアを叩く音がした。
「あれ。どこに行っていたのですか?」
「…あの魔法使いの部屋」
腕も翼も脱力しきったサンディが、よろよろと部屋へ入ってきた。
「珍しいですね。でも、お邪魔だったのでは?」
「あの人、アタシがばっちり見えてるらしくて。その理由を聞き出してやろうと思って、突撃したのよ」
「やっぱりサンディが見えるんですね!すごいな…ここだけの話、メルフィナさんは私の正体もしっかり正確に把握しているようですよ」
「何ソレ!?一体何者なのよ、あの人は!」
サンディはベッドにうつぶせになり、じたばた手足を振り回している。
「それで、見えてる理由は何だったんですか?」
「…体質だって。でもそれってありえなくね?ただの人間がだよ!?ワケが分からないんですケド!」
「もう謎の体質ということにしておけば良いのでは?姿が見えて声も聞こえているとなれば、この先何かと便利でしょうし」
「…そっか。女子だけの秘密ってワケね。うーん、悪くないかも知れないけれど、それって、それでいいのかな?」
「天使的には、アリだと思います」
あっさりと言い放ったユールに、サンディが食ってかかった。
「アリなんだ!?さっきだって人間に不用意にルディアノの情報バラすし!守護天使としてどーなの?」
「私は問題ないと判断しました。…さて、あなたはまだ寝なくて大丈夫なんですか?翌朝辛くても知りませんよ」
「寝たいのは山々だけど、あのぬめぬめ男が夢に出そうでイヤ!」
勝手にしなさい、と、ユールはサンディを放っておくことにした。
2011年4月13日水曜日
シュタイン湖
シュタイン湖へ続く道は、何故見落としたのか不思議なほどあっさりと見つかった。
「大分、城の方に戻ってきてしまいましたね」
「てゆーか、この橋渡ったらもう城じゃね?」
昨日一日は本当に何だったのか。遅ればせながら遠い目になりつつ歩いていたユールだったが、森を抜けた先に広がる湖の風景にたちまち目を輝かせることとなった。
雲一つない青空。遮るものなく照る太陽が眩しい。涼やかな風が吹き渡る湖面は空よりやや深い色を讃えている。深い森に隠されたシュタイン湖はのどかに平和で、黒騎士はおろか魔物の気配もなかった。
「黒騎士があの姫さまを待ってる場所ってここ?てゆーか黒騎士なんていなくない?呼んどいていないって、どゆコト?どーするユール。もうちょっとここで待っとく?」
「約束の期日は今日だろう?相手が来てないんじゃどうしようもないな」
サンディに続いてアスラムが口を開いた。どちらに答えたものか、ユールは一瞬戸惑った。
「王に、黒騎士はいませんでしたと報告して済むとは思えないが」
「多少なんかやったフリしなきゃヤバくね?」
セラパレスが腕を組んで考え込んだ。その周囲をふよふよとサンディが飛び回る。
ユールは湖を眺め、続いて空を見上げた。太陽は既に高い位置にあり、湖のひんやりした空気に日差しの暖かさが心地よかった。
「もう少しここで黒騎士を待ってみようと思います。ひとまずお昼ごはんにしませんか?」
湖畔の原っぱで一行は昼食を摂った。その後、手分けして湖を捜索したり、アスラムから組み手の稽古を受けたり、セラパレスとメルフィナが薬草採取に行くのと手伝ったりしていたら夜になったが、一向に黒騎士は現れない。
「てゆーか、黒騎士来ないし!女子との約束ブッチするなんて、ありえないんですケド!」
とっぷり日の暮れた湖畔で、ユールたちは再び話し合った。サンディは完全にヘソを曲げてしまっている。
「これだけ待っても来ないのでは、仕方ないですね…」
ユールの言葉に全員が頷いた。青ざめた月明かりの元では、どの顔もどんより疲れて見えた。
「そーそー!王さまには黒騎士なんていなかったって言っとけばいいし…なーんつって、振り返ればヤツがいる、みたいな?」
サンディの言葉が終わらぬ内に、背後の木立がガサリと音を立てた。おのおの武器を手に振り仰いだ高台には、満月を背に昂然と立つ騎影。風にはためく漆黒の外套。騎士の携えた長槍が月明かりを反射して不穏に輝く。
「マ、マ、マ、マジッすかー!?」
サンディの叫びに呼応するかのように、黒騎士が馬を駆り湖畔へ降り立った。甲冑の奥の顔は影に隠れて見えない。
「ようやくお出ましか」
アスラムがやれやれとため息をついた。一行は素早く半円形に散開し、サンディは慌てて近くの木立に逃げ込んだ。
「誰だ…キサマ…?キサマに用はない…姫君はどこだ…」
黒騎士が低い唸りとともに、言葉を発した。
(古語だ!でも、この言葉を話す人間はもういないはず。この人は一体…もしかして、人ではないのか?)
「何だ?呪文か?」
「いいえ、魔力は感じられないわ」
天使たるユールは正確に意味を聞き取ったが、耳慣れぬ響きに人間たちは戸惑いを隠せない。
「姫君を出せッ!我が麗しの姫をッ!」
長槍を掲げて黒騎士が吼えた。仰のいたその顔は灰色の骸骨。うつろな眼窩に炎のような赤が宿った。
「おい!こいつは何を興奮してる!?」
「姫を出せと言ってます!」
黒騎士がまっすぐに突進してきた。長槍のなぎ払いを避けながら、ユールは叫んだ。
「ここにはいないって言ってやれ!」
「話を聞く状況じゃないでしょう!完全に頭に血が上ってしまっている!」
黒騎士は一人一人確実に相手を潰していこうと判断したらしい。最初に標的となったユールは、恐ろしい速さで繰り出される稲妻突きをかわすだけで精一杯だ。
セラパレスがユールにスカラをかけ、彼女が囮になっている隙にアスラムが攻撃を仕掛けた。
しかし、黒騎士の馬が蹄を振り上げ、うかつに近づけない。主と同じく漆黒の装具を纏った馬は、その巨体に似合わぬ俊敏さで人間たちを翻弄する。
セラパレスとメルフィナは、前線に立つユールとアスラムの治療に忙しい。なかなか攻撃の糸口がつかめぬまま、しばし小競り合いが続く。
「うわっ!」
「ユール!」
黒騎士の長槍の一撃を受け止めきれず、ユールの小柄な体が宙を舞った。地面にしたたかに叩きつけられたが、彼女は何とか立ち上がった。セラパレスのスカラがなかったら、大事になっていた所だ。
「メル、援護を頼む」
「ええ」
ユールの手当てをセラパレスに任せ、アスラムとメルフィナが動いた。
静かな声音で紡がれた魔法が氷塊を生み、馬の顔面を直撃する。棹立ちになった馬を御すべく黒騎士の意識がユールから離れた所へ、アスラムが飛び膝蹴りを食らわせた。
流れるように伸びた武闘家の腕が黒騎士の頭部を殴りつけ、その首を締め上げた。黒騎士は彼を振りほどこうともがく。
「この…!じたばたすんなっつの!」
メルフィナのヒャドが再び炸裂し、馬が乗り手ともども横倒しになった。
地に落ちた瞬間、黒騎士は拘束する腕が緩んだ隙を逃さず体勢を立て直し、アスラムへ容赦なく五月雨突きを浴びせた。
「アスラムさん!」
全快したユールが黒騎士に斬りかかる。相手の鎧のつなぎ目、腕の付け根を狙って剣を突き立てた。
凄まじい叫びを上げた黒騎士に蹴られ、ユールはたまらず剣を手放してしまった。
セラパレスがホイミを唱えたが、傷が深く完全には癒せない。膝を突くアスラムを支えようと、ユールは手を伸ばした。
「アスラムさん。今、手当てを!」
「ヤツから目を離すなチビ助…っ」
苦しげながらも力強い叱責が飛ぶ。メラで黒騎士を足止めしているメルフィナを、武器をなくしたユールが魔法で援護する。
駆けつけたセラパレスの治療により、アスラムが再び立ち上がった。手足の具合を確かめるようにあちこち曲げたり伸ばしたりしている。
「かなり手強い相手だ。長引くとまずいな」
「次で決めるさ。いいとこまで来てる」
大怪我もものともせず、笑みさえ浮かべる武闘家に深刻さは全くない。やれやれと首を振り、セラパレスはアスラムにスカラをかけた。
「全力で行って来い」
「誰に言ってる?」
セラパレスの肩を拳で叩き、アスラムはユールとメルフィナに向き直った。。
「2人とも下がってろ。あとは俺がやる」
「いいえ、助太刀いたします」
「状況を考えてものを言え、チビ助」
アスラムのきつい視線をひるまず受け止め、ユールは答えた。
「お任せを」
2人の間に佇むメルフィナは、無言で見守るのみだ。
「…いいだろう」
アスラムが黒騎士に向かっていく。黒騎士はふらつきながらも肩口に刺さった剣を投げ捨て、長槍を構え直した。武闘家の正拳突きが、蹴りが全て槍でガードされてしまう。
ユールはぐっと眉間に精神を集中させた。
(アスラムさんに、私の力を…!)
手足を舞うようにひらめかせたユールは、己の力を光へ変え、アスラム目がけて投げつけた。
昨夜、メルフィナと宿へ戻る途中、彼女はくたびれ果て、今にも倒れそうな若い女性に出会った。
「応援してくれる、その気持ちだけで私は頑張れると思うんです!」という彼女を力いっぱい励ました所で、天使の秘技を一つ思い出したのだ。
自らの力を特定の誰かに分け与えるその技は、見習い時代にはついぞ出番がなかったが、ここでこそ役に立つはずだ。
ユールの投げた光がアスラムの背へすっと吸い込まれた。攻めあぐねていた武闘家の動きが急に機敏になり、一気に形勢が逆転する。勢いが増したアスラムの拳が黒騎士の長槍を弾き飛ばし、甲冑の胸を殴りつけた。仰向けに倒れた黒騎士は完全に意識を飛ばしている。
「やっと大人しくなったか…」
「アスラムさーん!やりましたね!」
彼に駆け寄ったユールは、髪をぐしゃぐしゃにかき回され、悲鳴を上げた。
「こらチビ。何だよ今のは。バイキルトか?」
「え、えーと、そんな感じです!」
アスラムの手から逃げ回っていると、
「ちょっとユール!黒騎士動いてる!」
サンディが叫んだ。見ると、倒れていた黒騎士がよろめきながらも立ち上がろうとしている。
皆の顔に緊張が走る。サンディは地面に転がる長槍を取られまいと、小さな体で精一杯踏ん張った。そんな彼女の上に、ふと影が落ちた。
「手伝うわ。あなた一人じゃ心配だもの」
「やった!アリガトー!…って、あれ?」
頭上の影に元気よく返事したサンディが固まる。にっこり笑ったメルフィナが可愛げたっぷりにウィンクをした。
「な…、何でアタシが見えるんデスカ?」
動作も口調もカクカクしながら、サンディが尋ねた。
「話は後で。今は黒騎士に集中しましょう」
メルフィナ黒騎士をひたと見据えた。
起き上がった黒騎士は、その場に膝を突き、蹲った。傷の痛みより嘆きの方が深いのか、黒騎士は力無い声で自問をくり返している。
「何故…何故、姫君は貴様のような者を遣わした…。メリア姫はもう私のことを…。あの時交わした約束は偽りだったというのか…!」
「ユール。彼は今度は何と言っているんだ?」
苦しんでいるなら楽にしてやった方がいいのか、とセラパレスが槍をひらめかせる。
「メリア姫が私たちをここに寄越して、自分との約束を反故にしたと思っているようです」
「メリア姫?」
サンディは悲嘆に暮れる黒騎士の姿を何とも言えない目で眺め、ユールに言った。
「ねえユール。この騎士キモくない?メリアって誰?確か、あの姫の名前はフィオーネ…。メリアなんて名前じゃないんですケド」
「それはまことか!?」
「キャーッ!!」
ガバッと勢い良く立ち上がった黒騎士は丸腰とは言え迫力がある。彼の大声に驚いたサンディは、慌ててユールの後頭部にしがみついた。
「チビ助、通訳!」
「えと、姫の名がメリアではなくフィオーネだと知って驚いてます!」
「何!?何でこの人もアタシが見えんのぉ!?マジ、ビックリしたんんですケドッ!」
(そういえば、サンディが見える見えないの基準って何なんですかねえ)
騒ぎをよそにユールが呑気に考え込んでいると、黒騎士が彼女に向かって、正確にはその背後に隠れているサンディに向かって問いを重ねた。
「なあ、教えてくれ…。あの城にいたのはメリア姫ではなく別の者だったというのは、本当か?」
「だーかーらー!フィオーネだっつってんじゃん!フィ、オー、ネッ!」
「何てことだ…。あの姫君はメリア姫ではなかったのか…。言われてみれば、彼女はルディアノ王家に代々伝わるあの首飾りをしていなかった…」
サンディの返答に目に見えて落胆し、黒騎士はがっくりと肩を落とした。
「一体あなたはどういう方なのですか?失礼ながら、既にお亡くなりになられているのでは…」
ユールが黒騎士に問いかけたが、返答は無い。
「どういうって、どう考えても死んでるだろう。顔がガイコツだぜ」
「ただ、魔物の割には邪悪さが薄い気がするわね」
「我々を襲った理由も姫君がらみという、ごく私的な内容だしな」
人間たちが口々に囁き合うのを尻目に、ユールは古語で問い直した。すると、ぽつぽつ思いつくままに黒騎士が語り始めた。やはり彼には古語でないと通じないらしい。
「私は深い眠りについていた…。そして、あの大地震と共に何かから解き放たれるように、この見知らぬ土地で目覚めたのだ。しかしその時の私は、自分が何者か分からないほど記憶を失っていた…。そんな折、あの異国の姫を見かけ、自分と…メリア姫のことを思い出したのだ。私の名はレオコーン。そして、メリア姫というのは我が祖国ルディアノ王国の姫。私とメリア姫は永遠の愛を誓い、祖国での婚礼を控えていた仲だった…」
「じゃあ何?ぶっちゃけレオコーンはフィオーネ姫と元カノを間違えちゃったワケ?どんだけ似てたのよ、フィオーネ姫とメリア姫って」
「面目ない。一目見た愛しき姫の姿に全てを忘れ、あのような騒ぎに…。私は自らの過ちを正すため、今一度あの城へ行かねばなるまいな…」
「いやいやいや!アンタ立ってるだけで怖いんだから、また大騒ぎになるって!」
ユールが人間たちに通訳している横で、サンディとレオコーンの間で話が進んでいた。
「ねえ、ユールも止めてよ。この人が城に行っても、またややこしくなるだけだって」
サンディの言い分ももっともだ。ユールはレオコーンに語りかけた。
「お気持ちは分かりますが、あなたが城に赴くのは得策ではないと思います。代わりに、私があなたの言葉を城の人々に伝えましょう。もう城には近づかない、と」
彼女の申し出に、黒騎士は深々と頭を下げ、謝意を示した。そして、少し離れた所で倒れている愛馬の具合を確かめながら言った。
「私はこれからルディアノを探すつもりだ。城では、きっと本当のメリア姫が私の帰りを待っているはず…」
装具をがちゃがちゃ言わせながら、馬はすんなりと立ち上がった。ユールたちに別れを告げ、颯爽と馬上の人となった黒騎士レオコーンは、深い闇に包まれた森の奥へと消えていった。
湖畔に静寂が戻る。夜風の冷ややかさに、呆けていた一行がはっと我に帰る。
「つまり何だ。黒騎士は人違いで騒ぎを起こしてたってことか?」
「ルディアノなどという国は聞いたことがない。本当に実在するのか?」
「…その国の手がかりなら、この子が持っているのではなくて?ルディアノの民とごく普通に話せていたのは何故なのかしら」
3人の視線がユールに集中した。彼女はどぎまぎしながら答えた。
「あー。あれはですね、古語の一種でして。うちのおじいちゃんがよく話していたのを思い出したのです」
おじいちゃん、で思い浮かべた顔はもちろんオムイ様だ。幼少の見習い天使たちは、彼から直々に講義を受けることもあったので、まるっきり嘘というわけでもない。
人間たちは、納得したようなしていないような、微妙な顔をしている。
「古語と変な踊りに堪能な旅芸人サマか」
「へ、変な踊りとは失礼な!応援の気持ちの現れです!」
アスラムが混ぜ返し、ユールがムキになってそれに噛み付いた。
「身振り手振り付きのバイキルトは、結構珍しいんじゃないか?専門家のご意見を是非聞きたいね」
セラパレスが傍らの魔法使いを見やる。
「ふふ…。そりゃあ普通の術者は普通に詠唱した方が楽だもの」
ねえ、とメルフィナに目線で同意を求められ、サンディはびくりと硬直した。
まだ騒いでいるアスラムとユールに、セラパレスが苦笑しながら声を掛けた。
「こらこら2人とも。元気で何よりだが、もう夜も遅い。一度セントシュタインへ戻らないか?」
「それには大いに賛成だが、ここから城まで歩くのか?」
うんざり顔のアスラムにセラパレスがキメラの翼を差し出すと、彼の表情が一転して明るくなった。
「じゃあ、ひとっ飛びに戻るとするか!」
ユールは、金の装飾が施された白い翼に興味津々だ。実はそれは装飾ではなくキメラの体組織の一部なのだが。
天使たる彼女はキメラの翼の効能を知識としては知っていても、実際に使ってみるのはこれが初めてだったのだ。
「どんな感じに飛ぶんですか?痛い?苦しい?」
「そんな物騒なものではないよ。ビュンッって感じだろうか」
とにかく一瞬だよ、とセラパレスが笑った。
「いや、ギューッって上へ引っ張られる気がするけどな、俺は」
「では、引っ張る力が強すぎて、もげたり千切れたり!?」
「そんな悲しい事故は聞いたことがないわね」
使ってみるかいとキメラの翼を渡されて、ユールはそれをしっかりと握り締めた。
「責任重大ですね…。それでは一投、行かせていただきます!えいっ!」
盛大な掛け声と共に、キメラの翼はべしっと地面に叩きつけられた。
アスラムは腹を抱えて爆笑し、セラパレスとメルフィナは微妙な眼差しでユールを見た。
「それは上に投げるんだよ…」
「ああ!」
恥ずかしいじゃないですか!とぶつくさ言いながら、ユールが再び投げたキメラの翼。金の装飾がきらめいたその一瞬後、ユールたちはセントシュタインの城門前へと降り立っていた。
「大分、城の方に戻ってきてしまいましたね」
「てゆーか、この橋渡ったらもう城じゃね?」
昨日一日は本当に何だったのか。遅ればせながら遠い目になりつつ歩いていたユールだったが、森を抜けた先に広がる湖の風景にたちまち目を輝かせることとなった。
雲一つない青空。遮るものなく照る太陽が眩しい。涼やかな風が吹き渡る湖面は空よりやや深い色を讃えている。深い森に隠されたシュタイン湖はのどかに平和で、黒騎士はおろか魔物の気配もなかった。
「黒騎士があの姫さまを待ってる場所ってここ?てゆーか黒騎士なんていなくない?呼んどいていないって、どゆコト?どーするユール。もうちょっとここで待っとく?」
「約束の期日は今日だろう?相手が来てないんじゃどうしようもないな」
サンディに続いてアスラムが口を開いた。どちらに答えたものか、ユールは一瞬戸惑った。
「王に、黒騎士はいませんでしたと報告して済むとは思えないが」
「多少なんかやったフリしなきゃヤバくね?」
セラパレスが腕を組んで考え込んだ。その周囲をふよふよとサンディが飛び回る。
ユールは湖を眺め、続いて空を見上げた。太陽は既に高い位置にあり、湖のひんやりした空気に日差しの暖かさが心地よかった。
「もう少しここで黒騎士を待ってみようと思います。ひとまずお昼ごはんにしませんか?」
湖畔の原っぱで一行は昼食を摂った。その後、手分けして湖を捜索したり、アスラムから組み手の稽古を受けたり、セラパレスとメルフィナが薬草採取に行くのと手伝ったりしていたら夜になったが、一向に黒騎士は現れない。
「てゆーか、黒騎士来ないし!女子との約束ブッチするなんて、ありえないんですケド!」
とっぷり日の暮れた湖畔で、ユールたちは再び話し合った。サンディは完全にヘソを曲げてしまっている。
「これだけ待っても来ないのでは、仕方ないですね…」
ユールの言葉に全員が頷いた。青ざめた月明かりの元では、どの顔もどんより疲れて見えた。
「そーそー!王さまには黒騎士なんていなかったって言っとけばいいし…なーんつって、振り返ればヤツがいる、みたいな?」
サンディの言葉が終わらぬ内に、背後の木立がガサリと音を立てた。おのおの武器を手に振り仰いだ高台には、満月を背に昂然と立つ騎影。風にはためく漆黒の外套。騎士の携えた長槍が月明かりを反射して不穏に輝く。
「マ、マ、マ、マジッすかー!?」
サンディの叫びに呼応するかのように、黒騎士が馬を駆り湖畔へ降り立った。甲冑の奥の顔は影に隠れて見えない。
「ようやくお出ましか」
アスラムがやれやれとため息をついた。一行は素早く半円形に散開し、サンディは慌てて近くの木立に逃げ込んだ。
「誰だ…キサマ…?キサマに用はない…姫君はどこだ…」
黒騎士が低い唸りとともに、言葉を発した。
(古語だ!でも、この言葉を話す人間はもういないはず。この人は一体…もしかして、人ではないのか?)
「何だ?呪文か?」
「いいえ、魔力は感じられないわ」
天使たるユールは正確に意味を聞き取ったが、耳慣れぬ響きに人間たちは戸惑いを隠せない。
「姫君を出せッ!我が麗しの姫をッ!」
長槍を掲げて黒騎士が吼えた。仰のいたその顔は灰色の骸骨。うつろな眼窩に炎のような赤が宿った。
「おい!こいつは何を興奮してる!?」
「姫を出せと言ってます!」
黒騎士がまっすぐに突進してきた。長槍のなぎ払いを避けながら、ユールは叫んだ。
「ここにはいないって言ってやれ!」
「話を聞く状況じゃないでしょう!完全に頭に血が上ってしまっている!」
黒騎士は一人一人確実に相手を潰していこうと判断したらしい。最初に標的となったユールは、恐ろしい速さで繰り出される稲妻突きをかわすだけで精一杯だ。
セラパレスがユールにスカラをかけ、彼女が囮になっている隙にアスラムが攻撃を仕掛けた。
しかし、黒騎士の馬が蹄を振り上げ、うかつに近づけない。主と同じく漆黒の装具を纏った馬は、その巨体に似合わぬ俊敏さで人間たちを翻弄する。
セラパレスとメルフィナは、前線に立つユールとアスラムの治療に忙しい。なかなか攻撃の糸口がつかめぬまま、しばし小競り合いが続く。
「うわっ!」
「ユール!」
黒騎士の長槍の一撃を受け止めきれず、ユールの小柄な体が宙を舞った。地面にしたたかに叩きつけられたが、彼女は何とか立ち上がった。セラパレスのスカラがなかったら、大事になっていた所だ。
「メル、援護を頼む」
「ええ」
ユールの手当てをセラパレスに任せ、アスラムとメルフィナが動いた。
静かな声音で紡がれた魔法が氷塊を生み、馬の顔面を直撃する。棹立ちになった馬を御すべく黒騎士の意識がユールから離れた所へ、アスラムが飛び膝蹴りを食らわせた。
流れるように伸びた武闘家の腕が黒騎士の頭部を殴りつけ、その首を締め上げた。黒騎士は彼を振りほどこうともがく。
「この…!じたばたすんなっつの!」
メルフィナのヒャドが再び炸裂し、馬が乗り手ともども横倒しになった。
地に落ちた瞬間、黒騎士は拘束する腕が緩んだ隙を逃さず体勢を立て直し、アスラムへ容赦なく五月雨突きを浴びせた。
「アスラムさん!」
全快したユールが黒騎士に斬りかかる。相手の鎧のつなぎ目、腕の付け根を狙って剣を突き立てた。
凄まじい叫びを上げた黒騎士に蹴られ、ユールはたまらず剣を手放してしまった。
セラパレスがホイミを唱えたが、傷が深く完全には癒せない。膝を突くアスラムを支えようと、ユールは手を伸ばした。
「アスラムさん。今、手当てを!」
「ヤツから目を離すなチビ助…っ」
苦しげながらも力強い叱責が飛ぶ。メラで黒騎士を足止めしているメルフィナを、武器をなくしたユールが魔法で援護する。
駆けつけたセラパレスの治療により、アスラムが再び立ち上がった。手足の具合を確かめるようにあちこち曲げたり伸ばしたりしている。
「かなり手強い相手だ。長引くとまずいな」
「次で決めるさ。いいとこまで来てる」
大怪我もものともせず、笑みさえ浮かべる武闘家に深刻さは全くない。やれやれと首を振り、セラパレスはアスラムにスカラをかけた。
「全力で行って来い」
「誰に言ってる?」
セラパレスの肩を拳で叩き、アスラムはユールとメルフィナに向き直った。。
「2人とも下がってろ。あとは俺がやる」
「いいえ、助太刀いたします」
「状況を考えてものを言え、チビ助」
アスラムのきつい視線をひるまず受け止め、ユールは答えた。
「お任せを」
2人の間に佇むメルフィナは、無言で見守るのみだ。
「…いいだろう」
アスラムが黒騎士に向かっていく。黒騎士はふらつきながらも肩口に刺さった剣を投げ捨て、長槍を構え直した。武闘家の正拳突きが、蹴りが全て槍でガードされてしまう。
ユールはぐっと眉間に精神を集中させた。
(アスラムさんに、私の力を…!)
手足を舞うようにひらめかせたユールは、己の力を光へ変え、アスラム目がけて投げつけた。
昨夜、メルフィナと宿へ戻る途中、彼女はくたびれ果て、今にも倒れそうな若い女性に出会った。
「応援してくれる、その気持ちだけで私は頑張れると思うんです!」という彼女を力いっぱい励ました所で、天使の秘技を一つ思い出したのだ。
自らの力を特定の誰かに分け与えるその技は、見習い時代にはついぞ出番がなかったが、ここでこそ役に立つはずだ。
ユールの投げた光がアスラムの背へすっと吸い込まれた。攻めあぐねていた武闘家の動きが急に機敏になり、一気に形勢が逆転する。勢いが増したアスラムの拳が黒騎士の長槍を弾き飛ばし、甲冑の胸を殴りつけた。仰向けに倒れた黒騎士は完全に意識を飛ばしている。
「やっと大人しくなったか…」
「アスラムさーん!やりましたね!」
彼に駆け寄ったユールは、髪をぐしゃぐしゃにかき回され、悲鳴を上げた。
「こらチビ。何だよ今のは。バイキルトか?」
「え、えーと、そんな感じです!」
アスラムの手から逃げ回っていると、
「ちょっとユール!黒騎士動いてる!」
サンディが叫んだ。見ると、倒れていた黒騎士がよろめきながらも立ち上がろうとしている。
皆の顔に緊張が走る。サンディは地面に転がる長槍を取られまいと、小さな体で精一杯踏ん張った。そんな彼女の上に、ふと影が落ちた。
「手伝うわ。あなた一人じゃ心配だもの」
「やった!アリガトー!…って、あれ?」
頭上の影に元気よく返事したサンディが固まる。にっこり笑ったメルフィナが可愛げたっぷりにウィンクをした。
「な…、何でアタシが見えるんデスカ?」
動作も口調もカクカクしながら、サンディが尋ねた。
「話は後で。今は黒騎士に集中しましょう」
メルフィナ黒騎士をひたと見据えた。
起き上がった黒騎士は、その場に膝を突き、蹲った。傷の痛みより嘆きの方が深いのか、黒騎士は力無い声で自問をくり返している。
「何故…何故、姫君は貴様のような者を遣わした…。メリア姫はもう私のことを…。あの時交わした約束は偽りだったというのか…!」
「ユール。彼は今度は何と言っているんだ?」
苦しんでいるなら楽にしてやった方がいいのか、とセラパレスが槍をひらめかせる。
「メリア姫が私たちをここに寄越して、自分との約束を反故にしたと思っているようです」
「メリア姫?」
サンディは悲嘆に暮れる黒騎士の姿を何とも言えない目で眺め、ユールに言った。
「ねえユール。この騎士キモくない?メリアって誰?確か、あの姫の名前はフィオーネ…。メリアなんて名前じゃないんですケド」
「それはまことか!?」
「キャーッ!!」
ガバッと勢い良く立ち上がった黒騎士は丸腰とは言え迫力がある。彼の大声に驚いたサンディは、慌ててユールの後頭部にしがみついた。
「チビ助、通訳!」
「えと、姫の名がメリアではなくフィオーネだと知って驚いてます!」
「何!?何でこの人もアタシが見えんのぉ!?マジ、ビックリしたんんですケドッ!」
(そういえば、サンディが見える見えないの基準って何なんですかねえ)
騒ぎをよそにユールが呑気に考え込んでいると、黒騎士が彼女に向かって、正確にはその背後に隠れているサンディに向かって問いを重ねた。
「なあ、教えてくれ…。あの城にいたのはメリア姫ではなく別の者だったというのは、本当か?」
「だーかーらー!フィオーネだっつってんじゃん!フィ、オー、ネッ!」
「何てことだ…。あの姫君はメリア姫ではなかったのか…。言われてみれば、彼女はルディアノ王家に代々伝わるあの首飾りをしていなかった…」
サンディの返答に目に見えて落胆し、黒騎士はがっくりと肩を落とした。
「一体あなたはどういう方なのですか?失礼ながら、既にお亡くなりになられているのでは…」
ユールが黒騎士に問いかけたが、返答は無い。
「どういうって、どう考えても死んでるだろう。顔がガイコツだぜ」
「ただ、魔物の割には邪悪さが薄い気がするわね」
「我々を襲った理由も姫君がらみという、ごく私的な内容だしな」
人間たちが口々に囁き合うのを尻目に、ユールは古語で問い直した。すると、ぽつぽつ思いつくままに黒騎士が語り始めた。やはり彼には古語でないと通じないらしい。
「私は深い眠りについていた…。そして、あの大地震と共に何かから解き放たれるように、この見知らぬ土地で目覚めたのだ。しかしその時の私は、自分が何者か分からないほど記憶を失っていた…。そんな折、あの異国の姫を見かけ、自分と…メリア姫のことを思い出したのだ。私の名はレオコーン。そして、メリア姫というのは我が祖国ルディアノ王国の姫。私とメリア姫は永遠の愛を誓い、祖国での婚礼を控えていた仲だった…」
「じゃあ何?ぶっちゃけレオコーンはフィオーネ姫と元カノを間違えちゃったワケ?どんだけ似てたのよ、フィオーネ姫とメリア姫って」
「面目ない。一目見た愛しき姫の姿に全てを忘れ、あのような騒ぎに…。私は自らの過ちを正すため、今一度あの城へ行かねばなるまいな…」
「いやいやいや!アンタ立ってるだけで怖いんだから、また大騒ぎになるって!」
ユールが人間たちに通訳している横で、サンディとレオコーンの間で話が進んでいた。
「ねえ、ユールも止めてよ。この人が城に行っても、またややこしくなるだけだって」
サンディの言い分ももっともだ。ユールはレオコーンに語りかけた。
「お気持ちは分かりますが、あなたが城に赴くのは得策ではないと思います。代わりに、私があなたの言葉を城の人々に伝えましょう。もう城には近づかない、と」
彼女の申し出に、黒騎士は深々と頭を下げ、謝意を示した。そして、少し離れた所で倒れている愛馬の具合を確かめながら言った。
「私はこれからルディアノを探すつもりだ。城では、きっと本当のメリア姫が私の帰りを待っているはず…」
装具をがちゃがちゃ言わせながら、馬はすんなりと立ち上がった。ユールたちに別れを告げ、颯爽と馬上の人となった黒騎士レオコーンは、深い闇に包まれた森の奥へと消えていった。
湖畔に静寂が戻る。夜風の冷ややかさに、呆けていた一行がはっと我に帰る。
「つまり何だ。黒騎士は人違いで騒ぎを起こしてたってことか?」
「ルディアノなどという国は聞いたことがない。本当に実在するのか?」
「…その国の手がかりなら、この子が持っているのではなくて?ルディアノの民とごく普通に話せていたのは何故なのかしら」
3人の視線がユールに集中した。彼女はどぎまぎしながら答えた。
「あー。あれはですね、古語の一種でして。うちのおじいちゃんがよく話していたのを思い出したのです」
おじいちゃん、で思い浮かべた顔はもちろんオムイ様だ。幼少の見習い天使たちは、彼から直々に講義を受けることもあったので、まるっきり嘘というわけでもない。
人間たちは、納得したようなしていないような、微妙な顔をしている。
「古語と変な踊りに堪能な旅芸人サマか」
「へ、変な踊りとは失礼な!応援の気持ちの現れです!」
アスラムが混ぜ返し、ユールがムキになってそれに噛み付いた。
「身振り手振り付きのバイキルトは、結構珍しいんじゃないか?専門家のご意見を是非聞きたいね」
セラパレスが傍らの魔法使いを見やる。
「ふふ…。そりゃあ普通の術者は普通に詠唱した方が楽だもの」
ねえ、とメルフィナに目線で同意を求められ、サンディはびくりと硬直した。
まだ騒いでいるアスラムとユールに、セラパレスが苦笑しながら声を掛けた。
「こらこら2人とも。元気で何よりだが、もう夜も遅い。一度セントシュタインへ戻らないか?」
「それには大いに賛成だが、ここから城まで歩くのか?」
うんざり顔のアスラムにセラパレスがキメラの翼を差し出すと、彼の表情が一転して明るくなった。
「じゃあ、ひとっ飛びに戻るとするか!」
ユールは、金の装飾が施された白い翼に興味津々だ。実はそれは装飾ではなくキメラの体組織の一部なのだが。
天使たる彼女はキメラの翼の効能を知識としては知っていても、実際に使ってみるのはこれが初めてだったのだ。
「どんな感じに飛ぶんですか?痛い?苦しい?」
「そんな物騒なものではないよ。ビュンッって感じだろうか」
とにかく一瞬だよ、とセラパレスが笑った。
「いや、ギューッって上へ引っ張られる気がするけどな、俺は」
「では、引っ張る力が強すぎて、もげたり千切れたり!?」
「そんな悲しい事故は聞いたことがないわね」
使ってみるかいとキメラの翼を渡されて、ユールはそれをしっかりと握り締めた。
「責任重大ですね…。それでは一投、行かせていただきます!えいっ!」
盛大な掛け声と共に、キメラの翼はべしっと地面に叩きつけられた。
アスラムは腹を抱えて爆笑し、セラパレスとメルフィナは微妙な眼差しでユールを見た。
「それは上に投げるんだよ…」
「ああ!」
恥ずかしいじゃないですか!とぶつくさ言いながら、ユールが再び投げたキメラの翼。金の装飾がきらめいたその一瞬後、ユールたちはセントシュタインの城門前へと降り立っていた。
2011年1月26日水曜日
桜の里
夕日を受けて金色に輝く大地を、北へ。
ユールと3人の仲間たちは、黒騎士との約束の地であるシュタイン湖を目指して北上を続けていた。
途中、大地震の直後から日増しに凶暴になってきている魔物たちに何度か遭遇した。いずれも危なげなく撃退し、特に問題なく進んできていたのだが、一行は迫り来る日没を前に途方に暮れていた。
セントシュタインの城下町を出てすぐの、橋を渡った所に湖への案内板が立っていた。その指示通りに北へ進んでいたのだが、一向に湖が見えて来ないのだ。
城でもらった地図は古く、絵が大雑把で街道なのか川なのかすら区別がつかないようなシロモノで、全く頼りにならなかった。
「シュタイン湖は地元の人間もあまり足を踏み入れない場所だからな。私も道はよく知らないんだ」
セラパレスが茜色の空を仰いでため息をつきつつ、言った。
「それにしても、随分長いこと麦畑の中を歩いてるぞ。おかしくないか?」
ばさばさと目の前の麦を掻き分けつつ、アスラムが言った。
「地図だと、森の所で東に曲がることになっているんですが」
森なんてありましたっけ、とユールが首をかしげつつ、言った。
「この道の先に、目印の森があるのかしら」
夕暮れの匂いを纏った風に目を細めつつ、メルフィナが言った。
「そもそもこの道はどこに繋がっているんでしょう?」
「地図に書いてあるはずじゃね?」
ユールの頭上で欠伸と伸びをしつつ、サンディが言った。
「しかし、どこまでも麦だな。黄金色が眩しいぜ」
「皆さん、提案なのですが、一度、来た道を戻った方が良いように思います」
「…いや、時間切れだろうな。もう間もなく日が暮れる。この先にエラフィタ村があるから、そこでちゃんと道を確認して明日出直すことにした方がいい」
一行が麦畑のはずれに巨大な桜の木とこじんまりとした集落を見つけたのは、それから間もなくのことだった。
エラフィタ村で唯一の宿屋で、さっそく女将に湖までの道のりを聞いた。
麦畑に入る前に目印の森を通過してしまったことを知った4人は愕然とした。道を間違えなければ、今日の昼過ぎには湖に着いていたはずだったのだ。
「おいおい、オレたちの一日は何だったんだ?」
「黒騎士の出した期限は明日よ。焦らずに行きましょう」
大人たちは宿の部屋で思い思いに過ごすというので、ユールはサンディと共に村の探検に出かけてみることにした。
エラフィタの名物である桜のご神木は、集落全体を覆い隠さんばかりにその枝を広げている。村のどこからでもその姿を見ることができた。赤に染まる夕暮れの中、淡い色の花びらがひときわ目を引いた。
村はちょうど夕飯の刻限で、あちこちの家の煙突から煙が上り、おいしそうな匂いが漂っていた。
エラフィタの天使像は宿を出てすぐの所にあった。ご神木を背に鎮座している天使像は、何と崩れて顔が無くなっていた。像としての原型を留めていないので、ユールも道端の石かと思って素通りしかけたくらいだった。
「コレ大丈夫なの?天使像じゃなくてただの石、なんですケド」
と、サンディに聞かれたユールは笑って、
「ちゃんといらっしゃいますよ。カサクという男性の上級天使で、よくここの桜を肴にお酒を嗜んでらっしゃいます。天使像はこんな状態ですけど、村の守護に影響はありませんから大丈夫。ご神木もありますから、エラフィタの守りはよそより厚いですよ」
「ふーん。おっさんの守護天使かあ。何かイメージ違うんですケド」
セントシュタインの時と同じく、像の周りにカサクの気配は感じられない。
同胞たちの声が聞けないというのは、今まで生きてきて初めてのことで、ユールは大層心細かった。
ひとまず村を一周し、教会でお祈りをしたり、村で一軒のよろず屋でこまごまとした買い物をしたりした後、彼女は散歩を切り上げて宿に戻った。
夕食に出た、エラフィタ特産の小麦粉を使って焼き上げたパンは素晴らしくおいしかった。
「ウォルロも名水のおかげでパンがおいしいんですけど、エラフィタのはもう格別ですねえ」
夕食後、仲間たちと桜のお茶を味わいながら、ユールは興奮気味に言った。
天使のユールは本来食事を摂らなくても十分動ける。しかし、トルクアムの料理に鍛えられた食いしん坊精神は、見るもの全てが目新しい人間界において遺憾なく発揮されていた。
「ほんのりと桜の味がしていたね。パンもお茶も桜の花びらをうまく使っているようだ」
ユールの茶碗におかわりを注いでやりながら、セラパレスが言った。
「ありがとうございます。…あの桜は枯れることなく、ああして綺麗な花を一年中咲かせ続けているみたいです」
ユールは、教会で読んだ絵本『エラフィタむらのごしんぼくさま』の内容を思い出しながら言った。
「枯れない花、か。ひょっとしてエラフィタのご神木には天使が宿ってるんじゃないか?女神のように美しく、桜の花のように可憐な乙女が守護する村。いいじゃないか」
「アス。村の天使像はボロボロだったようだけど?」
「野暮ったい石像なんかやめて、ご神木に住み替えたのさ」
(エラフィタの守護天使が、酔っ払いのおっさんですみません…)
アスラムとメルフィナのやり取りをよそに、ユールは一人申し訳ないような気持ちになっていた。
食堂でしばらくくつろいだ後、明日の予定を皆で確認してから、4人はそれぞれの部屋へと戻った。
宿泊手続きをしたメルフィナとアスラムが当然のように同室を希望したため、必然的にユールとサンディはセラパレスと同室ということになった。
「あの2人、やっぱり!」
ベッドの枕をバシバシ叩いて、キャーキャーとサンディがはしゃいでいる。傍らで荷物整理をしていたユールはその理由が良く分からず放っておくことにした。
セラパレスは女将に用事があるとかで出かけており、隣のベッドはカラだ。
「アンタね…。天使の修行にレンアイなんて項目が無かったのはよーっく分かってますケド!若さが足りてないヨ!」
「はしゃぐほどのことですかねえ。人間の男女の間ではごくありふれた現象ですし、当然あるべきことじゃないですか」
ユールの言葉に、サンディは心底呆れたように首を振った。
「ああ、ダメ。ダメだわ。全然ダメ」
「えー」
サンディの話に適当に相槌を打ちながら、ユールは荷物をベッドの下に置き、よろず屋で買ってきた本を手に取る。『守れ、麦!』というその本はかなり分厚く、挿絵なども一切ない。何とも難しそうな本だった。
読書を始めたユールが構ってくれず、不貞腐れたサンディはさっさと先に寝てしまった。嫌がらせのように、ユールの枕を占領している。
「何を読んでいるんだい?」
「あ、おかえりなさい」
熱中して読みふけっていたら、いつの間にかセラパレスが戻って来ていた。彼女が手にしている本を興味深そうに覗き込んでくる。
「麦と農民たちの間で繰り広げられた、血湧き肉踊る一大巨編!…になる予感がします。まだ半分も読んでいないのです」
「…何だかよく分からないが、すごそうな本だね」
「読んでいる内に、私も麦を守りたくなって来ました。彼らはおいしいパンになる運命を背負っているのですから」
「麦もまあまあ大事だが、明日に備えて早めに寝なさい。いよいよ黒騎士と刃を交えることになるんだぞ」
「はい、そうします」
天使なので睡眠は不要なのだが、説明するとややこしい。ここは敢えて反論せず、ユールは素直に彼の言葉に頷いた。
布団の中で長い夜をどう過ごそうかしばし考え、ユールは隣で寝ているサンディをつついた。
「ねえサンディ。これからご神木を見に行きませんか。夜桜がきっと綺麗ですよ」
「ハァ?木なら夕方見たじゃん…。アタシ眠いからパス。夜更かしは美容に悪いし」
面倒くさそうに片目を開けた彼女に、すげなく断られてしまった。
「じゃあ、一人で行ってきますよ…」
自分の荷物をベッドの中へ押し込んで就寝中らしく偽装してから、ユールは夜の散歩に出かけた。
農業を生業としているエラフィタの村人たちは、おしなべて夜が早い。生き物の気配すらなく、村にはただ静謐な夜の空気が満ち溢れていた。
ユールの立てる小さな足音が、思いの外大きく響く。ご神木の根元まで行く途中、夜風に散る花びらが雨のように彼女の上へと降り注いだ。
何とも不思議なことに、ご神木の枝々を彩る桜の花は、どれほど時が経っても色褪せず、常にそこにあるのだ。
「あれ?」
ご神木の根元には先客がいた。薄手のローブにアスラムの上着を羽織ったメルフィナが、ユールの気配を察して振り向いた。
「こんな時間に一人で出歩くなんて。夜道は危ないわよ」
「あなたこそ」
ユールとメルフィナは2人並んでご神木を見上げた。思いつくまま言葉を重ねる。
「この桜の花は、散っても散っても減りませんねえ」
「エラフィタ村に暮らす人たちの思い、願いがご神木に届いて、花を咲かせ続けているのかも知れないわね」
「人の心を汲み取ってくれるなんて、さすがはご神木ですね」
くすりと小さく笑みをこぼし、メルフィナはユールに向き直った。
「ところでユール。あの小さな妖精さんは一緒じゃないの?」
メルフィナが発した問いに、ユールはぎくりとした。
(見えているのだろうか。彼女は人間だからそれはありえないはず…)
「…えーと。夜更かしは美容に良くないからと、部屋で寝ています」
ひとまず様子をみようと、ユールは適当に彼女の話に合わせておくことにした。返答まで不自然にあいた間については気づかぬフリで、メルフィナは「そう」とだけ言った。
そこから会話が途切れてしまった。夜の闇とも相まって、静寂が重苦しくユールにのしかかる。
何か言わなきゃと内心で焦る彼女とは対照的に、落ち着き払った声音でメルフィナが言った。
「ルイーダの酒場であなたが語った身の上話を、思い出していたのだけど」
どんなことだろう。ユールは額に嫌な汗が浮かんでくるのを感じた。
「あなたが天使でも魔物でも、ちょっと変わった人間の女の子でも構わない。あなたにはあなたの目的があり、私にも私の目的がある。あなたと私の向かう先が一致している間は、手を取り合って進めるわ。そうでしょう?」
「…メルフィナさん。あなたは私を大嘘つきだとはおっしゃらないんですね」
「もし本当に大嘘つきなら、今のうちに話しておいてもらえるかしら」
新しく対処法を考える、とにっこり笑顔で言われたが、その対処法の内容は恐ろしくてとても聞けなかった。
「私の身の上話…我がことながら、信じていただけるとは到底思えないのですが」
「世界はいろいろな謎に満ちている。その謎の答えを知りたくて私は旅に出たのだけど…これまでに本当に多くのものを見てきたわ。だからかしら。あなたのことも、あなたの小さな妖精さんのことも、すんなり納得できたのね」
「では、アスラムさんは、このことは…?」
メルフィナはゆるりと首を振った。
「よろしければお話しいただいても構いませんよ。アスラムさんはあなたの、その、パートナーなのでしょう?あっ、これはむしろメルフィナさんが頭の具合は大丈夫かと心配されてしまうような内容です、よね…」
困りましたね、とあちこち視線をさまよわせるユールに、メルフィナはふふ、と笑みを浮かべた。
「しかるべき時が来れば、知るべき者の前に、おのずと真実が明るみに出るわ」
そろそろ冷えてきたから宿に戻りましょう、と彼女に促されて、ユールは来た道を歩き出した。
自分はこのまま天使界に戻れないのではないか、という甚だありがたくない未来がふとユールの頭をよぎった。
(もし万が一そうなったとしても自分には仲間たちがいる。だから大丈夫)
根拠のない、奇妙な安心感だった。出会って2日目の、しかも人間相手に抱く感情としてはいささか行き過ぎのように思われたが、目まぐるしい日々の中で混乱しているユールの中で確かなものはこれだけだった。
彼女は並んで歩くメルフィナに正直にそう告げてみた。よほど心細そうな顔をしていたのか、よしよしと優しく頭を撫でられてしまった。
「ご期待に添えると思うわ、天使さん。安心なさい」
柔らかく微笑むメルフィナの赤い瞳が、月光を受けてきらめいた。
ユールと3人の仲間たちは、黒騎士との約束の地であるシュタイン湖を目指して北上を続けていた。
途中、大地震の直後から日増しに凶暴になってきている魔物たちに何度か遭遇した。いずれも危なげなく撃退し、特に問題なく進んできていたのだが、一行は迫り来る日没を前に途方に暮れていた。
セントシュタインの城下町を出てすぐの、橋を渡った所に湖への案内板が立っていた。その指示通りに北へ進んでいたのだが、一向に湖が見えて来ないのだ。
城でもらった地図は古く、絵が大雑把で街道なのか川なのかすら区別がつかないようなシロモノで、全く頼りにならなかった。
「シュタイン湖は地元の人間もあまり足を踏み入れない場所だからな。私も道はよく知らないんだ」
セラパレスが茜色の空を仰いでため息をつきつつ、言った。
「それにしても、随分長いこと麦畑の中を歩いてるぞ。おかしくないか?」
ばさばさと目の前の麦を掻き分けつつ、アスラムが言った。
「地図だと、森の所で東に曲がることになっているんですが」
森なんてありましたっけ、とユールが首をかしげつつ、言った。
「この道の先に、目印の森があるのかしら」
夕暮れの匂いを纏った風に目を細めつつ、メルフィナが言った。
「そもそもこの道はどこに繋がっているんでしょう?」
「地図に書いてあるはずじゃね?」
ユールの頭上で欠伸と伸びをしつつ、サンディが言った。
「しかし、どこまでも麦だな。黄金色が眩しいぜ」
「皆さん、提案なのですが、一度、来た道を戻った方が良いように思います」
「…いや、時間切れだろうな。もう間もなく日が暮れる。この先にエラフィタ村があるから、そこでちゃんと道を確認して明日出直すことにした方がいい」
一行が麦畑のはずれに巨大な桜の木とこじんまりとした集落を見つけたのは、それから間もなくのことだった。
エラフィタ村で唯一の宿屋で、さっそく女将に湖までの道のりを聞いた。
麦畑に入る前に目印の森を通過してしまったことを知った4人は愕然とした。道を間違えなければ、今日の昼過ぎには湖に着いていたはずだったのだ。
「おいおい、オレたちの一日は何だったんだ?」
「黒騎士の出した期限は明日よ。焦らずに行きましょう」
大人たちは宿の部屋で思い思いに過ごすというので、ユールはサンディと共に村の探検に出かけてみることにした。
エラフィタの名物である桜のご神木は、集落全体を覆い隠さんばかりにその枝を広げている。村のどこからでもその姿を見ることができた。赤に染まる夕暮れの中、淡い色の花びらがひときわ目を引いた。
村はちょうど夕飯の刻限で、あちこちの家の煙突から煙が上り、おいしそうな匂いが漂っていた。
エラフィタの天使像は宿を出てすぐの所にあった。ご神木を背に鎮座している天使像は、何と崩れて顔が無くなっていた。像としての原型を留めていないので、ユールも道端の石かと思って素通りしかけたくらいだった。
「コレ大丈夫なの?天使像じゃなくてただの石、なんですケド」
と、サンディに聞かれたユールは笑って、
「ちゃんといらっしゃいますよ。カサクという男性の上級天使で、よくここの桜を肴にお酒を嗜んでらっしゃいます。天使像はこんな状態ですけど、村の守護に影響はありませんから大丈夫。ご神木もありますから、エラフィタの守りはよそより厚いですよ」
「ふーん。おっさんの守護天使かあ。何かイメージ違うんですケド」
セントシュタインの時と同じく、像の周りにカサクの気配は感じられない。
同胞たちの声が聞けないというのは、今まで生きてきて初めてのことで、ユールは大層心細かった。
ひとまず村を一周し、教会でお祈りをしたり、村で一軒のよろず屋でこまごまとした買い物をしたりした後、彼女は散歩を切り上げて宿に戻った。
夕食に出た、エラフィタ特産の小麦粉を使って焼き上げたパンは素晴らしくおいしかった。
「ウォルロも名水のおかげでパンがおいしいんですけど、エラフィタのはもう格別ですねえ」
夕食後、仲間たちと桜のお茶を味わいながら、ユールは興奮気味に言った。
天使のユールは本来食事を摂らなくても十分動ける。しかし、トルクアムの料理に鍛えられた食いしん坊精神は、見るもの全てが目新しい人間界において遺憾なく発揮されていた。
「ほんのりと桜の味がしていたね。パンもお茶も桜の花びらをうまく使っているようだ」
ユールの茶碗におかわりを注いでやりながら、セラパレスが言った。
「ありがとうございます。…あの桜は枯れることなく、ああして綺麗な花を一年中咲かせ続けているみたいです」
ユールは、教会で読んだ絵本『エラフィタむらのごしんぼくさま』の内容を思い出しながら言った。
「枯れない花、か。ひょっとしてエラフィタのご神木には天使が宿ってるんじゃないか?女神のように美しく、桜の花のように可憐な乙女が守護する村。いいじゃないか」
「アス。村の天使像はボロボロだったようだけど?」
「野暮ったい石像なんかやめて、ご神木に住み替えたのさ」
(エラフィタの守護天使が、酔っ払いのおっさんですみません…)
アスラムとメルフィナのやり取りをよそに、ユールは一人申し訳ないような気持ちになっていた。
食堂でしばらくくつろいだ後、明日の予定を皆で確認してから、4人はそれぞれの部屋へと戻った。
宿泊手続きをしたメルフィナとアスラムが当然のように同室を希望したため、必然的にユールとサンディはセラパレスと同室ということになった。
「あの2人、やっぱり!」
ベッドの枕をバシバシ叩いて、キャーキャーとサンディがはしゃいでいる。傍らで荷物整理をしていたユールはその理由が良く分からず放っておくことにした。
セラパレスは女将に用事があるとかで出かけており、隣のベッドはカラだ。
「アンタね…。天使の修行にレンアイなんて項目が無かったのはよーっく分かってますケド!若さが足りてないヨ!」
「はしゃぐほどのことですかねえ。人間の男女の間ではごくありふれた現象ですし、当然あるべきことじゃないですか」
ユールの言葉に、サンディは心底呆れたように首を振った。
「ああ、ダメ。ダメだわ。全然ダメ」
「えー」
サンディの話に適当に相槌を打ちながら、ユールは荷物をベッドの下に置き、よろず屋で買ってきた本を手に取る。『守れ、麦!』というその本はかなり分厚く、挿絵なども一切ない。何とも難しそうな本だった。
読書を始めたユールが構ってくれず、不貞腐れたサンディはさっさと先に寝てしまった。嫌がらせのように、ユールの枕を占領している。
「何を読んでいるんだい?」
「あ、おかえりなさい」
熱中して読みふけっていたら、いつの間にかセラパレスが戻って来ていた。彼女が手にしている本を興味深そうに覗き込んでくる。
「麦と農民たちの間で繰り広げられた、血湧き肉踊る一大巨編!…になる予感がします。まだ半分も読んでいないのです」
「…何だかよく分からないが、すごそうな本だね」
「読んでいる内に、私も麦を守りたくなって来ました。彼らはおいしいパンになる運命を背負っているのですから」
「麦もまあまあ大事だが、明日に備えて早めに寝なさい。いよいよ黒騎士と刃を交えることになるんだぞ」
「はい、そうします」
天使なので睡眠は不要なのだが、説明するとややこしい。ここは敢えて反論せず、ユールは素直に彼の言葉に頷いた。
布団の中で長い夜をどう過ごそうかしばし考え、ユールは隣で寝ているサンディをつついた。
「ねえサンディ。これからご神木を見に行きませんか。夜桜がきっと綺麗ですよ」
「ハァ?木なら夕方見たじゃん…。アタシ眠いからパス。夜更かしは美容に悪いし」
面倒くさそうに片目を開けた彼女に、すげなく断られてしまった。
「じゃあ、一人で行ってきますよ…」
自分の荷物をベッドの中へ押し込んで就寝中らしく偽装してから、ユールは夜の散歩に出かけた。
農業を生業としているエラフィタの村人たちは、おしなべて夜が早い。生き物の気配すらなく、村にはただ静謐な夜の空気が満ち溢れていた。
ユールの立てる小さな足音が、思いの外大きく響く。ご神木の根元まで行く途中、夜風に散る花びらが雨のように彼女の上へと降り注いだ。
何とも不思議なことに、ご神木の枝々を彩る桜の花は、どれほど時が経っても色褪せず、常にそこにあるのだ。
「あれ?」
ご神木の根元には先客がいた。薄手のローブにアスラムの上着を羽織ったメルフィナが、ユールの気配を察して振り向いた。
「こんな時間に一人で出歩くなんて。夜道は危ないわよ」
「あなたこそ」
ユールとメルフィナは2人並んでご神木を見上げた。思いつくまま言葉を重ねる。
「この桜の花は、散っても散っても減りませんねえ」
「エラフィタ村に暮らす人たちの思い、願いがご神木に届いて、花を咲かせ続けているのかも知れないわね」
「人の心を汲み取ってくれるなんて、さすがはご神木ですね」
くすりと小さく笑みをこぼし、メルフィナはユールに向き直った。
「ところでユール。あの小さな妖精さんは一緒じゃないの?」
メルフィナが発した問いに、ユールはぎくりとした。
(見えているのだろうか。彼女は人間だからそれはありえないはず…)
「…えーと。夜更かしは美容に良くないからと、部屋で寝ています」
ひとまず様子をみようと、ユールは適当に彼女の話に合わせておくことにした。返答まで不自然にあいた間については気づかぬフリで、メルフィナは「そう」とだけ言った。
そこから会話が途切れてしまった。夜の闇とも相まって、静寂が重苦しくユールにのしかかる。
何か言わなきゃと内心で焦る彼女とは対照的に、落ち着き払った声音でメルフィナが言った。
「ルイーダの酒場であなたが語った身の上話を、思い出していたのだけど」
どんなことだろう。ユールは額に嫌な汗が浮かんでくるのを感じた。
「あなたが天使でも魔物でも、ちょっと変わった人間の女の子でも構わない。あなたにはあなたの目的があり、私にも私の目的がある。あなたと私の向かう先が一致している間は、手を取り合って進めるわ。そうでしょう?」
「…メルフィナさん。あなたは私を大嘘つきだとはおっしゃらないんですね」
「もし本当に大嘘つきなら、今のうちに話しておいてもらえるかしら」
新しく対処法を考える、とにっこり笑顔で言われたが、その対処法の内容は恐ろしくてとても聞けなかった。
「私の身の上話…我がことながら、信じていただけるとは到底思えないのですが」
「世界はいろいろな謎に満ちている。その謎の答えを知りたくて私は旅に出たのだけど…これまでに本当に多くのものを見てきたわ。だからかしら。あなたのことも、あなたの小さな妖精さんのことも、すんなり納得できたのね」
「では、アスラムさんは、このことは…?」
メルフィナはゆるりと首を振った。
「よろしければお話しいただいても構いませんよ。アスラムさんはあなたの、その、パートナーなのでしょう?あっ、これはむしろメルフィナさんが頭の具合は大丈夫かと心配されてしまうような内容です、よね…」
困りましたね、とあちこち視線をさまよわせるユールに、メルフィナはふふ、と笑みを浮かべた。
「しかるべき時が来れば、知るべき者の前に、おのずと真実が明るみに出るわ」
そろそろ冷えてきたから宿に戻りましょう、と彼女に促されて、ユールは来た道を歩き出した。
自分はこのまま天使界に戻れないのではないか、という甚だありがたくない未来がふとユールの頭をよぎった。
(もし万が一そうなったとしても自分には仲間たちがいる。だから大丈夫)
根拠のない、奇妙な安心感だった。出会って2日目の、しかも人間相手に抱く感情としてはいささか行き過ぎのように思われたが、目まぐるしい日々の中で混乱しているユールの中で確かなものはこれだけだった。
彼女は並んで歩くメルフィナに正直にそう告げてみた。よほど心細そうな顔をしていたのか、よしよしと優しく頭を撫でられてしまった。
「ご期待に添えると思うわ、天使さん。安心なさい」
柔らかく微笑むメルフィナの赤い瞳が、月光を受けてきらめいた。
2011年1月13日木曜日
仲間たち
兵士の詰め所に向かう途中、ユールはすれ違う人々から「救国の英雄候補」として熱い視線を浴び続けた。
あんな小さいのに剣の達人だの呪文の使い手だの、早くも噂に尾ヒレ背ビレが付きまくっている。
セラパレスは事の顛末を顔なじみの城の者から聞いていたらしい。ユールの顔を見るなり盛大にため息をついた。
「一体どうしてこんなことに。立て札で黒騎士討伐の志願者を募っているのは知っていたが、よりによって君が名乗り出るなんて」
「立て札?」
「見ないで引き受けたのか!安請け合いもここまで来ると悪ふざけとしか思えないな」
ついにセラパレスは頭を抱えてしまった。
「まあまあ。陛下の御前で引き受けると宣言してしまったものを、今更引っ込めるわけには参りますまい」
医務官のバートンが苦笑いで取り成してくれた。
「陛下はこの子一人で討伐に行けとお命じになったわけではないのですから、まだ道はあります」
「そうですね。…ユール、私に何人か心当たりがある。酒場で討伐に参加してくれる仲間を募って出かけるんだ。大の大人でも苦戦したほどの相手だ。警戒してしすぎることはない」
「お城の兵士さんが、黒騎士と戦って怪我をなさったんですか?」
「ああ、城一番の使い手と謳われる兵士長がね。命に別状はないが、まだ安静が必要だ」
その兵士長は体中に包帯を巻いてベッドに横たわっていたが、鋭い眼光は全く衰えていなかった。
討伐志願者のあまりの小ささに驚きながらも、自らが間近に接した黒騎士の様子を語ってくれた。
「流星のごとく現れ、見たこともない剣技を操り、それでいて人々を殺すことなく去っていった。剣を交えた我々であっても、戦意を失わせる程度に手傷を負わせるに留めたのだ。そして、何よりあの風貌…兜の奥に垣間見えたその顔は骸骨のようだった。何とも生気のない顔をしていた」
「兵士長は、黒騎士の目的を何だとお考えですか?」
ユールの問いに、兵士長はしばし瞑目し考え込んでいたが、
「姫様をさらおうとしたのは確かだが、奴の目的が殺戮や略奪でないことは確かだろう。単騎で堂々と乗り込んできたあの姿。まるでどこぞの騎士のような風格が…。む、騎士…?」
「兵士長?」
騎士という単語に引っかかりを覚えたらしい彼が必死に記憶をたぐる。
「奴の鎧に紋章が刻まれていた。薔薇…というか、花弁の多い花のような形状でな」
王家の儀礼に関わる機会が多い兵士長であっても、そのような紋章を持つ国や貴族に心当たりはないらしい。
天使たるユールも人間の紋章についてはあまり詳しくない。こんな時、ラフェットの図書室が使えればと歯噛みする思いだった。
ふと、熱い視線を感じて彼女が顔を上げると、兵士長の隣で手当てを受けている若者が、こちらを見ていた。
正確には、包帯に覆われた兵士長の胸を見つめている。
(兵士長の傍で眠れるなんて、ボクは今最高に幸せです!)
(うわー…)
天使ユールは、若者の発せられない言外の言葉を一字一句正確に聞き取ってしまった。急な寒気に襲われ、身をすくめる。
「どうした。怖気づいたか」
勘違いした兵士長に揶揄われたが、正直に理由を話すわけにもいかず、ユールはあははと乾いた笑いで誤魔化すしかできなかった。セラパレスに心配そうに見つめられ、大層申し訳ない気分も味わった。
城の外に出ると、日はすっかり翳り、夜の闇がそろそろ空を覆いつくそうとしている刻限だった。
ルイーダの酒場で夕飯を付き合ってくれるというセラパレスと共に、ユールは宿へ戻るべく歩き出した。
「今から帰れば、夕飯にちょうど間に合いますね」
呑気なユールを、何か言いたげにセラパレスが見やった。
「…何か?」
「いや何でも。ああ、あれが立て札だよ。今更な気もするが、見ておくといい」
立て札には「我が国に黒き鎧を身につけた正体不明の騎士、現る。騎士を討たんとする勇敢な者、我が城に来たれ。素性は問わぬ」という文言と共に、国王の紋章が燦然と輝いていた。
「よかった。素性を問われたら危ないところでした」
ユールのどこかズレた感想に、セラパレスの眉根が盛大に寄った。
その顔が、弟子に手を焼くコルズラスそっくりで、ユールは思わず笑ってしまった。
宿屋の玄関をくぐると、ジェームズが出迎えてくれた。
「おかえり、ユール。街はどうだった?さっそくお友達ができたみたいだね」
「広くて賑やかで面白い街ですね!お城にも行ってきましたよ」
それはすごい、と目を丸くする彼から、宿泊の準備ができたこと、荷物は既に客室に運び込んであることなどを聞く。宿屋のカウンターで忙しく動き回っているリッカと目が合ったが、笑顔で会釈し合うに留める。積もる話はあとでゆっくりと、だ。
ルイーダの酒場は女店主のご帰還を祝い、それなりに混雑していた。2人が店内で空席を探していると、「お嬢さん、こっち空いてるわよ」と聞き覚えのある柔らかな声に呼び止められた。
「メルさん!」
「来ていたのか、メル」
魔法使いメルフィナが、ワインのグラスを片手に手招きしている。彼女と共に食事を摂っている男性は、こちらに背を向けているので顔が見えない。
「夜の帳は、お役に立ったかしら?」
「ま、まだ渡してません…」
「あらあら」
くすくすとメルフィナに笑われながら椅子を引いて席に着く。すると、メルフィナの連れの顔が良く見えた。
明るい茶色の髪を短く刈り込んだ細身の青年で、弓なりになった眉と垂れ気味の緑の目が面白そうにユールを見下ろしていた。
「店長。子供連れで酒場に来るなんて珍しいな」
「食事に来ただけだ」
「へえ…。で、そのお子様が、セントシュタインの救国の英雄ってわけか」
「相変わらず耳が早いな」
全く動じていないセラパレスと若者を見比べて、ユールは一人「どこから聞いたの?」と疑問符を飛ばしていた。
「ユール、おかえりなさい。あなた早速やらかしたわね?」
彼らが座るテーブルに飲み物を運んできたルイーダが、呆れ半分愉快半分で話しかけてきた。
「ルイーダ。もう噂で聞いていると思うが、彼女に協力してくれそうな者を何人か紹介してやって欲しい」
受け取ったお茶に口をつけ、セラパレスが言った。
「オーケー。任せて!さてユール。討伐に行くのに、どんな仲間をお望みかしら?」
いきなりこう問われて驚いたユールは、咄嗟のイメージで答えた。
「ええと、私は攻撃も回復もある程度できるので…攻撃が得意な人と回復が得意な人、あと魔法で魔物を一掃できちゃう人がいいです」
ルイーダはテーブルに並ぶ4人を順繰りに見つめ、ぷっと吹き出した。
「あら、解決じゃない」
「ちょっと待ってくれ。私も頭数に入っているのか?ただのしがない薬屋だぞ」
「店長、仕入れでしょっちゅう辺鄙な所に出かけてるだろ。並みの冒険者よりは慣れてると思うがな」
「アスラム…」
くくっと軽く笑って酒を呷った青年は、アスラムというらしい。
ルイーダが飲み物と食べ物を置いて立ち去り、4人だけの食卓を囲む。
「じゃあ、改めて自己紹介しましょうか。私はメルフィナ。旅の途中でこの街に立ち寄ったの。魔法使いをやっているわ。アスラムとはこの街で出会って、2人で便利屋というか、いろいろなことを請け負いながら生活しているの。ちなみに、彼は武闘家」
「よろしくな、お嬢さん。アスラムだ。で、この渋い顔してるのが薬屋の店長セラパレス。独学ながら僧侶の魔法も勉強してて普通に使いこなしてる」
「あくまでもどきだと、おっしゃってましたね。せっかく才能をお持ちなのに、もったいないです」
「そーだそーだ。黙ってりゃ分かんねえんだから、もう僧侶でいいじゃねえか、なあ?」
ねえ、と会って5分で意気投合している様子のユールとアスラムに、残り2人は顔を見合わせて笑うしかない。
メルフィナがグラスに手酌で酒を注ぎ、言った。
「で、あなたは何者なのかしら?」
「先程、素性を問われたら危ないところだとか言っていたな」
「その年でワケアリだってのか?おいおい勘弁してくれよ」
3人に寄ってたかって素性を聞かれた天使ユールは、正直に言うべきか適当に誤魔化すべきか迷った。盛大に。
「どーすんのユール。言っちゃうの?」
サンディが心配半分面白半分に尋ねてくる。
あーうーと呻くばかりでは、大した時間稼ぎにもならない。
「ああ、師匠、力をお貸し下さい…。せいっ!」
今は遠く離れた師に祈りながら、ユールは目の前にあったメルフィナのグラスを手に取り、椅子の上に立ち上がり、一息に酒を呷った。
慌てて止めさせようとする大人たちをびしっとグラスを突きつけ制止し、彼女は厳かに告げた。
「お聞きなさい、人の子よ。地上に降りたわたくしの物語を」
そして、今まであったことを包み隠さず全て話した。黒騎士討伐のための一時の仲間とは言え、適当な嘘で誤魔化すことはどうしてもできなかったのだ。
これで気味悪がられ、最悪街を追い出されても仕方がない…。そういう覚悟で語り終えた彼女は、とすんと椅子に崩れ落ちた。メルフィナのグラスをテーブルにそっと戻す。
アスラムもセラパレスもメルフィナも、彼女を見つめたまま無言だった。皆には見えないサンディも、ぽかんと口を開けたまま黙っていた。
「君は、本当に…」
重々しく口火を切ったのはセラパレスだった。気持ちを落ち着けようというのか、残っていたお茶を飲み干した。
「伝統と格式ある家柄の、旅芸人なんだな。その幼さで、家門が脈々と受け継いできた芸事を見事に体現している」
「人里離れた場所で修行に明け暮れていたってわけか。そこらのオコサマとは迫力が違うぜ」
アスラムが乾杯、と手にしたグラスを目の高さに持ち上げた。
メルフィナは無言のままだ。
「旅芸人…あれだけ暴露しても旅芸人…あはは…。ユール、アタシ先に部屋に戻ってるね。オヤスミ…」
サンディはユールを置いてヨロヨロと飛び去っていってしまった。
「あの…」
更なる誤解を解こうと言を重ねようとしたユールの腕に、ほっそりとした指がからみついた。
「自己紹介はこれくらいで十分でしょう。黒騎士討伐、私たちと一緒に行くってことでいいかしら?」
「はい…ぜひ…是非お願いします!」
何度も頭を下げているうちに、ユールはくらくら眩暈を起こしてテーブルに突っ伏してしまった。
「あら。大変」
「こいつ、メルの酒思いっきり飲んでたよな。明日二日酔いで使い物にならないんじゃないのか?ダメだったら置いてくからな」
「二日酔いに効く薬を置いていくから、忘れずに飲みなさい。いいね?」
3人に口々に窘められ、うんうんと頷きながら、ユールは仲間ができたという安堵で力が抜け切ってしまっていた。
顔も体も緩み切り、うへへなどと気味の悪い笑みが零れそうになり、必死に堪えるのに精一杯だった。
食事を終え、仲間たちと「また明日」と手を振り別れたユールは、従業員控え室で休んでいたリッカに今日の出来事を興奮気味にまくし立てた。
リッカも昼間の疲れが吹き飛んだかのように驚いたり笑ったり怒ったり、と忙しく聞き役に徹していた。
夜が更けても話は尽きず、ますます盛り上がる2人を見かねたルイーダにそれぞれ自室へと追い立てられてしまった。「夜更かしは美容の敵」と言われても、ユールにはいまいちピンと来てはいなかったが。
宿屋の廊下は全く人気が無かった。時間帯云々だけでなく、宿泊客が少ないこともあるのかも知れない。あてがわれた客室が真っ暗だったので窓のカーテンを開けると、月明かりで部屋の様子が見て取れた。
ベッドの枕に埋もれるようにしてサンディが眠りこけている。ユールの立てる物音にも目を覚まさないほど、ぐっすり熟睡しているようだった。
「…運転士は、眠るんですね」
人間の仲間を得たその日の夜に、天の箱舟に関する小さな秘密も知ってしまった。ユールの顔は自然と綻んだ。
あんな小さいのに剣の達人だの呪文の使い手だの、早くも噂に尾ヒレ背ビレが付きまくっている。
セラパレスは事の顛末を顔なじみの城の者から聞いていたらしい。ユールの顔を見るなり盛大にため息をついた。
「一体どうしてこんなことに。立て札で黒騎士討伐の志願者を募っているのは知っていたが、よりによって君が名乗り出るなんて」
「立て札?」
「見ないで引き受けたのか!安請け合いもここまで来ると悪ふざけとしか思えないな」
ついにセラパレスは頭を抱えてしまった。
「まあまあ。陛下の御前で引き受けると宣言してしまったものを、今更引っ込めるわけには参りますまい」
医務官のバートンが苦笑いで取り成してくれた。
「陛下はこの子一人で討伐に行けとお命じになったわけではないのですから、まだ道はあります」
「そうですね。…ユール、私に何人か心当たりがある。酒場で討伐に参加してくれる仲間を募って出かけるんだ。大の大人でも苦戦したほどの相手だ。警戒してしすぎることはない」
「お城の兵士さんが、黒騎士と戦って怪我をなさったんですか?」
「ああ、城一番の使い手と謳われる兵士長がね。命に別状はないが、まだ安静が必要だ」
その兵士長は体中に包帯を巻いてベッドに横たわっていたが、鋭い眼光は全く衰えていなかった。
討伐志願者のあまりの小ささに驚きながらも、自らが間近に接した黒騎士の様子を語ってくれた。
「流星のごとく現れ、見たこともない剣技を操り、それでいて人々を殺すことなく去っていった。剣を交えた我々であっても、戦意を失わせる程度に手傷を負わせるに留めたのだ。そして、何よりあの風貌…兜の奥に垣間見えたその顔は骸骨のようだった。何とも生気のない顔をしていた」
「兵士長は、黒騎士の目的を何だとお考えですか?」
ユールの問いに、兵士長はしばし瞑目し考え込んでいたが、
「姫様をさらおうとしたのは確かだが、奴の目的が殺戮や略奪でないことは確かだろう。単騎で堂々と乗り込んできたあの姿。まるでどこぞの騎士のような風格が…。む、騎士…?」
「兵士長?」
騎士という単語に引っかかりを覚えたらしい彼が必死に記憶をたぐる。
「奴の鎧に紋章が刻まれていた。薔薇…というか、花弁の多い花のような形状でな」
王家の儀礼に関わる機会が多い兵士長であっても、そのような紋章を持つ国や貴族に心当たりはないらしい。
天使たるユールも人間の紋章についてはあまり詳しくない。こんな時、ラフェットの図書室が使えればと歯噛みする思いだった。
ふと、熱い視線を感じて彼女が顔を上げると、兵士長の隣で手当てを受けている若者が、こちらを見ていた。
正確には、包帯に覆われた兵士長の胸を見つめている。
(兵士長の傍で眠れるなんて、ボクは今最高に幸せです!)
(うわー…)
天使ユールは、若者の発せられない言外の言葉を一字一句正確に聞き取ってしまった。急な寒気に襲われ、身をすくめる。
「どうした。怖気づいたか」
勘違いした兵士長に揶揄われたが、正直に理由を話すわけにもいかず、ユールはあははと乾いた笑いで誤魔化すしかできなかった。セラパレスに心配そうに見つめられ、大層申し訳ない気分も味わった。
城の外に出ると、日はすっかり翳り、夜の闇がそろそろ空を覆いつくそうとしている刻限だった。
ルイーダの酒場で夕飯を付き合ってくれるというセラパレスと共に、ユールは宿へ戻るべく歩き出した。
「今から帰れば、夕飯にちょうど間に合いますね」
呑気なユールを、何か言いたげにセラパレスが見やった。
「…何か?」
「いや何でも。ああ、あれが立て札だよ。今更な気もするが、見ておくといい」
立て札には「我が国に黒き鎧を身につけた正体不明の騎士、現る。騎士を討たんとする勇敢な者、我が城に来たれ。素性は問わぬ」という文言と共に、国王の紋章が燦然と輝いていた。
「よかった。素性を問われたら危ないところでした」
ユールのどこかズレた感想に、セラパレスの眉根が盛大に寄った。
その顔が、弟子に手を焼くコルズラスそっくりで、ユールは思わず笑ってしまった。
宿屋の玄関をくぐると、ジェームズが出迎えてくれた。
「おかえり、ユール。街はどうだった?さっそくお友達ができたみたいだね」
「広くて賑やかで面白い街ですね!お城にも行ってきましたよ」
それはすごい、と目を丸くする彼から、宿泊の準備ができたこと、荷物は既に客室に運び込んであることなどを聞く。宿屋のカウンターで忙しく動き回っているリッカと目が合ったが、笑顔で会釈し合うに留める。積もる話はあとでゆっくりと、だ。
ルイーダの酒場は女店主のご帰還を祝い、それなりに混雑していた。2人が店内で空席を探していると、「お嬢さん、こっち空いてるわよ」と聞き覚えのある柔らかな声に呼び止められた。
「メルさん!」
「来ていたのか、メル」
魔法使いメルフィナが、ワインのグラスを片手に手招きしている。彼女と共に食事を摂っている男性は、こちらに背を向けているので顔が見えない。
「夜の帳は、お役に立ったかしら?」
「ま、まだ渡してません…」
「あらあら」
くすくすとメルフィナに笑われながら椅子を引いて席に着く。すると、メルフィナの連れの顔が良く見えた。
明るい茶色の髪を短く刈り込んだ細身の青年で、弓なりになった眉と垂れ気味の緑の目が面白そうにユールを見下ろしていた。
「店長。子供連れで酒場に来るなんて珍しいな」
「食事に来ただけだ」
「へえ…。で、そのお子様が、セントシュタインの救国の英雄ってわけか」
「相変わらず耳が早いな」
全く動じていないセラパレスと若者を見比べて、ユールは一人「どこから聞いたの?」と疑問符を飛ばしていた。
「ユール、おかえりなさい。あなた早速やらかしたわね?」
彼らが座るテーブルに飲み物を運んできたルイーダが、呆れ半分愉快半分で話しかけてきた。
「ルイーダ。もう噂で聞いていると思うが、彼女に協力してくれそうな者を何人か紹介してやって欲しい」
受け取ったお茶に口をつけ、セラパレスが言った。
「オーケー。任せて!さてユール。討伐に行くのに、どんな仲間をお望みかしら?」
いきなりこう問われて驚いたユールは、咄嗟のイメージで答えた。
「ええと、私は攻撃も回復もある程度できるので…攻撃が得意な人と回復が得意な人、あと魔法で魔物を一掃できちゃう人がいいです」
ルイーダはテーブルに並ぶ4人を順繰りに見つめ、ぷっと吹き出した。
「あら、解決じゃない」
「ちょっと待ってくれ。私も頭数に入っているのか?ただのしがない薬屋だぞ」
「店長、仕入れでしょっちゅう辺鄙な所に出かけてるだろ。並みの冒険者よりは慣れてると思うがな」
「アスラム…」
くくっと軽く笑って酒を呷った青年は、アスラムというらしい。
ルイーダが飲み物と食べ物を置いて立ち去り、4人だけの食卓を囲む。
「じゃあ、改めて自己紹介しましょうか。私はメルフィナ。旅の途中でこの街に立ち寄ったの。魔法使いをやっているわ。アスラムとはこの街で出会って、2人で便利屋というか、いろいろなことを請け負いながら生活しているの。ちなみに、彼は武闘家」
「よろしくな、お嬢さん。アスラムだ。で、この渋い顔してるのが薬屋の店長セラパレス。独学ながら僧侶の魔法も勉強してて普通に使いこなしてる」
「あくまでもどきだと、おっしゃってましたね。せっかく才能をお持ちなのに、もったいないです」
「そーだそーだ。黙ってりゃ分かんねえんだから、もう僧侶でいいじゃねえか、なあ?」
ねえ、と会って5分で意気投合している様子のユールとアスラムに、残り2人は顔を見合わせて笑うしかない。
メルフィナがグラスに手酌で酒を注ぎ、言った。
「で、あなたは何者なのかしら?」
「先程、素性を問われたら危ないところだとか言っていたな」
「その年でワケアリだってのか?おいおい勘弁してくれよ」
3人に寄ってたかって素性を聞かれた天使ユールは、正直に言うべきか適当に誤魔化すべきか迷った。盛大に。
「どーすんのユール。言っちゃうの?」
サンディが心配半分面白半分に尋ねてくる。
あーうーと呻くばかりでは、大した時間稼ぎにもならない。
「ああ、師匠、力をお貸し下さい…。せいっ!」
今は遠く離れた師に祈りながら、ユールは目の前にあったメルフィナのグラスを手に取り、椅子の上に立ち上がり、一息に酒を呷った。
慌てて止めさせようとする大人たちをびしっとグラスを突きつけ制止し、彼女は厳かに告げた。
「お聞きなさい、人の子よ。地上に降りたわたくしの物語を」
そして、今まであったことを包み隠さず全て話した。黒騎士討伐のための一時の仲間とは言え、適当な嘘で誤魔化すことはどうしてもできなかったのだ。
これで気味悪がられ、最悪街を追い出されても仕方がない…。そういう覚悟で語り終えた彼女は、とすんと椅子に崩れ落ちた。メルフィナのグラスをテーブルにそっと戻す。
アスラムもセラパレスもメルフィナも、彼女を見つめたまま無言だった。皆には見えないサンディも、ぽかんと口を開けたまま黙っていた。
「君は、本当に…」
重々しく口火を切ったのはセラパレスだった。気持ちを落ち着けようというのか、残っていたお茶を飲み干した。
「伝統と格式ある家柄の、旅芸人なんだな。その幼さで、家門が脈々と受け継いできた芸事を見事に体現している」
「人里離れた場所で修行に明け暮れていたってわけか。そこらのオコサマとは迫力が違うぜ」
アスラムが乾杯、と手にしたグラスを目の高さに持ち上げた。
メルフィナは無言のままだ。
「旅芸人…あれだけ暴露しても旅芸人…あはは…。ユール、アタシ先に部屋に戻ってるね。オヤスミ…」
サンディはユールを置いてヨロヨロと飛び去っていってしまった。
「あの…」
更なる誤解を解こうと言を重ねようとしたユールの腕に、ほっそりとした指がからみついた。
「自己紹介はこれくらいで十分でしょう。黒騎士討伐、私たちと一緒に行くってことでいいかしら?」
「はい…ぜひ…是非お願いします!」
何度も頭を下げているうちに、ユールはくらくら眩暈を起こしてテーブルに突っ伏してしまった。
「あら。大変」
「こいつ、メルの酒思いっきり飲んでたよな。明日二日酔いで使い物にならないんじゃないのか?ダメだったら置いてくからな」
「二日酔いに効く薬を置いていくから、忘れずに飲みなさい。いいね?」
3人に口々に窘められ、うんうんと頷きながら、ユールは仲間ができたという安堵で力が抜け切ってしまっていた。
顔も体も緩み切り、うへへなどと気味の悪い笑みが零れそうになり、必死に堪えるのに精一杯だった。
食事を終え、仲間たちと「また明日」と手を振り別れたユールは、従業員控え室で休んでいたリッカに今日の出来事を興奮気味にまくし立てた。
リッカも昼間の疲れが吹き飛んだかのように驚いたり笑ったり怒ったり、と忙しく聞き役に徹していた。
夜が更けても話は尽きず、ますます盛り上がる2人を見かねたルイーダにそれぞれ自室へと追い立てられてしまった。「夜更かしは美容の敵」と言われても、ユールにはいまいちピンと来てはいなかったが。
宿屋の廊下は全く人気が無かった。時間帯云々だけでなく、宿泊客が少ないこともあるのかも知れない。あてがわれた客室が真っ暗だったので窓のカーテンを開けると、月明かりで部屋の様子が見て取れた。
ベッドの枕に埋もれるようにしてサンディが眠りこけている。ユールの立てる物音にも目を覚まさないほど、ぐっすり熟睡しているようだった。
「…運転士は、眠るんですね」
人間の仲間を得たその日の夜に、天の箱舟に関する小さな秘密も知ってしまった。ユールの顔は自然と綻んだ。
2011年1月6日木曜日
王国の危機
ユールは薬屋の店主セラパレスと共に、セントシュタイン城へ向かった。
セラパレスはセントシュタインで生まれ育ち、独学で薬学と治療学を学んだ「僧侶もどき」。もどきとは本人の弁で、神学を修めていないので僧侶を名乗るのに抵抗があるのだそうだ。
豊富な薬学の知識を見込まれ、王室お抱えの薬師として出仕を勧められても「宮仕えは向いていない」と断っていると聞いて、ユールは驚いた。
「今のままでも十分やりがいはあるし、稼ぎもあるし。わざわざ堅苦しい王宮で働かなくてもと思ってね。自分の目の前にいる人を助けるのが、私の務めだと思うから」
「つとめ、ですか」
自らの進むべき道を思い定めた者は強い。規模は違うが、守護天使も自身の庇護下にある人間たちを守る点では同じだ。
跳ね橋を渡り、城門前での簡単な手続きを経て、彼らはあっさり城内に入ることができた。
セラパレスは階上へ続く大階段を指差し、言った。
「この上が広場だよ。階段を上がった後ろの扉から外に出るんだ。一人で大丈夫かい?」
「ここまで来れば迷いようがありません。大丈夫です」
ユールはどんと胸を張る。それもそうだねと彼は笑って、
「私は兵士たちの詰め所にいるから、用事が終わったらおいで。場所はこの奥の左の塔の2階だ」
「はい。ではまた後で」
足取りも軽く大階段を登ったユールは、目の前に聳え立つ重厚な扉に釘付けになってしまった。
「この扉は…」
「いかにも王様がいますってカンジー」
「ですよね。その割には、誰もいませんが」
扉の向こうに国王がいるはずなのに、衛兵が一人もいないのだ。
何となく大扉に近づいたユールは、聞こえてきた会話に耳をそばだてた。サンディも同じく扉に張り付いている。
「何度言えば分かる!あの者に会いに行こうなど、このわしが許せると思うのか!?」
「ですがお父さま、あの黒騎士の目的はこのフィオーネです!わたくしが赴けば民は安心して暮らせることでしょう」
「我が娘をあんな不気味な男に差し出すなどとんでもない!」
「…何、親子ゲンカ?」
サンディと顔を見合わせ、ユールは言った。
「黒騎士って何のことでしょうね。…あ、開いた」
「さ、さすがに怒られると思うんですケドっ」
軽く扉を押したら開いてしまったので、ユールは腹をくくって中に入ることにした。
人払いをしていたのだろう。中央に玉座が据えられた大広間にも兵士の姿は無かった。
床に敷かれた絨毯が足音を消してしまう。言い争いを続けている王と姫も、玉座に腰掛け泣き崩れている王妃も、誰もユールの存在に気づいていない。
「大丈夫なの、この国…」
サンディががっくりと肩を落としているが、当然ながら人間たちには見えない。
(おー、王様だー)
きょろきょろと緊張感なく周囲を見回している少女の姿を見咎め、玉座の国王が立ち上がった。
「おぬし、誰の許可を得てここに参ったのだ!答えよ!」
「えっと、許可というか…」
「ほらー、やっぱり怒られたじゃん!謝っちゃいなさいよユール!」
サンディにせっつかれ、ユールが答えあぐねていると、国王が何やら得心がいった顔でポンと膝を打った。
「そうか!おぬし、黒騎士討伐に名乗りを上げに来たのだな!?あやつめを倒すのに力を貸してくれるというのだな!?」
「お父さま!こんな小さな子が黒騎士討伐などできるわけがないでしょう!?きっとただの迷子ですわ!」
父を止めるべく声を荒げる姫と、流れ落ちる涙を拭いもせずユールを見つめる王妃。
「…何か、お困りのようですね。私にできることでしたら」
悩み苦しむ人の子を放っておくことなどできない。片手を胸に添え、深々と一礼して、ユールは言った。
翼も光輪も無くしたとは言え、天使の名は伊達ではない。人にあらざるものの気迫、冒しがたい神性が彼女の小さな体から放たれていた。
「うむ。…うむ、こちらへ来よ、幼き戦士。名は何と申す?」
「ユールと申します。国王陛下」
一早く立ち直った国王が、ユールに話しかけた。不審者としてつまみ出されるどころか、すんなりと話が進んでいることに驚くと共に安堵し、サンディはやれやれとため息をついた。
「これって、守護天使効果…ってヤツ?」
それとも人間が単純にできているだけなのか。ひとまず判断は棚上げとし、彼女も国王の話に聞き耳を立てる。
「先日、この城に異形の黒騎士が現れ、我が姫を拐かそうとしたのだ。兵士たちがあやつの魔の手をどうにか退けたが、黒騎士は去り際に、明後日の夕刻までに姫をシュタイン湖へ連れてくるよう言い残した。わしはその言葉を黒騎士の罠だと思っておる。わしがシュタイン湖に兵を送り、城の守りが手薄になった所で、あやつは攻撃を仕掛けてくるに違いない!それ故、わしはおぬしのような自由に動ける者を欲しておったのだ」
「明後日とは!もうあまり時間がありませんね」
「そうじゃ。おぬしにはすぐさま出立してもらいたい。できるか?」
ユールがこっくりと頷く横で、フィオーネ姫が目を潤ませイヤイヤと首を振った。
「ああ、お父さま…。わたくしの言うことを少しも聞いてくださらないのね…っ!」
「これ、フィオーネ!」
泣きながら走り去った姫を気遣わしげにユールは見送った。横の王妃は顔を覆ってさめざめと泣くばかりだ。
己の感情が静まるのを待って、国王はユールへとため息混じりに語りかけた。
「すまぬな。あれは心優しい娘ゆえ、己のせいでこうなったのだと責任を感じておるのだ」
姫のことが心配だが、残念なことに、今の彼女にできることは何もなさそうだ。
ゴホンと一つ咳払いをし、居住まいを正した国王が、ユールに厳然と命を下した。
「ユールよ。これよりシュタイン湖に赴き、黒騎士の所在を確かめて参れ!もしそこであやつとまみえた時には、おぬしの腕の見せ所ぞ。そのまま黒騎士を仕留めてまいれ!この国の喉元に突きつけられた黒き刃を、おぬしが打ち払うのだ!」
「はい、陛下。ご期待に沿えるよう、全力を尽くします!」
膝を折って、ユールは平伏した。
玉座の間を辞し、本来の目的である天使像の元へ来たユールは、像が何の反応も見せないこと、この街の守護天使たちの気配が全く感じられないことに落胆していた。
オレンジ色の夕陽に照らされた逞しい男性の天使と、たおやかな女性の天使。対になった像はよく手入れされ大事にされているのがよく分かる。
「ボルタス様。ちゃんと大事にされてるじゃないですかー…」
何とか言えと天使像の足元に蹲り、のの字を書いているユールを、サンディが容赦なくつついた。
「どーなのユール。アタシは何にも感じないんですケド。天使界につながる手がかりっぽいのはあり?なし?どっち?」
「残念ながら、無しです」
「でも、ここの人たちみーんな黒騎士に困ってるんだよネ?これは人助けのチャンスだって!これだけ多くの人に感謝されて星のオーラが出れば、神様もアタシたちのこと見つけてくれるハズ!よし、何か希望が見えてきたんですケド!それじゃあさっそく黒騎士退治に行っちゃいますかっ!」
できぬことを嘆いていても仕方が無い、今はできることをするべき時だ。幸か不幸か、黒騎士の提示した期日まであまり間が無い。悩み迷う時間がないことに感謝すべきかも知れない。
「…そうですね。シュタイン湖に行ってみましょう。明日」
「あしたぁ!?アンタ天使でしょ、昼夜関係なく動けるでしょっ」
「夜間の外出は魔物がウヨウヨいるから危険ですよ」
「魔物くらい、かるーくぶっ飛ばしなさいっての、もう…」
セラパレスはセントシュタインで生まれ育ち、独学で薬学と治療学を学んだ「僧侶もどき」。もどきとは本人の弁で、神学を修めていないので僧侶を名乗るのに抵抗があるのだそうだ。
豊富な薬学の知識を見込まれ、王室お抱えの薬師として出仕を勧められても「宮仕えは向いていない」と断っていると聞いて、ユールは驚いた。
「今のままでも十分やりがいはあるし、稼ぎもあるし。わざわざ堅苦しい王宮で働かなくてもと思ってね。自分の目の前にいる人を助けるのが、私の務めだと思うから」
「つとめ、ですか」
自らの進むべき道を思い定めた者は強い。規模は違うが、守護天使も自身の庇護下にある人間たちを守る点では同じだ。
跳ね橋を渡り、城門前での簡単な手続きを経て、彼らはあっさり城内に入ることができた。
セラパレスは階上へ続く大階段を指差し、言った。
「この上が広場だよ。階段を上がった後ろの扉から外に出るんだ。一人で大丈夫かい?」
「ここまで来れば迷いようがありません。大丈夫です」
ユールはどんと胸を張る。それもそうだねと彼は笑って、
「私は兵士たちの詰め所にいるから、用事が終わったらおいで。場所はこの奥の左の塔の2階だ」
「はい。ではまた後で」
足取りも軽く大階段を登ったユールは、目の前に聳え立つ重厚な扉に釘付けになってしまった。
「この扉は…」
「いかにも王様がいますってカンジー」
「ですよね。その割には、誰もいませんが」
扉の向こうに国王がいるはずなのに、衛兵が一人もいないのだ。
何となく大扉に近づいたユールは、聞こえてきた会話に耳をそばだてた。サンディも同じく扉に張り付いている。
「何度言えば分かる!あの者に会いに行こうなど、このわしが許せると思うのか!?」
「ですがお父さま、あの黒騎士の目的はこのフィオーネです!わたくしが赴けば民は安心して暮らせることでしょう」
「我が娘をあんな不気味な男に差し出すなどとんでもない!」
「…何、親子ゲンカ?」
サンディと顔を見合わせ、ユールは言った。
「黒騎士って何のことでしょうね。…あ、開いた」
「さ、さすがに怒られると思うんですケドっ」
軽く扉を押したら開いてしまったので、ユールは腹をくくって中に入ることにした。
人払いをしていたのだろう。中央に玉座が据えられた大広間にも兵士の姿は無かった。
床に敷かれた絨毯が足音を消してしまう。言い争いを続けている王と姫も、玉座に腰掛け泣き崩れている王妃も、誰もユールの存在に気づいていない。
「大丈夫なの、この国…」
サンディががっくりと肩を落としているが、当然ながら人間たちには見えない。
(おー、王様だー)
きょろきょろと緊張感なく周囲を見回している少女の姿を見咎め、玉座の国王が立ち上がった。
「おぬし、誰の許可を得てここに参ったのだ!答えよ!」
「えっと、許可というか…」
「ほらー、やっぱり怒られたじゃん!謝っちゃいなさいよユール!」
サンディにせっつかれ、ユールが答えあぐねていると、国王が何やら得心がいった顔でポンと膝を打った。
「そうか!おぬし、黒騎士討伐に名乗りを上げに来たのだな!?あやつめを倒すのに力を貸してくれるというのだな!?」
「お父さま!こんな小さな子が黒騎士討伐などできるわけがないでしょう!?きっとただの迷子ですわ!」
父を止めるべく声を荒げる姫と、流れ落ちる涙を拭いもせずユールを見つめる王妃。
「…何か、お困りのようですね。私にできることでしたら」
悩み苦しむ人の子を放っておくことなどできない。片手を胸に添え、深々と一礼して、ユールは言った。
翼も光輪も無くしたとは言え、天使の名は伊達ではない。人にあらざるものの気迫、冒しがたい神性が彼女の小さな体から放たれていた。
「うむ。…うむ、こちらへ来よ、幼き戦士。名は何と申す?」
「ユールと申します。国王陛下」
一早く立ち直った国王が、ユールに話しかけた。不審者としてつまみ出されるどころか、すんなりと話が進んでいることに驚くと共に安堵し、サンディはやれやれとため息をついた。
「これって、守護天使効果…ってヤツ?」
それとも人間が単純にできているだけなのか。ひとまず判断は棚上げとし、彼女も国王の話に聞き耳を立てる。
「先日、この城に異形の黒騎士が現れ、我が姫を拐かそうとしたのだ。兵士たちがあやつの魔の手をどうにか退けたが、黒騎士は去り際に、明後日の夕刻までに姫をシュタイン湖へ連れてくるよう言い残した。わしはその言葉を黒騎士の罠だと思っておる。わしがシュタイン湖に兵を送り、城の守りが手薄になった所で、あやつは攻撃を仕掛けてくるに違いない!それ故、わしはおぬしのような自由に動ける者を欲しておったのだ」
「明後日とは!もうあまり時間がありませんね」
「そうじゃ。おぬしにはすぐさま出立してもらいたい。できるか?」
ユールがこっくりと頷く横で、フィオーネ姫が目を潤ませイヤイヤと首を振った。
「ああ、お父さま…。わたくしの言うことを少しも聞いてくださらないのね…っ!」
「これ、フィオーネ!」
泣きながら走り去った姫を気遣わしげにユールは見送った。横の王妃は顔を覆ってさめざめと泣くばかりだ。
己の感情が静まるのを待って、国王はユールへとため息混じりに語りかけた。
「すまぬな。あれは心優しい娘ゆえ、己のせいでこうなったのだと責任を感じておるのだ」
姫のことが心配だが、残念なことに、今の彼女にできることは何もなさそうだ。
ゴホンと一つ咳払いをし、居住まいを正した国王が、ユールに厳然と命を下した。
「ユールよ。これよりシュタイン湖に赴き、黒騎士の所在を確かめて参れ!もしそこであやつとまみえた時には、おぬしの腕の見せ所ぞ。そのまま黒騎士を仕留めてまいれ!この国の喉元に突きつけられた黒き刃を、おぬしが打ち払うのだ!」
「はい、陛下。ご期待に沿えるよう、全力を尽くします!」
膝を折って、ユールは平伏した。
玉座の間を辞し、本来の目的である天使像の元へ来たユールは、像が何の反応も見せないこと、この街の守護天使たちの気配が全く感じられないことに落胆していた。
オレンジ色の夕陽に照らされた逞しい男性の天使と、たおやかな女性の天使。対になった像はよく手入れされ大事にされているのがよく分かる。
「ボルタス様。ちゃんと大事にされてるじゃないですかー…」
何とか言えと天使像の足元に蹲り、のの字を書いているユールを、サンディが容赦なくつついた。
「どーなのユール。アタシは何にも感じないんですケド。天使界につながる手がかりっぽいのはあり?なし?どっち?」
「残念ながら、無しです」
「でも、ここの人たちみーんな黒騎士に困ってるんだよネ?これは人助けのチャンスだって!これだけ多くの人に感謝されて星のオーラが出れば、神様もアタシたちのこと見つけてくれるハズ!よし、何か希望が見えてきたんですケド!それじゃあさっそく黒騎士退治に行っちゃいますかっ!」
できぬことを嘆いていても仕方が無い、今はできることをするべき時だ。幸か不幸か、黒騎士の提示した期日まであまり間が無い。悩み迷う時間がないことに感謝すべきかも知れない。
「…そうですね。シュタイン湖に行ってみましょう。明日」
「あしたぁ!?アンタ天使でしょ、昼夜関係なく動けるでしょっ」
「夜間の外出は魔物がウヨウヨいるから危険ですよ」
「魔物くらい、かるーくぶっ飛ばしなさいっての、もう…」
2010年12月28日火曜日
セントシュタイン
峠の道を抜けた先には花々が咲き乱れる緑の丘がどこまでも広がっており、遠くに見える白亜の城と好対照を成していた。
セントシュタインは世界一広大な領土を持つ国で、その歴史も古い。天使界の記録によれば、幾度となくくり返された戦乱の折にも、戦火を逃れてきた民のためにすすんで城門を開き、保護をしたとあった。
そうした大らかな気風を持つこの国は順調に発展を続け、長きに渡る繁栄を謳歌していた。
ウォルロ村を出立したユールたちは峠の道での休憩を経て、昼過ぎに城下町へ到着した。入口から城まで一直線に伸びる大通りは、午後ということもあり活気に満ちている。行き交う人々の間を縫うように、時折荷を積んだ馬車がガラガラと通り過ぎてゆく。
正門をくぐるとまず目に入る3階建ての建物がリベルトの宿屋だ。立派な外観やエントランスホールとは裏腹に、宿屋のカウンターは無人で、客室に続く階段にも人気が全く無かった。併設されている酒場にも、昼酒を呷る客がまばらにいる程度。
この寂れ具合は時間帯だけの問題ではなさそうだ。ユールがぼんやりホールの天井を眺めていると、黒いエプロンとベストを身に着けた男性がカウンターの奥から姿を現した。
「ああ、ルイーダ!本当に無事だったんだね!」
彼はぱっと表情を変えて、ルイーダの方へ駆け寄ってきた。
「ジェームズ!心配かけてごめんなさい。今日帰るって手紙を出しておいたはずだけど、まだ届いてない?」
「君の手紙は見たが、実際に元気にしてる姿を見るまで信じられなくてね。それで、こちらが例の…?」
ジェームズの視線に促されるようにして、リッカが前へ進み出て挨拶をした。
「はじめまして。リッカといいます。今日からこちらでお世話になりますっ」
こちらこそ、とジェームズが笑顔で挨拶に応える。後ろに撫で付けた黒髪とチョビヒゲが少々キザっぽい彼は、酒場のバーテンダー兼料理人兼宿屋の用心棒。ルイーダが不在の間は彼が中心となってこの宿屋を守ってきたそうだ。
「用心棒にしちゃ、この人ちょっとヒョロすぎじゃね?」
ユールの頭に乗っかったサンディが言った。
「ヒョロいだなんてとんでもない。彼は相当の手練れですよ。動きが素早く無駄がないですから、武闘家なのでしょう」
ユールとサンディがこっそり話していると、その「独り言」がジェームズの興味を惹いたらしい。
「おや、妹さんと一緒に旅をして来たんですか?」
「いやいやいや!」
ジェームズの勘違いに、リッカとユールは揃って首を振った。
肩で切り揃えた髪形といい、背格好が似通っている2人だが、面差しは当然ながら全く似ていない。
「この子は私の恩人で、リッカの友達で、生まれ変わったこの宿屋のお客様第一号よ」
「ユールといいます。はじめまして」
ユールは深々と頭を下げた。それを見守りながら、ルイーダが笑顔で続けた。
「住所不定の旅芸人だけど、なかなか優秀よ。彼女」
「へえ…、リストに登録しておこうか?」
何やら意味深な会話をしている大人たちを尻目に、サンディがユールの頭の上で笑い転げていた。
「住所不定!ちょーうける!」
ルイーダの身もフタもない紹介がツボに入ったらしい。頭上でバタバタしている彼女を掴んで下ろしながら、ユールはどんよりとため息をついた。
もう今後はウォルロ出身と名乗ってしまおうか。あながち間違いでもないだろう。
「他の皆にも紹介したいから、こちらへどうぞ」
ジェームズに案内されて向かった先は従業員控室。そこで早々に一悶着が起こった。
リッカのオーナー就任に難色を示したのは、宿の金庫番を任されているレナ。鳶色の髪をきっちりまとめた気の強そうな女性で、他の従業員も彼女と同意見のようだった。
いくら才能があるといっても、やはり若すぎる…という点が最大の懸念材料となっていたのだ。
困惑するリッカをよそに、ルイーダは全く動じていなかった。そこで登場したのがあの宿王のトロフィーだ。
トロフィーの黄金の輝きに気圧された面々が、口々にリッカをオーナーとして歓迎すると言い出した。トロフィーを抱えたリッカを拝み出した者までいる。
「この人たちヘン!あのトロフィー、何かヤバいパワーでも持ってんじゃね?」
「宿王の名が持つ力、なのではないでしょうか」
サンディが人間たちの珍妙な行動におののいている。一方で、ユールは特に成り行きを心配していなかった。
(確かにここは大きな宿屋だが、リッカなら皆と力を合わせて上手くやっていけるだろう)
リッカの凄さは、トロフィーなどなくても重々承知だ。
新オーナーの元でいろいろと準備や支度があるのだろう。ルイーダから「夕飯の時間まで城下町見物してきなさい」と言われたユールは街へ出て、何となく気の向いた方へぶらぶら歩いてみることにした。
目印として大きな城があるので方角を見失うことはないのだが、歩けば歩くほど、どんどん人気のない方へ向かっているようだ。
「ちょっとー。ここ家しかないんですケドー。アンタ人ん家に何か用でもあるワケ?」
「いやあ、道なりにただ歩いているだけなんですけど」
「城はあっちでしょ?それ目指して歩けばニギヤカな所へ出るはずっ。ホラホラ、行こうよユールー!」
家の裏手で何やら踏ん張っている老人を手伝おうとして邪険に追い払われたりしながら、ユールたちはようやく大通りに戻ってきた。知らぬ間に随分と街の奥まで来ていたらしい。城の跳ね橋がもうすぐそこだ。
「帰りはこの大通りをまっすぐ帰ればいいんですね。分かりやすいなあ」
「行きもこの大通りをまっすぐ来ればすぐだったんじゃね?」
ユールの頭の上で腹ばいになり、サンディはすっかり不貞腐れている。
それをまあまあと宥めながら、リッカにもらったおこづかいで何か買おうかなと、ユールは通り沿いの武器屋や防具屋をのぞいてみた。
機嫌を直したサンディが武具を「こーでぃねーと」と称していろいろ見繕ってくれた。残念なことに、どれもユールの小さすぎる体格さえ考えなければ素晴らしい組み合わせだった。
「私の体と懐具合をもうちょっと考えて下さらないと」
「それじゃあ、ちっちゃくまとまっちゃって面白くないっての!」
サンディのアドバイスを受けつつ、ユールが比較的安価な皮の装具をとっかえひっかえしていると、一人の少女が話しかけてきた。
「ねえ!あなた不思議な格好をしてるわね!」
「は?」
「その服真っ黒だったら完璧だったのになあ、惜しいなあ」
「これで黒は地味すぎじゃね?」
天使の装束を褒められて悪い気はしなかったが、ユールもサンディと同意見だ。代わりに、黒がお好きなんですかとユールは少女に尋ねてみた。
「知らないの?今セントシュタインで流行中の小悪魔ファッションよ!」
「こあくま…」
街の外に見習い悪魔ならうろついていたが、あれは黒じゃなくて緑だったかとユールは思い直した。
「そうだ!あなた旅人でしょ?よるのとばりって持ってない?」
「とばり、ですか…」
持ってたらちょうだいと彼女に迫られたが、あいにく持ち合わせがない。
ジュリアと名乗った娘は、それでも諦めず、
「セントシュタインの北の方にいる、かまっちとかいう魔物が持ってるらしいわよ。あたしいつもここに服を見に来てるから、旅の途中でとばりを見つけたらここに来て!お礼をするわ!」
そう言い置いて、ジュリアは去っていった。
頼まれごとをされると断れない。どうにかして希望を叶えてやりたいと思うユールは、しばし悩んだ。
夜の帳は微かだが闇の力を持っているため、魔物が身に纏っていることが多い。人間は滅多に入手できない貴重な布だ。
「う…ん、道具屋になら売っているかなあ」
「とびっきり怪しげな品物を扱ってる所じゃないと難しいんじゃない?」
サンディの言うような怪しげな道具屋を探すことにして、ユールは大通りに戻った。
「あ、あの店何だか渋いっぽいヨ?」
「渋いと怪しいは違うと思います」
「いいからいいから!あの店構え、タダモノじゃないカンジだって!」
サンディに半ば引きずられるようにして、ユールは一軒の店の前へとやって来た。
ガランガランとくぐもったベルの音と共に重い木の扉を押し、中に入る。何かの薬だろうか、つんと鼻を刺す香りがした。窓がほとんど無く薄暗い店内には、瓶詰めの草やキノコ、ラベルのついた木箱が数え切れないくらい並んでいる。物は多いが店内は整頓されており、居心地は悪くはなかった。
奥のカウンターで話し込んでいた若い男女が、揃ってこちらを見ていた。
カウンターにもたれるように立っているのは、ふわふわ波打つ銀髪と浅黒い肌のコントラストが美しい美女。カウンターの椅子に腰掛けて何やら荷を分けているのは、癖のない黒髪を肩まで伸ばした生真面目そうな青年だ。
「あら、可愛らしいお客さん」
体を起こした美女がうっとりと笑った。さらりと背に流れた髪まで美しい。幼ささえ感じられるつぶらな赤い瞳が、彼女の大人びた雰囲気とは裏腹で印象的だ。
「あ、いえ!大した用事ではないので…」
動揺のあまり、ユールは手近な瓶詰めを引っつかんでお手玉しながら言った。
「ガジガジトカゲを買いに来たのかい?それは君にはまだ早いと思うよ。産前産後の養生薬だから」
青年に言われて手にした瓶をよく見ると、虫のおなかの模様がびっしりで相当気持ち悪い。ユールは顔を引きつらせたまま、瓶を元の場所に戻した。
「おつかいかな?小さいのに感心だね」
青年がカウンターから出てきて、ユールの前で膝をついた。彼女の目線に合わせてくれているらしい。
「あのー、こちらで夜の帳は扱っておりますか?」
「残念だけどうちは薬屋だからね、置いてないんだ。帳を何に使うんだい?」
「知り合いが欲しがってまして。やっぱりお店には売ってませんか?かまっちから取ってくるしかないですかね?」
「取ってくるって君が?馬鹿を言うもんじゃない。危険すぎる。かまっちは凶暴な魔物だよ」
天使だから多少凶暴な魔物でも無問題です、とは言えず、ユールはしょんぼりと黙り込んだ。
「…あったわ、店長」
「メル?」
先程の美女が衣服の隠しから取り出した黒い布切れをユールに差し出した。カウンターの蝋燭の明かりも通さない、闇を凝縮したかのような黒。
「どうぞ。小さいお嬢さん」
「え、いいんですか?」
もちろんと、メルと呼ばれた美女が笑う。夜の帳はしっとりとした手触りで、広げると風も無いのにヒラヒラはためいた。
「ありがとうございます!ああ、何と言うか…その…変な布ですね…」
ユールの率直な感想に、大人たちが吹き出した。そりゃあ闇の力を持つ布だからね、とサンディが呆れ気味に呟いた。
「お知り合いにもよろしくね」
ユールに悠然と微笑みかけた彼女は、カウンターに広げられた包みをいくつか手に取り、青年に銀貨を数枚渡し、二言三言会話をしたのち出ていった。
「綺麗な方ですね。確かメルとおっしゃる…?」
「彼女はメルフィナという魔法使いでね。この街で相棒と組んで便利屋のようなことをしているんだ。仕事が無い時はいつもルイーダの酒場にいるよ」
「私も酒場の上の宿屋に泊まってます。ええと、今日から」
「君も旅をしているのかい?」
「ええと、はい。そんな感じで」
どんな感じよ、とサンディがぼやいたが無視をする。そこでハタと思いついた。
これだけの大都市なら立派な天使像があるはず。天使像を通じて天使界と交信できれば、それが無理でもセントシュタインの守護天使がこちらを見つけてくれるのではないか。そして旅人なら天使像にお参りを希望しても何ら不思議ではない。
「そうだ。私、天使像にお参りしたいんですけど、どこにありますか?」
「お参りとは今時珍しいね。この街の人間は誰もそんなことしないのに」
苦笑いとともに言われた言葉に、ユールは少なからずショックを受けた。街の人々の不信心に文句を言っていた守護天使ボルタスの嘆きが唐突に蘇る。
「天使像は城内の広場にあるけど、君一人で行くんだろうね」
「え、小さいからダメですかね?」
返答を待つまでもなく、彼の顔に浮かんだ表情でばっちり分かってしまった。彼女一人で行っても、保護者と一緒に来なさいと衛兵に追い返されるのがオチだろう。
「私はこれから城に配達があるから、良ければ一緒に来るかい?」
「ぜひお願いします!店長さん!」
「はは…、私の名前はセラパレス。この薬屋の主だ。君は?」
「ユールと言います。ウォルロ村から来ました」
「ウォルロか。あそこの名水でないと作れない薬も多い。うちも大いに世話になっているよ」
挨拶がてらセラパレスと握手をする。彼の実直そうな青い目と整った顔立ちが、上級天使コルズラスを思い出させた。
(コルズラス様よりは若々しいけど、苦笑いがそっくり)
親しくしていた天使たちのことが無性に懐かしくなり、ユールは早く天使像を見に行きたくて仕方がなかった。
セラパレスが支度のために中座し、店内にユールとサンディだけになった時、
「どーよ、ユール。アタシの直感も侮れないでショ?」
「本当にすごいです。サンディ」
にまにまと、彼女たちは視線を交わし合った。
セントシュタインは世界一広大な領土を持つ国で、その歴史も古い。天使界の記録によれば、幾度となくくり返された戦乱の折にも、戦火を逃れてきた民のためにすすんで城門を開き、保護をしたとあった。
そうした大らかな気風を持つこの国は順調に発展を続け、長きに渡る繁栄を謳歌していた。
ウォルロ村を出立したユールたちは峠の道での休憩を経て、昼過ぎに城下町へ到着した。入口から城まで一直線に伸びる大通りは、午後ということもあり活気に満ちている。行き交う人々の間を縫うように、時折荷を積んだ馬車がガラガラと通り過ぎてゆく。
正門をくぐるとまず目に入る3階建ての建物がリベルトの宿屋だ。立派な外観やエントランスホールとは裏腹に、宿屋のカウンターは無人で、客室に続く階段にも人気が全く無かった。併設されている酒場にも、昼酒を呷る客がまばらにいる程度。
この寂れ具合は時間帯だけの問題ではなさそうだ。ユールがぼんやりホールの天井を眺めていると、黒いエプロンとベストを身に着けた男性がカウンターの奥から姿を現した。
「ああ、ルイーダ!本当に無事だったんだね!」
彼はぱっと表情を変えて、ルイーダの方へ駆け寄ってきた。
「ジェームズ!心配かけてごめんなさい。今日帰るって手紙を出しておいたはずだけど、まだ届いてない?」
「君の手紙は見たが、実際に元気にしてる姿を見るまで信じられなくてね。それで、こちらが例の…?」
ジェームズの視線に促されるようにして、リッカが前へ進み出て挨拶をした。
「はじめまして。リッカといいます。今日からこちらでお世話になりますっ」
こちらこそ、とジェームズが笑顔で挨拶に応える。後ろに撫で付けた黒髪とチョビヒゲが少々キザっぽい彼は、酒場のバーテンダー兼料理人兼宿屋の用心棒。ルイーダが不在の間は彼が中心となってこの宿屋を守ってきたそうだ。
「用心棒にしちゃ、この人ちょっとヒョロすぎじゃね?」
ユールの頭に乗っかったサンディが言った。
「ヒョロいだなんてとんでもない。彼は相当の手練れですよ。動きが素早く無駄がないですから、武闘家なのでしょう」
ユールとサンディがこっそり話していると、その「独り言」がジェームズの興味を惹いたらしい。
「おや、妹さんと一緒に旅をして来たんですか?」
「いやいやいや!」
ジェームズの勘違いに、リッカとユールは揃って首を振った。
肩で切り揃えた髪形といい、背格好が似通っている2人だが、面差しは当然ながら全く似ていない。
「この子は私の恩人で、リッカの友達で、生まれ変わったこの宿屋のお客様第一号よ」
「ユールといいます。はじめまして」
ユールは深々と頭を下げた。それを見守りながら、ルイーダが笑顔で続けた。
「住所不定の旅芸人だけど、なかなか優秀よ。彼女」
「へえ…、リストに登録しておこうか?」
何やら意味深な会話をしている大人たちを尻目に、サンディがユールの頭の上で笑い転げていた。
「住所不定!ちょーうける!」
ルイーダの身もフタもない紹介がツボに入ったらしい。頭上でバタバタしている彼女を掴んで下ろしながら、ユールはどんよりとため息をついた。
もう今後はウォルロ出身と名乗ってしまおうか。あながち間違いでもないだろう。
「他の皆にも紹介したいから、こちらへどうぞ」
ジェームズに案内されて向かった先は従業員控室。そこで早々に一悶着が起こった。
リッカのオーナー就任に難色を示したのは、宿の金庫番を任されているレナ。鳶色の髪をきっちりまとめた気の強そうな女性で、他の従業員も彼女と同意見のようだった。
いくら才能があるといっても、やはり若すぎる…という点が最大の懸念材料となっていたのだ。
困惑するリッカをよそに、ルイーダは全く動じていなかった。そこで登場したのがあの宿王のトロフィーだ。
トロフィーの黄金の輝きに気圧された面々が、口々にリッカをオーナーとして歓迎すると言い出した。トロフィーを抱えたリッカを拝み出した者までいる。
「この人たちヘン!あのトロフィー、何かヤバいパワーでも持ってんじゃね?」
「宿王の名が持つ力、なのではないでしょうか」
サンディが人間たちの珍妙な行動におののいている。一方で、ユールは特に成り行きを心配していなかった。
(確かにここは大きな宿屋だが、リッカなら皆と力を合わせて上手くやっていけるだろう)
リッカの凄さは、トロフィーなどなくても重々承知だ。
新オーナーの元でいろいろと準備や支度があるのだろう。ルイーダから「夕飯の時間まで城下町見物してきなさい」と言われたユールは街へ出て、何となく気の向いた方へぶらぶら歩いてみることにした。
目印として大きな城があるので方角を見失うことはないのだが、歩けば歩くほど、どんどん人気のない方へ向かっているようだ。
「ちょっとー。ここ家しかないんですケドー。アンタ人ん家に何か用でもあるワケ?」
「いやあ、道なりにただ歩いているだけなんですけど」
「城はあっちでしょ?それ目指して歩けばニギヤカな所へ出るはずっ。ホラホラ、行こうよユールー!」
家の裏手で何やら踏ん張っている老人を手伝おうとして邪険に追い払われたりしながら、ユールたちはようやく大通りに戻ってきた。知らぬ間に随分と街の奥まで来ていたらしい。城の跳ね橋がもうすぐそこだ。
「帰りはこの大通りをまっすぐ帰ればいいんですね。分かりやすいなあ」
「行きもこの大通りをまっすぐ来ればすぐだったんじゃね?」
ユールの頭の上で腹ばいになり、サンディはすっかり不貞腐れている。
それをまあまあと宥めながら、リッカにもらったおこづかいで何か買おうかなと、ユールは通り沿いの武器屋や防具屋をのぞいてみた。
機嫌を直したサンディが武具を「こーでぃねーと」と称していろいろ見繕ってくれた。残念なことに、どれもユールの小さすぎる体格さえ考えなければ素晴らしい組み合わせだった。
「私の体と懐具合をもうちょっと考えて下さらないと」
「それじゃあ、ちっちゃくまとまっちゃって面白くないっての!」
サンディのアドバイスを受けつつ、ユールが比較的安価な皮の装具をとっかえひっかえしていると、一人の少女が話しかけてきた。
「ねえ!あなた不思議な格好をしてるわね!」
「は?」
「その服真っ黒だったら完璧だったのになあ、惜しいなあ」
「これで黒は地味すぎじゃね?」
天使の装束を褒められて悪い気はしなかったが、ユールもサンディと同意見だ。代わりに、黒がお好きなんですかとユールは少女に尋ねてみた。
「知らないの?今セントシュタインで流行中の小悪魔ファッションよ!」
「こあくま…」
街の外に見習い悪魔ならうろついていたが、あれは黒じゃなくて緑だったかとユールは思い直した。
「そうだ!あなた旅人でしょ?よるのとばりって持ってない?」
「とばり、ですか…」
持ってたらちょうだいと彼女に迫られたが、あいにく持ち合わせがない。
ジュリアと名乗った娘は、それでも諦めず、
「セントシュタインの北の方にいる、かまっちとかいう魔物が持ってるらしいわよ。あたしいつもここに服を見に来てるから、旅の途中でとばりを見つけたらここに来て!お礼をするわ!」
そう言い置いて、ジュリアは去っていった。
頼まれごとをされると断れない。どうにかして希望を叶えてやりたいと思うユールは、しばし悩んだ。
夜の帳は微かだが闇の力を持っているため、魔物が身に纏っていることが多い。人間は滅多に入手できない貴重な布だ。
「う…ん、道具屋になら売っているかなあ」
「とびっきり怪しげな品物を扱ってる所じゃないと難しいんじゃない?」
サンディの言うような怪しげな道具屋を探すことにして、ユールは大通りに戻った。
「あ、あの店何だか渋いっぽいヨ?」
「渋いと怪しいは違うと思います」
「いいからいいから!あの店構え、タダモノじゃないカンジだって!」
サンディに半ば引きずられるようにして、ユールは一軒の店の前へとやって来た。
ガランガランとくぐもったベルの音と共に重い木の扉を押し、中に入る。何かの薬だろうか、つんと鼻を刺す香りがした。窓がほとんど無く薄暗い店内には、瓶詰めの草やキノコ、ラベルのついた木箱が数え切れないくらい並んでいる。物は多いが店内は整頓されており、居心地は悪くはなかった。
奥のカウンターで話し込んでいた若い男女が、揃ってこちらを見ていた。
カウンターにもたれるように立っているのは、ふわふわ波打つ銀髪と浅黒い肌のコントラストが美しい美女。カウンターの椅子に腰掛けて何やら荷を分けているのは、癖のない黒髪を肩まで伸ばした生真面目そうな青年だ。
「あら、可愛らしいお客さん」
体を起こした美女がうっとりと笑った。さらりと背に流れた髪まで美しい。幼ささえ感じられるつぶらな赤い瞳が、彼女の大人びた雰囲気とは裏腹で印象的だ。
「あ、いえ!大した用事ではないので…」
動揺のあまり、ユールは手近な瓶詰めを引っつかんでお手玉しながら言った。
「ガジガジトカゲを買いに来たのかい?それは君にはまだ早いと思うよ。産前産後の養生薬だから」
青年に言われて手にした瓶をよく見ると、虫のおなかの模様がびっしりで相当気持ち悪い。ユールは顔を引きつらせたまま、瓶を元の場所に戻した。
「おつかいかな?小さいのに感心だね」
青年がカウンターから出てきて、ユールの前で膝をついた。彼女の目線に合わせてくれているらしい。
「あのー、こちらで夜の帳は扱っておりますか?」
「残念だけどうちは薬屋だからね、置いてないんだ。帳を何に使うんだい?」
「知り合いが欲しがってまして。やっぱりお店には売ってませんか?かまっちから取ってくるしかないですかね?」
「取ってくるって君が?馬鹿を言うもんじゃない。危険すぎる。かまっちは凶暴な魔物だよ」
天使だから多少凶暴な魔物でも無問題です、とは言えず、ユールはしょんぼりと黙り込んだ。
「…あったわ、店長」
「メル?」
先程の美女が衣服の隠しから取り出した黒い布切れをユールに差し出した。カウンターの蝋燭の明かりも通さない、闇を凝縮したかのような黒。
「どうぞ。小さいお嬢さん」
「え、いいんですか?」
もちろんと、メルと呼ばれた美女が笑う。夜の帳はしっとりとした手触りで、広げると風も無いのにヒラヒラはためいた。
「ありがとうございます!ああ、何と言うか…その…変な布ですね…」
ユールの率直な感想に、大人たちが吹き出した。そりゃあ闇の力を持つ布だからね、とサンディが呆れ気味に呟いた。
「お知り合いにもよろしくね」
ユールに悠然と微笑みかけた彼女は、カウンターに広げられた包みをいくつか手に取り、青年に銀貨を数枚渡し、二言三言会話をしたのち出ていった。
「綺麗な方ですね。確かメルとおっしゃる…?」
「彼女はメルフィナという魔法使いでね。この街で相棒と組んで便利屋のようなことをしているんだ。仕事が無い時はいつもルイーダの酒場にいるよ」
「私も酒場の上の宿屋に泊まってます。ええと、今日から」
「君も旅をしているのかい?」
「ええと、はい。そんな感じで」
どんな感じよ、とサンディがぼやいたが無視をする。そこでハタと思いついた。
これだけの大都市なら立派な天使像があるはず。天使像を通じて天使界と交信できれば、それが無理でもセントシュタインの守護天使がこちらを見つけてくれるのではないか。そして旅人なら天使像にお参りを希望しても何ら不思議ではない。
「そうだ。私、天使像にお参りしたいんですけど、どこにありますか?」
「お参りとは今時珍しいね。この街の人間は誰もそんなことしないのに」
苦笑いとともに言われた言葉に、ユールは少なからずショックを受けた。街の人々の不信心に文句を言っていた守護天使ボルタスの嘆きが唐突に蘇る。
「天使像は城内の広場にあるけど、君一人で行くんだろうね」
「え、小さいからダメですかね?」
返答を待つまでもなく、彼の顔に浮かんだ表情でばっちり分かってしまった。彼女一人で行っても、保護者と一緒に来なさいと衛兵に追い返されるのがオチだろう。
「私はこれから城に配達があるから、良ければ一緒に来るかい?」
「ぜひお願いします!店長さん!」
「はは…、私の名前はセラパレス。この薬屋の主だ。君は?」
「ユールと言います。ウォルロ村から来ました」
「ウォルロか。あそこの名水でないと作れない薬も多い。うちも大いに世話になっているよ」
挨拶がてらセラパレスと握手をする。彼の実直そうな青い目と整った顔立ちが、上級天使コルズラスを思い出させた。
(コルズラス様よりは若々しいけど、苦笑いがそっくり)
親しくしていた天使たちのことが無性に懐かしくなり、ユールは早く天使像を見に行きたくて仕方がなかった。
セラパレスが支度のために中座し、店内にユールとサンディだけになった時、
「どーよ、ユール。アタシの直感も侮れないでショ?」
「本当にすごいです。サンディ」
にまにまと、彼女たちは視線を交わし合った。
登録:
投稿 (Atom)