2010年8月27日金曜日

脱出

 外に出ると、朝日がやけに眩しかった。
 「まずは、ここからだな!」
 良く晴れた空の下、3人はリッカの家の横にある井戸の前に集まった。この井戸は村で最も深く大きいものだ。水汲みだけでなく、底にできている小さな陸地を物置として活用しているのだ。
「じゃあ、後は任せたぜ!」
「え?」
 ユールと子分に軽く手を上げ、ニードは歩いていってしまった。
「ニードさん!井戸掃除は?ちょっとどこへ行くんです!」
 オロオロするユールとは対照的に、落ち着き払った子分が言った。
「2人でやれば一日で終わるだろうって、さっき言っただろ」
「2人って、この2人ですか!」
 ユールはさすがに腹が立ったが、このままここで待っていてもどうせニードは戻ってこない。
 子分の方はこうしたことに慣れているようで、さっさと井戸の底へ降りていってしまった。彼女も諦めて彼についていくことにする。
 井戸に備え付けられた簡素な縄梯子で底へ下りられるようになっている。ニードの子分がカンテラに明かりを灯すと、ぼんやりと内部の様子が見て取れた。物置といってもツボや樽や箱などが隅に寄せられ、小奇麗に片付いていた。
「見たところ、そんなに散らかってはいないようですね」
「井戸掃除っていっても、今回のは村長がニードさんを懲らしめる意味合いが強いからな。井戸さらいは先週やったばかりだし、中が散らかってて誰かが困ってるわけでもないし」
 当事者の一人とはいえ、この差し迫った状況で形だけのお仕置きに巻き込まれてはたまったものではない。逃げたニードにユールはますます腹立ちを募らせた。
 2人は手近な樽に並んで腰掛けた。カンテラを脇に置き、子分がおもむろに口を開く。
「さっきここに来る途中で昨日の話を聞いたんだが…オレが言うのも変な話だけど、ニードさんを守ってくれてありがとよ。目立ちだがりで考えなしの困った人だけど、オレあの人のこと嫌いじゃねーんだよな」
「ご本人はあなたに面倒を押し付けて逃げちゃいましたけどね」
 憤懣やるかたない思いで、ユールが混ぜ返した。
「これくらい、面倒でもないさ。あんたも昼間は何かテキトーに作業してるっぽく動き回ってればいい。夕方になりゃ、ニードさんも戻ってくる」
 ユールは意を決して樽から降り、彼の前に立った。井戸の底は暗く、カンテラの乏しい明かりでは相手の顔はよく見えなかった。
「…子分さん。我侭を言えた立場でないことは重々承知していますが、私はこんなことをしている場合ではないのです」
「オレの名前は子分じゃなくてウィックだ。まあいいけどよ。…つーか、あれだろ。ルイーダって女のことだろ」
「はい」
「助けに行くのか。あんた一人で」
「私にしか出来ないと思います。ただ昨日の今日でまた私が村を出るのは、問題があると思います。リッカさんにご迷惑とご心配をおかけするのは本意ではありません」
 彼女の話を聞いたウィックはしばし無言だった。やがて、
「日暮れまでにここへ戻って来い。村の外に出るなら、人目のある正門は避けて裏の森からにした方がいいだろう。昨日はそこを通って帰って来たんだったよな。道は分かるな?」
 ユールが大丈夫ですと返事をすると、遠回りになるのは我慢しろ、とウィックが付け加えた。
「もし村の連中に見つかったら、手分けして井戸掃除してるって言っとけ。俺はここで昼寝でもしてるさ。…気をつけろよ」
「はい…はい!ありがとうございます、ウィックさん!」
 ユールは何度も何度も頭を下げてお礼を言った。ウィックに早く行けと急かされるまで。
 彼女が縄梯子を上って地上に出ようとしたら、洗濯に来たらしき奥さんが2人、井戸の前に陣取って立ち話を始めてしまった。
 彼女たちの話題の中心は、行方不明のルイーダのことだった。
「それにしても、女一人でお城からこんなに遠い村まで来ようだなんて、どれだけ大事な用件だったのかしら」
「キサゴナ遺跡を通ったかも知れないんでしょ?中には魔物がウヨウヨいるっていうのに…よっぽど腕に自信があるのねえ」
「きっと、ボストロールみたいにムキムキマッチョな女なんじゃない?」
 ボストロールって。会話の切れ目を探してじりじり待機していたユールは、思わず口の中でツッコミを入れた。
 人間だか魔物だか分からないわと、主婦2人は洗濯そっちのけで笑い転げている。洗濯しないなら帰ってくれないかなと、ユールは声に出して言いたいのを堪えた。
 天使は、いついかなる時でも苛立ちを表に出してはならない。師の教えだ。
「人間だか魔物だかって言えば、リッカさんの所のユールさんも不気味よね?何かぼや~っとしてる子だけど、謎だらけでアヤシイじゃない」
「そうそう!村長の息子さんと一緒に村の外に出て、魔物を蹴散らしたんですって!あの小さい子が!」
 今度は、あらまぁとため息が聞こえてきた。
 まだまだ彼女たちの話は続きそうだと判断したユールは、自分の名前が出たのをきっかけに思い切って表に出ることにした。
 よいしょと井戸から這い上がってきた少女を目にして、女性たちがそれこそ魔物を目の前にしたかのような、けたたましい悲鳴を上げる。
「お騒がせしてすみません。失礼しますよ」
「あ、あらユールさん…。おほほ、いるならいると言って下さいな」
「驚かさないで下さいな本当に…。あなた、こんな所で一体何を?」
 ユールは満面の笑みで、その質問に答えた。
「井戸掃除です」

0 件のコメント:

コメントを投稿