夕日を受けて金色に輝く大地を、北へ。
ユールと3人の仲間たちは、黒騎士との約束の地であるシュタイン湖を目指して北上を続けていた。
途中、大地震の直後から日増しに凶暴になってきている魔物たちに何度か遭遇した。いずれも危なげなく撃退し、特に問題なく進んできていたのだが、一行は迫り来る日没を前に途方に暮れていた。
セントシュタインの城下町を出てすぐの、橋を渡った所に湖への案内板が立っていた。その指示通りに北へ進んでいたのだが、一向に湖が見えて来ないのだ。
城でもらった地図は古く、絵が大雑把で街道なのか川なのかすら区別がつかないようなシロモノで、全く頼りにならなかった。
「シュタイン湖は地元の人間もあまり足を踏み入れない場所だからな。私も道はよく知らないんだ」
セラパレスが茜色の空を仰いでため息をつきつつ、言った。
「それにしても、随分長いこと麦畑の中を歩いてるぞ。おかしくないか?」
ばさばさと目の前の麦を掻き分けつつ、アスラムが言った。
「地図だと、森の所で東に曲がることになっているんですが」
森なんてありましたっけ、とユールが首をかしげつつ、言った。
「この道の先に、目印の森があるのかしら」
夕暮れの匂いを纏った風に目を細めつつ、メルフィナが言った。
「そもそもこの道はどこに繋がっているんでしょう?」
「地図に書いてあるはずじゃね?」
ユールの頭上で欠伸と伸びをしつつ、サンディが言った。
「しかし、どこまでも麦だな。黄金色が眩しいぜ」
「皆さん、提案なのですが、一度、来た道を戻った方が良いように思います」
「…いや、時間切れだろうな。もう間もなく日が暮れる。この先にエラフィタ村があるから、そこでちゃんと道を確認して明日出直すことにした方がいい」
一行が麦畑のはずれに巨大な桜の木とこじんまりとした集落を見つけたのは、それから間もなくのことだった。
エラフィタ村で唯一の宿屋で、さっそく女将に湖までの道のりを聞いた。
麦畑に入る前に目印の森を通過してしまったことを知った4人は愕然とした。道を間違えなければ、今日の昼過ぎには湖に着いていたはずだったのだ。
「おいおい、オレたちの一日は何だったんだ?」
「黒騎士の出した期限は明日よ。焦らずに行きましょう」
大人たちは宿の部屋で思い思いに過ごすというので、ユールはサンディと共に村の探検に出かけてみることにした。
エラフィタの名物である桜のご神木は、集落全体を覆い隠さんばかりにその枝を広げている。村のどこからでもその姿を見ることができた。赤に染まる夕暮れの中、淡い色の花びらがひときわ目を引いた。
村はちょうど夕飯の刻限で、あちこちの家の煙突から煙が上り、おいしそうな匂いが漂っていた。
エラフィタの天使像は宿を出てすぐの所にあった。ご神木を背に鎮座している天使像は、何と崩れて顔が無くなっていた。像としての原型を留めていないので、ユールも道端の石かと思って素通りしかけたくらいだった。
「コレ大丈夫なの?天使像じゃなくてただの石、なんですケド」
と、サンディに聞かれたユールは笑って、
「ちゃんといらっしゃいますよ。カサクという男性の上級天使で、よくここの桜を肴にお酒を嗜んでらっしゃいます。天使像はこんな状態ですけど、村の守護に影響はありませんから大丈夫。ご神木もありますから、エラフィタの守りはよそより厚いですよ」
「ふーん。おっさんの守護天使かあ。何かイメージ違うんですケド」
セントシュタインの時と同じく、像の周りにカサクの気配は感じられない。
同胞たちの声が聞けないというのは、今まで生きてきて初めてのことで、ユールは大層心細かった。
ひとまず村を一周し、教会でお祈りをしたり、村で一軒のよろず屋でこまごまとした買い物をしたりした後、彼女は散歩を切り上げて宿に戻った。
夕食に出た、エラフィタ特産の小麦粉を使って焼き上げたパンは素晴らしくおいしかった。
「ウォルロも名水のおかげでパンがおいしいんですけど、エラフィタのはもう格別ですねえ」
夕食後、仲間たちと桜のお茶を味わいながら、ユールは興奮気味に言った。
天使のユールは本来食事を摂らなくても十分動ける。しかし、トルクアムの料理に鍛えられた食いしん坊精神は、見るもの全てが目新しい人間界において遺憾なく発揮されていた。
「ほんのりと桜の味がしていたね。パンもお茶も桜の花びらをうまく使っているようだ」
ユールの茶碗におかわりを注いでやりながら、セラパレスが言った。
「ありがとうございます。…あの桜は枯れることなく、ああして綺麗な花を一年中咲かせ続けているみたいです」
ユールは、教会で読んだ絵本『エラフィタむらのごしんぼくさま』の内容を思い出しながら言った。
「枯れない花、か。ひょっとしてエラフィタのご神木には天使が宿ってるんじゃないか?女神のように美しく、桜の花のように可憐な乙女が守護する村。いいじゃないか」
「アス。村の天使像はボロボロだったようだけど?」
「野暮ったい石像なんかやめて、ご神木に住み替えたのさ」
(エラフィタの守護天使が、酔っ払いのおっさんですみません…)
アスラムとメルフィナのやり取りをよそに、ユールは一人申し訳ないような気持ちになっていた。
食堂でしばらくくつろいだ後、明日の予定を皆で確認してから、4人はそれぞれの部屋へと戻った。
宿泊手続きをしたメルフィナとアスラムが当然のように同室を希望したため、必然的にユールとサンディはセラパレスと同室ということになった。
「あの2人、やっぱり!」
ベッドの枕をバシバシ叩いて、キャーキャーとサンディがはしゃいでいる。傍らで荷物整理をしていたユールはその理由が良く分からず放っておくことにした。
セラパレスは女将に用事があるとかで出かけており、隣のベッドはカラだ。
「アンタね…。天使の修行にレンアイなんて項目が無かったのはよーっく分かってますケド!若さが足りてないヨ!」
「はしゃぐほどのことですかねえ。人間の男女の間ではごくありふれた現象ですし、当然あるべきことじゃないですか」
ユールの言葉に、サンディは心底呆れたように首を振った。
「ああ、ダメ。ダメだわ。全然ダメ」
「えー」
サンディの話に適当に相槌を打ちながら、ユールは荷物をベッドの下に置き、よろず屋で買ってきた本を手に取る。『守れ、麦!』というその本はかなり分厚く、挿絵なども一切ない。何とも難しそうな本だった。
読書を始めたユールが構ってくれず、不貞腐れたサンディはさっさと先に寝てしまった。嫌がらせのように、ユールの枕を占領している。
「何を読んでいるんだい?」
「あ、おかえりなさい」
熱中して読みふけっていたら、いつの間にかセラパレスが戻って来ていた。彼女が手にしている本を興味深そうに覗き込んでくる。
「麦と農民たちの間で繰り広げられた、血湧き肉踊る一大巨編!…になる予感がします。まだ半分も読んでいないのです」
「…何だかよく分からないが、すごそうな本だね」
「読んでいる内に、私も麦を守りたくなって来ました。彼らはおいしいパンになる運命を背負っているのですから」
「麦もまあまあ大事だが、明日に備えて早めに寝なさい。いよいよ黒騎士と刃を交えることになるんだぞ」
「はい、そうします」
天使なので睡眠は不要なのだが、説明するとややこしい。ここは敢えて反論せず、ユールは素直に彼の言葉に頷いた。
布団の中で長い夜をどう過ごそうかしばし考え、ユールは隣で寝ているサンディをつついた。
「ねえサンディ。これからご神木を見に行きませんか。夜桜がきっと綺麗ですよ」
「ハァ?木なら夕方見たじゃん…。アタシ眠いからパス。夜更かしは美容に悪いし」
面倒くさそうに片目を開けた彼女に、すげなく断られてしまった。
「じゃあ、一人で行ってきますよ…」
自分の荷物をベッドの中へ押し込んで就寝中らしく偽装してから、ユールは夜の散歩に出かけた。
農業を生業としているエラフィタの村人たちは、おしなべて夜が早い。生き物の気配すらなく、村にはただ静謐な夜の空気が満ち溢れていた。
ユールの立てる小さな足音が、思いの外大きく響く。ご神木の根元まで行く途中、夜風に散る花びらが雨のように彼女の上へと降り注いだ。
何とも不思議なことに、ご神木の枝々を彩る桜の花は、どれほど時が経っても色褪せず、常にそこにあるのだ。
「あれ?」
ご神木の根元には先客がいた。薄手のローブにアスラムの上着を羽織ったメルフィナが、ユールの気配を察して振り向いた。
「こんな時間に一人で出歩くなんて。夜道は危ないわよ」
「あなたこそ」
ユールとメルフィナは2人並んでご神木を見上げた。思いつくまま言葉を重ねる。
「この桜の花は、散っても散っても減りませんねえ」
「エラフィタ村に暮らす人たちの思い、願いがご神木に届いて、花を咲かせ続けているのかも知れないわね」
「人の心を汲み取ってくれるなんて、さすがはご神木ですね」
くすりと小さく笑みをこぼし、メルフィナはユールに向き直った。
「ところでユール。あの小さな妖精さんは一緒じゃないの?」
メルフィナが発した問いに、ユールはぎくりとした。
(見えているのだろうか。彼女は人間だからそれはありえないはず…)
「…えーと。夜更かしは美容に良くないからと、部屋で寝ています」
ひとまず様子をみようと、ユールは適当に彼女の話に合わせておくことにした。返答まで不自然にあいた間については気づかぬフリで、メルフィナは「そう」とだけ言った。
そこから会話が途切れてしまった。夜の闇とも相まって、静寂が重苦しくユールにのしかかる。
何か言わなきゃと内心で焦る彼女とは対照的に、落ち着き払った声音でメルフィナが言った。
「ルイーダの酒場であなたが語った身の上話を、思い出していたのだけど」
どんなことだろう。ユールは額に嫌な汗が浮かんでくるのを感じた。
「あなたが天使でも魔物でも、ちょっと変わった人間の女の子でも構わない。あなたにはあなたの目的があり、私にも私の目的がある。あなたと私の向かう先が一致している間は、手を取り合って進めるわ。そうでしょう?」
「…メルフィナさん。あなたは私を大嘘つきだとはおっしゃらないんですね」
「もし本当に大嘘つきなら、今のうちに話しておいてもらえるかしら」
新しく対処法を考える、とにっこり笑顔で言われたが、その対処法の内容は恐ろしくてとても聞けなかった。
「私の身の上話…我がことながら、信じていただけるとは到底思えないのですが」
「世界はいろいろな謎に満ちている。その謎の答えを知りたくて私は旅に出たのだけど…これまでに本当に多くのものを見てきたわ。だからかしら。あなたのことも、あなたの小さな妖精さんのことも、すんなり納得できたのね」
「では、アスラムさんは、このことは…?」
メルフィナはゆるりと首を振った。
「よろしければお話しいただいても構いませんよ。アスラムさんはあなたの、その、パートナーなのでしょう?あっ、これはむしろメルフィナさんが頭の具合は大丈夫かと心配されてしまうような内容です、よね…」
困りましたね、とあちこち視線をさまよわせるユールに、メルフィナはふふ、と笑みを浮かべた。
「しかるべき時が来れば、知るべき者の前に、おのずと真実が明るみに出るわ」
そろそろ冷えてきたから宿に戻りましょう、と彼女に促されて、ユールは来た道を歩き出した。
自分はこのまま天使界に戻れないのではないか、という甚だありがたくない未来がふとユールの頭をよぎった。
(もし万が一そうなったとしても自分には仲間たちがいる。だから大丈夫)
根拠のない、奇妙な安心感だった。出会って2日目の、しかも人間相手に抱く感情としてはいささか行き過ぎのように思われたが、目まぐるしい日々の中で混乱しているユールの中で確かなものはこれだけだった。
彼女は並んで歩くメルフィナに正直にそう告げてみた。よほど心細そうな顔をしていたのか、よしよしと優しく頭を撫でられてしまった。
「ご期待に添えると思うわ、天使さん。安心なさい」
柔らかく微笑むメルフィナの赤い瞳が、月光を受けてきらめいた。
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